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2024年2月7日水曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」8

 

詳細は本書をお読みいただくとして、摂津麻田藩が財政的に困窮し、伊予宇和島藩から養子を迎えるに際し、持参金を当てにしていたことを教えてくれます。当てにしているなんてものじゃ~ありません。一銭でも多く取ろうとして、懸命になっているんです。摂津麻田藩の窮状に対する同情を通り越して、まるでドタバタ喜劇を見ているようなおもしろさです。

おそらく田原藩も同じだったのでしょうが、麻田藩の場合には、本当に男子の跡継ぎがいなかったんです。持参金付き養子は珍しくなかったのでしょうが、田原藩においては持参金だけが目的だったように感じられてなりません。崋山が強硬に反対し、友信擁立派の先頭に立ったのは、やはりあまりにもミエミエだったからでもありましょう。

2024年2月6日火曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」7


さすがの芳賀徹先生も、「このような持参金めあての縁組をするというのはしばしばあったことなのかどうか、私は詳らかにしないが……」とお書きになっています。もちろん僕が詳らかにするはずもありません。

そこで大森映子さんの『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書368)には言及されているだろうと思ってページを繰ると、やはりありました。「第3章 養子をめぐる大名家の諸相」のなかの「養子洗濯の駆け引き――攝津麻田藩と伊予宇和島藩」です。

本書は幕府に対する無届けや年齢詐称、当主や嫡子の入れ替えなど、じつに愉快なお家相続の実態を教えてくれます。しかし僕が一番興味深く感じたのは、幕府がその実情をよく知りながら、まったく黙認していたという事実でした。

 

2024年2月5日月曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」6

 

しかし、多額の持参金こそ田原藩を今の窮状から救ってくれるのだ、それ以外の途はありえないとする現実主義が勝利を収めることになります。とはいえ、友信をずっと指導していた崋山には、彼のすぐれた才能と真率なる人柄が、よく分かっていたことでしょう。そうだとすれば、友信擁立は単に大義名分や東洋の仁義だけでなく、彼に対する人間的信頼に基づいていたことになります。

つまり友信と崋山は、現実主義の前に一敗地にまみれたわけです。佐藤昌介『渡辺崋山』(人物叢書)によれば、敗者となった友信は城内藤田丸に、崋山は藩校成章館に事実上軟禁されました。そのため崋山は一時自暴自棄におちいって、連日飲酒にふけったそうです。

「崋山先生、ヤケ酒は一番体に悪いんですよ!!


2024年2月4日日曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」5

 

なぜそんなことをしたのでしょうか? 酒井家が用意してくれる持参金が目当てだったんです。もともと貧乏藩だったところに、幕府から一ツ橋門番を命じられ、田原藩の財政は破綻したのも同然でした。「貧すれば鈍す」というヤツです。

重臣たちの危機感も分からないではありませんが、これに猛然と異をとなえ、東洋における正しい家系継承を主張し、三宅家の血を受け継ぐ友信を推したのが崋山でした。もちろん崋山一人ではありませんでしたが、友信擁立派の先頭に立ったのが崋山でした。崋山には藩主一家に対する絶大な恩義がありました。

2024年2月3日土曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」4

 

13代康明には子どもがありませんでしたから、お母さんが異なるとはいえ、康明の弟であり三宅家の正しい血筋を引く友信――当時22歳になっていた友信が、康明のあとを襲うのが正しく、継嗣の道にかなうことでした。そもそも三宅家は南朝の忠臣・児島高徳を祖とし、由緒正しき伝統を誇る家柄だったのです。それがここで絶えてしまうことを崋山は悲しく思ったのです。

ところが田原藩の重臣たちは、姫路藩15万石酒井雅楽頭忠実うたのかみただみつの六男である稲若(実宣みつのぶ)に白羽の矢を立てました。彼を養子として迎え入れ、田原藩を継がせることにしたんです。

2024年2月2日金曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」3

 

『崋山先生略伝』は崋山の伝記を調べるとき、もっとも重要な資料の一つですが、友信の師・崋山に対する尊敬の念に触れて目頭があつくなります。今回改めて『崋山全集』(崋山叢書出版会 1941年)を書架から引っ張り出し、付録として収められる『崋山先生略伝』を読みましたが、一点の曇りなき師弟関係にむしろ羨望を覚えたのでした。

 先の11代康友のあと、康友の子の康和が12代、その弟の康明が13代を受け継ぎますが、文政10年(18277月、康明が弱冠28歳で急になくなってしまいます。病のためだったそうです。

2024年2月1日木曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」2

 

 天保2年(1831920日、39歳の崋山は、弟子の高木梧庵をつれて厚木へ45日の旅に出ました。それはお銀さまを探す旅でした。お銀さまというのは、三宅友信の本当のお母さんです。友信は崋山が尊敬して止まなかった主人であり、また学問を教えた弟子でした。崋山が仕えた田原藩藩主三宅家の第11代は三宅康友でしたが、その側室お銀さまとの間にに生まれたのが友信でした。

 友信は崋山より13歳若年でしたが、崋山にとっては主君にも等しい人であり、学問のみならず、広く生き方を教えた愛弟子でもあったんです。主従と師弟がクロスするような関係にあったわけですが、両者の肝胆相照らすような関係は、崋山の言動からも、明治に入って友信が著わした『崋山先生略伝』からもよく分かります。 

荻生徂徠の賛酒詩がスゴクいい❣❣❣ 『荻生徂徠全詩』3<東洋文庫>饒舌館長ベストテン 8

  荻生徂徠「春日、君瑞・叔潭・潮師・子和集う。韻を青の字に分かたる」  江戸城南の草の色 色づき始める青々と……  二月の春風 芳しく 我が楊雄 ようゆう の 庵 いお に 吹く  侯芭 こうは の ごとき弟子が酒 一本 下げて来ないなら  『玄経』著者が住む辺も もの寂 しか...