しかるに忠孝という語の如きは、日本民族がシナ語を用いる以前にいかなる語で表わしていたかが殆ど発見しがたい。
孝を人名としては、「よし」「たか」と訓よむが、それは「善」「高」という意味の言葉であって、親に対する特別語ではない。忠も「ただ」と訓むのは「正」の意味で「まめやか」という義に訓するのは、親切の意味でこれも君に対する特別の言葉ではない。一般の善行正義というようなほかに、特別な家族的なならびに君臣関係の言葉としての忠孝ということが、すでに古代にその言葉がなかったとすれば、その思想があったか否やが大なる疑問とするに足るではないか。これは単に、目前に知れ易き例を挙げたのであるが、すべての文化的現象が、いずれもかかる関係にあるのではないかという疑いを発し得る。忠孝という語は、日本民族がシナ語を用いる以前に如何なる語で表わしていたかが、ほとんど発見しがたい。
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