140万アクセスを突破しました❣❣❣皆さんありがとうございました❣❣❣

2017年11月7日火曜日

泉屋博古館分館「典雅と奇想」2


一図一図が見るものの目を驚かし、脳みそを刺激し、心を揺さぶります。石涛が実際に黄山を訪れたのは、青年期の3度だけで、この画冊はその十数年後、南京で描かれたと推定されるそうです。

「先人に倣わず我が法によって描くのだ」と宣言した石涛ですが、その我が法も十数年という時間の中で、徐々にキャラがとがったものへと純化されていったのでしょう。同じく石涛による「黄山図巻」(泉屋博古館分館蔵)と「黄山図冊」(京都国立博物館蔵)も出陳されていて、神に代わって石涛が創り出した独自の黄山イメージを堪能させてくれます。

「僕の一点」に選んだのは、もちろんそんな石涛黄山に魅了されたからですが、1993年、「辻惟雄先生と行く江南の旅」を企画し、みんなで黄山に登った、忘れがたき思い出によるところでもあるのです。もっともその時は、梅雨にたたられ、あの絶景はほんの一瞬、排雲亭から拝めただけだったのですが……。

2017年11月6日月曜日

泉屋博古館分館「典雅と奇想」1


泉屋博古館分館「典雅と奇想 明末清初の中国名画」(12月10日まで)

 先日紹介した我が静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」とのコラボレーション展です。僕たちは同じく明末清初の中国絵画をテーマに選び、ほぼ期を一にして特別企画展を開催し、この豊饒にして刺激的なアートを、心行くまで満喫していただこうと思って企画しました。半券割引や「ぐるっとパス」を使って、両館を回っていただければ、きっと新しい中国絵画の世界にいざなわれることでしょう。

静嘉堂展が日本目線に軸足を置くのに対し、泉屋博古館分館展は本家目線であると言ってよいかもしれません。泉屋博古館コレクションのほか、他館からの名品も加えられ、「典雅と奇想」というタイトルにふさわしい特別展に仕上げられています。

 「僕の一点」は、石涛の「黄山八勝図冊」(泉屋博古館蔵)です。神が創ったとしか思えない不思議なフォルムの峰々が続く黄山――それが石涛の胸底で異常発酵を遂げています。

2017年11月5日日曜日

サントリー美術館「狩野元信」14


注意してほしい。「家父光悦は一生涯へつらひ候事至って嫌ひの人にて」に、すぐ「殊更日蓮宗にて信心あつく候故」と続けられているのだ。両句が命題と判断であることは、改めて指摘するまでもないのである。

さらに、日蓮の革新性、いや、革命的性格が、伝統的様式や表現に唯々諾々としたがう退嬰的精神から、彼らを解放した可能性も考えられてよいであろう。江戸狩野の末輩が因習的な粉本主義に絡め捕られて、創造性を枯渇させていったとしても、そのパイオニアである正信・元信や探幽は、みずから新様式を開拓して、狩野派の画風を一変させた革命家だったのだ。

美術史において、すべてを宗教という観点から考察することはむろん間違っている。しかし、それをまったく無視して、芸術家の天賦の才や血のにじむような努力、あるいは社会環境に因縁を求めることも正しい方法とはいえないであろう。なぜなら、宗教はそれらを創り出す最も重要な要素だからである。



2017年11月4日土曜日

サントリー美術館「狩野元信」13


何ゆえにあのように傑出した芸術を創り出すことが可能だったのだろうか。どうして、日本絵画史上に燦然たる光輝を放ち続ける絵画を描き出すことができたのだろうか。

まず考えられるのは、イコノクラスム的価値観があったればこそ、逆に造形を行なわずにはいられなかったという理由である。アルタミラの壁画や我が装飾古墳を持ち出すまでもなく、人間には絵画造形意慾というDNAがそなわっていて、むしろ抑えつけられれば抑えつけられるほど、ほとばしり出るのである。

そうだとすると、彼らが現出させた山水も花鳥も、実は久遠実成の釈迦であったことになる。少なくともそこに、宗教的心象が宿っていたことは否定できないであろう。

あるいは、日蓮の自己矜持とそこから生まれた現実対決的姿勢が、芸術家に必須の自由と自在を担保したのかもしれない。例えば、光悦に関する最も重要な資料である『本阿弥行状記』の一節が参考になる。

家父光悦は一生涯へつらひ候事至って嫌ひの人にて、殊更日蓮宗にて信心あつく候故、右ヶ条にも儒者の見識と違ひ候ところも数ヶ所これあり。

2017年11月3日金曜日

サントリー美術館「狩野元信」12


そもそも北斎辰政なる字号は、妙見菩薩に対する信仰から選ばれたものであった。妙見菩薩は、北極星または北斗星を神仏に見立てた菩薩である。北極星・北斗星は北天の星辰[ほし]であるから、また北辰とも呼ばれる。したがって妙顕菩薩は北辰菩薩ともいわれる。これらの「北」や「辰」を字号に取り入れたわけだが、「北斎」は「北辰斎」「北斗斎」を略したものとも伝えられる。

北斎は本所柳島の妙見祠を篤く信仰していたらしいのだが、この妙見菩薩はとくに日蓮宗で崇拝される菩薩なのである。富士山は日蓮宗において、きわめて重要な山岳であったから、北斎の「富嶽三十六景」や『富嶽百景』を日蓮宗と関係づけて考えたい誘惑にも駆られるのだ。この問題については、かつて拙著『北斎と葛飾派』(日本の美術367)で指摘したことがある。

このようにみてくると、日蓮宗を抜きにして近世絵画を語ることはまったく不可能だということになる。それでは、文字曼荼羅や題目本尊に最高の価値を置いていた日蓮、そのイコノクラスムともいうべき思想を受け継いで、彫像や画像に抑制的であった日蓮宗を信仰していた彼らなのに、一体全体なぜなんだという疑問がわいてくる。

2017年11月2日木曜日

サントリー美術館「狩野元信」11


そもそも本阿弥家の日蓮宗帰依は、初祖妙本にさかのぼるとされるが、室町時代中期、本阿弥家中興の六代本光と、本法寺日親の獄中における邂逅を契機として、篤く深いものとなった。かくして本阿弥家は本法寺を外護し、また菩提寺とするようになり、現在も光悦の手になる法華経と、それを収める「花唐草螺鈿経箱」が伝えられている。

そのほか光悦は、「立正安国論」などの「遺文」を書写し、本法寺をはじめとする木額を書すなど、日蓮宗との関係はきわめて強いものがあった。

光悦と不即不離の間柄に結ばれていた俵屋宗達も法華信徒であったにちがいなく、宗達に私淑して琳派に新しい美意識を導きいれた尾形光琳は、京都における最初の日蓮宗道場といわれる妙顕寺に眠っている。

もう一人、忘れることのできない天才画家がいる。葛飾北斎である。北斎は熱心な日蓮宗の信者であった。池上・本門寺と名刹堀ノ内・妙法寺にはよくお参りをしていた。亀沢町榿馬場の家では、みかん箱を柱に釘付けにして、なかに日蓮の像をまつっていた。それは「北斎翁仮宅図」に描かれている。


2017年11月1日水曜日

サントリー美術館「狩野元信」10

 もちろん等伯は、日蓮宗に限らずさまざまな宗派のために創作活動を行なったが、法華信徒であったという事実を忘れるわけにはいかない。それはまた狩野派にも当てはまるのである。

琳派の祖とされる本阿弥光悦になると、日蓮宗との関係はさらに密接となる。2年前の平成27年(2015)は、琳派400年記念祭としてさまざまな琳派顕彰行事やプロジェクトが行なわれて、社会現象の観を呈した。光悦が徳川家康から洛北・鷹ヶ峰の地を得て、ここに光悦村を拓いたのが元和元年(1615)、それから数えてちょうど400年の節目に当たっていたのである。

この光悦村については、かつて芸術村説が強かったが、現在では、4つの法華寺院が営まれていたこともあり、法華信徒による宗教村であるとする見解が定説となっている。

私見によれば、これまた実証は難しいものの、法華経にも日蓮にもつながる「浄仏国土」の思想が光悦を突き動かしたのであり、宗教と美術が融合する理想郷が光悦村であった。ユートピア実現に向けて上行菩薩となった日蓮に、光悦もみずからを重ね合わそうとしたのであろうか。

江戸東京博物館「江戸博×出光コレクション初共演 浮世へのいざない」5

  「 差出し 」 とは、電気のない時代に用いた花道の俳優を照らすための照明用具です。 角形の燭台に長い柄をつけたもので、二人の後見が前後から差し出して照らしました。「面明 つらあか り」ともいい、現代でも古風な演出には使われます。かつて 何かで 見た記憶はありますが、以上は平凡...