しかし、残っている写真から見ると、光琳の直筆であることは疑いないであろう。しかも、西本願寺が登場する点で非常に興味深い。光琳が夢のなかで西本願寺を訪れることになったのは、しばしば訪ねていたためであったにちがいない。
光琳程度の技量では、現在国宝となっているような能舞台で演じることはできなかったかもしれないが、少なくとも、鑑賞に出かけていたことは、先の『二条家内々御番所日次記』の記事が語ってくれているのである。
友松は晩年、桂宮家を創始した智仁 ともひと 親王のもとにしばしば出入りし、押絵の注文などを受けていたことが、記録から明らかになっているからです。畏友・河合正朝さんの『友松・等顔』<日本美術絵画全集 11 >(集英社 1978 年)によると、桂宮淑子 すみこ 関係の記録にある「...
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