天皇は、これをたいそう喜ばれ、野見宿禰に詔して、「おまえの適切な処置はまったく私の気持にかなった」と仰せられた。そこで、その土物を、はじめて日葉酢媛命の墓に立てた。そしてこの土物を名づけて埴輪はにわという。あるいは立物たてものとも名づけた。そこで命を下して、「いまより以後、陵墓にはかならずこの土物を立てて、人をば損そこなってはならない」と仰せられた。
僕の口演だと、ここで「ジンムスイゼイアンネイイトクコウショウコウアンコウレイコウゲンカイカスジンスイニン……」とやるところですが(笑)、この垂仁天皇殉死代用説は早くに否定され、いま支持する考古学者はいないようです。埴輪の発展をかえりみると、人物埴輪が登場するのは古墳時代の後期に過ぎないのに、『日本書紀』では最初に人物埴輪が作られたように書かれているからです。こんな重要なことが、『古事記』ではまったく無視されているからです。
*途中で根津美術館に寄り道をしましたが、また東京国立博物館に戻ろうと思います。
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