2020年1月8日水曜日

富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山」2


写山楼から霊峰富士が仰がれたことは、はじめに引用した一節にあるとおりだ。先の挿絵は壁で囲まれた室内をとらえており、富士山は反対側の窓からでも見えたのであろう。それを誇って、文晁は「写山楼」と名づけたのである。日本一高くそびえる富士が、日本文化の中でもひときわ高くそびえる重要なモチーフとして機能し、また日本そのものの象徴となってきたことは、ここに改めて指摘するまでもない。

『万葉集』は山辺赤人の絶唱「田子の浦ゆ打出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」以来、富士山なくして日本文学も、日本美術も、そして日本文化も存在し得なかった。その富士がみずからのアトリエから見えることを、文晁が喜び、誉れとしないはずはない。しかし、階上の窓から富士山が見える家など、江戸時代であれば、それほど珍しくなかったはずである。

0 件のコメント:

コメントを投稿

渡辺浩『日本思想史と現在』8

  渡辺浩さんの『日本思想史と現在』というタイトルはチョッと取つきにくいかもしれませんが、読み始めればそんなことはありません。先にあげた「国号考」の目から鱗、「 John Mountpaddy 先生はどこに」のユーモア、丸山真男先生のギョッとするような言葉「学問は野暮なものです」...