人生は賭けだ。思い通りにはならないからである。勝とうと念じてやっても負けることが多い。自分の考えで行動していうようでいながら、結局は他人任せだ。それが言いすぎなら、他人によるところが少なくない。人生と賭けの違いを見つける方が難しい。
こんなことを言うと、きっと顰蹙を買うだろう。人生がギャンブルと同じだなんて、この素晴らしい文明を創り上げてきた崇高なる人間を馬鹿にしている。多くの戦いに勝ち抜き、栄耀栄華をきわめた英雄はたくさんいる。不屈の精神で他人の嘲笑や妨害をはねのけ、偉大な仕事を成し遂げた努力の天才の名だって、十人や二十人すぐに挙げられると……。
このような反論を、全面的に否定することはできないだろう。しかし、ギャンブルだって人間だけが創造し得た高度な文化の一つである。武勲に輝く英雄も、最後は自分の思う通りにならなかったものがほとんどだ。努力の天才だって、つねに運不運にみまわれていたし、まったく独力などということはあり得ない上、その仕事を認めてくれたのは社会なのだ。
そもそも天才とは天賦の才に恵まれたものなのか、あるいは社会が作り上げるものなのか、二つの説があって決着など付いていない。いずれにせよ、人生は賭けだと割り切れば、どんな場合もくよくよ悩まないで済む。くよくよ悩まなければ、必ずよりよい結論が出る。もちろん、いま諸君が直面している就活においてもそうだ。
僕も就活をやったことがある。何となく大学に入ったように、何となく大学院にでも進もうと考えていたのだが、大学四年生の初夏、親父が急に仕事を辞めてきたので、こりゃいかんと思い、新入社員募集中であった渋谷のJ社を訪ねたら内定がもらえた。僕も愛用していた製品を作っている会社だったし、ここで一生お世話になろうと思っていたら、親父もすぐ次の仕事を始める機会に恵まれたので、やはり大学院に行くことにしたに過ぎない。
しかしこんな話をしても、今の厳しい就活を戦っている諸君には、何を寝ぼけたことをと笑われるだけかもしれない。聞くところでは、20枚も30枚も履歴書を書くのが普通だという。しかも期限付きだったり、非正規雇用だったりする。余裕のない社会になってしまった、いや、このような社会にしてしまったのは、僕らの世代の責任だと思うと申し訳なくて、しょせん人生は賭けだなどと言えなくなってしまう。
その代わりというのも変だが、岩崎夏海さんの『もしドラ』で有名なピーター・ドラッガー氏の言葉、「世の流れを変えることはできない」を贈りたい。彼は一世を風靡したアメリカの経済学者だが、日本を深く愛してその美術品を収集したコレクターとしても名高い。現在、長野県信濃美術館でその特別展が開かれていて、質の高さに改めて注目が集まっているが、40年前、ロスアンジェルスの私邸で調査させてもらった時のことを懐かしく思い出す。若き諸君の夢と希望を打ち砕くような一言だが、自分では如何ともし難いという点で、人生は賭けだと同じようなニュアンスを持っている。ただ、「できるのはその先頭に立つことだけだ」と続けるところが、いかにもドラッガー先生らしい。
人生は賭けだから、駄目だったら次の勝負に出ればいい。僕は美術館や博物館に就職した学生に対してだが、「最低3年、できたら5年」と言ってきた。それだけつとめて、自分に合っていると思ったら続ければよいし、馴染めなかったら次の道を探せばいい。オファーがかかって最初の職を一年半で辞めてしまった僕だから、大きなことは言えないのだが、この時も両方の職場の先輩どうしで話し合ってもらって、ただその結論に従っただけだった。これも他人任せという点で、やはり賭けそのものだった。
就活で悩む諸君に、勧めたいと思う人生論の本などほとんどない。世評の定まった名著はあるが、むしろ就職が決まったあとで読む方がいい。もし一冊挙げるとすれば、人生は賭けだからではないが、色川武大氏の『うらおもて人生録』(新潮文庫)だ。とくに「九勝六敗を狙え――の章」を読めば、きっと元気が出てくる。うまくいくことを祈っている。
*その後、鷲田清一さんが朝日新聞に連載するコラム「折々の言葉」に、この「九勝六敗を狙え」を取り上げていたので、鷲田さんも僕と同じ考えなんだと、うれしくなったことがありました。
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