しかし秋田県人の僕としては、チョッと口惜しい――というのは、主役の座を下ろされちゃった感じの蜂須賀重喜しげよしが、もともと秋田の人間だったからです。重喜は秋田新田藩2代・佐竹義道の4男で、佐竹義居よしすえと名乗っていました。ところが徳島藩9代藩主・蜂須賀至央よしひさの末子養子(急養子)として迎えられ、10代を継ぐことになったのです。
なぜ末子養子になったのか? それは至央が宝暦4年(1754)数え年18歳で急逝、その後継者も相次いで早世してしまったためでした。松平頼恭よりたかへの還暦祝いであることは確かだとしても、巨額だったにちがいない制作費を負担したのはあくまで重喜しげよしだったのです。
重喜は明和6年に幕命により隠居していますが、家督を譲った長男・治昭はまだ12歳でしたから、実権は重喜の手にあったように思います。事実、のちに重喜はまた幕府から奢侈贅沢をとがめられているんです。この薬箪笥の制作なども含まれているのかな(笑)
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