そのときもアップしたように、結句の二喬というのは呉の喬玄が授かった二人の娘で、ともに絶世の美人であったそうです。ですから、もしも魏の曹操(武帝)が呉の周瑜や喬玄を打ちやぶっていたら、その美人姉妹は曹操の愛妾にされていただろう――というわけです。
実際は曹操が周瑜に大敗を喫してしまったので、のちに姉(大喬)は孫権の兄・孫策に嫁し、妹(小喬)は周瑜と結ばれたそうです。そこで愛妾を現代っぽく「愛人」にしながら戯訳を考えていたら、起承転結結みたいになっちゃいました(笑)
友松は晩年、桂宮家を創始した智仁 ともひと 親王のもとにしばしば出入りし、押絵の注文などを受けていたことが、記録から明らかになっているからです。畏友・河合正朝さんの『友松・等顔』<日本美術絵画全集 11 >(集英社 1978 年)によると、桂宮淑子 すみこ 関係の記録にある「...
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