徳川幕府の成立とともに、狩野派は探幽を中心として江戸へ本拠を移したため、これを江戸狩野と呼んでいるが、もちろん彼らも法華信徒であって、その墓は東京池上・本門寺にある。
狩野永徳と覇を競ったのが、長谷川派を興した長谷川等伯である。等伯は能登・七尾の畠山家家臣・奥村家に生を享けたが、染物業を営む長谷川家に養われたらしい。この長谷川家が日蓮宗であったらしく、等伯もその家庭環境のなかで、熱心な法華信徒となったと推定される。
能登において日蓮宗関係の仕事に精を出した等伯は、30歳のころ京都に出ると、本法寺を本拠に大活躍を始める。本法寺関係の作品に限れば、「日尭上人像」や「大涅槃図」が名高く、先の『等伯画説』は日通上人による等伯の言説の記録、中国画論のコピーから離脱したわが国最初の画論として、何ものにも換えがたき価値を誇っている。
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