2018年3月25日日曜日

広瀬淡窓2


 そのとき、広瀬淡窓のご子孫である広瀬尚美さんとお会いする機会に恵まれました。その後、広瀬さんは淡窓関係資料を携えて、わざわざ静嘉堂文庫美術館をお訪ねくださり、多くの貴重なことどもをお教えくださいました。

広瀬淡窓は江戸時代後期のすぐれた儒学者にして教育家、また有名な漢詩人です。名は簡、建、字は廉郷、子基、通称は寅之助、また求馬、号の淡窓をもって知られています。豊後(大分県)日田に生まれた偉人です。

淡窓は独自に編み出した「敬天の説」を中心として、さまざまな考えをこれに導き入れ、スケールの大きな総合的思想を打ち立てたそうです。したがって淡窓は、折衷派と考えられる場合が多いようで、関儀一郎編『近世漢学者伝記著作大事典』でも「折衷学」となっています。だからこそ淡窓は、広く儒学一般に通暁する「通儒」といわれたそうで、同時代を生きた幕末の志士・吉田松陰の対極的立ち位置にあったとも考えられるでしょう。

しかしその「敬天の説」とは、絶対的真理である天を絶対的に信頼すべきであるとする説のように感じられます。それは究極の理想主義であって、折衷学というのはあたらないような気もしますが……。


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