日本人がワラビを詠んだ詩はないものかとネットで調べたところ、後花園天皇が室町将軍・足利義政を批判する七言絶句に逢着しました。しかもそれが葉室麟の『古都再見』に詳しく書いてあることも判りました。ITのお陰で便利な世の中になったものです。
義政といえば、かの東山文化を創出しリードした将軍ですが、その治世下にあって人々は大変苦しみました。とくに長禄・寛正かんしょうの飢饉の際、その艱難辛苦かんなんしんくは頂点に達し、都は阿鼻叫喚あびきょうかんの巷ちまた、いや、地獄と化しました。しかし義政はまったく無関心で、高尚なる文化にのみ心を寄せ、連歌や能や茶や唐絵に優雅な日々を送っていました。それを後花園天応は漢詩をもって戒めたのです。
林屋辰三郎先生グループが編集した『京都の歴史』3<近世の胎動>(学芸書林)をかつて読んで、長禄・寛正の飢饉は記憶に残っていましたが、後花園天皇の詠歌はまったく忘れていました。葉室麟はこれを現代日本の政治と重ね合わせて、「首陽の蕨」と題する一文を終えています。