それは早く朝鮮美術への親愛から生まれた「朝鮮民族美術館」設立計画となって現われましたが、民藝という観点からいえば、まだ萌芽の段階に留まっていました。そこから木喰上人の研究を通して、純粋な民藝哲学に飛躍するターニング・ポイントが大正14年でした。
この年、36歳の柳は河井寛次郎、濱田庄司とともに、「民藝」という新しいテクニカルタームを発明したのです。いや、翌年発表された「日本民藝美術館設立趣意書」を読むと、民藝という新語を作ったのではなく、民藝が柳によって発見されたのだという感を深くします。
僕のみるところ、 繭山龍泉堂本とMOA美術館本は 同じ11世紀でも 、 前半と後半に分かれるのではないでしょうか。 なお、この種の遼陶は もともと 中国で 皮嚢壷あるいは仿皮嚢壷と呼ばれ ましたが、上部の取 っ 手部分が鶏 のトサカ に似 ている ため、日本で鶏冠壷と称 す...
0 件のコメント:
コメントを投稿