この南畝がリードするかたちで、さらに早く狂歌ブームは興っていました。したがって虫詠題狂歌合が行なわれたのは、安永末年から天明初年であった可能性もありますが、いずれにせよ、天明6年にはこの虫合狂歌30首が南畝や飯盛の手元にあったのです。
それを彼らは筐底きょうていから引っ張り出してきて、蔦屋重三郎に頼み込み、天明8年正月に出版したのです。そこにはタイムラグがあったわけで、その理由こそ寛政の改革だったというのがマイ妄想と暴走です。
友松は晩年、桂宮家を創始した智仁 ともひと 親王のもとにしばしば出入りし、押絵の注文などを受けていたことが、記録から明らかになっているからです。畏友・河合正朝さんの『友松・等顔』<日本美術絵画全集 11 >(集英社 1978 年)によると、桂宮淑子 すみこ 関係の記録にある「...
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