2025年7月16日水曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」16

 

 「饒舌館長ブログ」ファン(?)の牧啓介さんが、このエントリーにコメントを寄せてくれました。英朋が晩年どうして寡作になったのか不思議だというのです。

確かにカタログの「鰭崎英朋略年譜」をみると、昭和2(1927)47歳のとき、もっともつながりの深かった『娯楽世界』の最終号に表紙と口絵を描いてから、昭和43(1968)88歳で亡くなるまでの41年間が空欄になっているんです。牧さんの疑問に対して、饒舌館長はつぎのようにコメントしました。

口絵に創造の場を求め、会場芸術に色目を使わないという英朋の生き方は素晴らしいと思います。これから私見をアップするところです。しかしこの生き方には、当然のことながら「死角」がありました。つまり「大衆」の人気がほとんど唯一のよりどころですから、大衆の美的趣味が変化して人気がなくなれば、すぐに注文が来なくなります。

2025年7月15日火曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」15

 

ところが『続風流線』は297ページ、前編の『風流線』と合わすと実に627ページもあるんです。短編しか読んだことのない僕は、鏡花にこんな長篇があるなんて、チョッと信じられませんでした。『鏡花全集』第8巻には解説がないので、ネットで調べると新聞の連載小説であることが分かりました。それでさすがの鏡花も、サッと切り上げることができなかったのでしょう。あるいは読者からの反響に鼓舞されたのでしょうか。

しかも長いだけじゃ~なく、話の内容がきわめて錯綜しており、登場人物も多いので、メモを取りながら読みました。『源氏物語』や『カラマーゾフの兄弟』には登場人物リストがありますが、『続風流線』にそんなものはないんです。

しかも鏡花特有の省略や飛躍、洒落や象徴的表現の連続で、よく理解できない箇所が次々に出てくるんです。「超訳」がほしいなぁと思いながら、丸3日かけて正続を何とか読了しましたが、英朋に献杯するどころの話じゃ~なくなってしまいました(´艸`)

2025年7月14日月曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」14

 

確かに鰭崎英朋は今それほど有名じゃ~ないかもしれません。しかしそれがどうしたというのでしょう。この感動的な泉鏡花『続風流線』の口絵1枚を遺しただけでも、英朋が生きた証しはたしかにあるのだと思います。ましてやかくも充実した「鰭崎英朋展」が、日本を代表する浮世絵美術館の太田記念美術館で開かれているんです。英朋は昭和43年(196888歳で亡くなりましたが、以て瞑すべしです。

逗子市立図書館には「逗子ゆかりの作家」というコーナーがあります。数年間ですが、逗子に住んでいた泉鏡花の『鏡花全集』(岩波書店)はここに収められています。『続風流線』を含む第8巻を借りてきた僕は、その夜カタログの口絵をながめながら『続風流線』をざっと読んで、英朋に杯を献じるつもりでした。

2025年7月13日日曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」13

 

ところで英朋の真なる画力を見抜き、ともに烏合会で切磋琢磨した清方は、繊細でやさしく、雅号が示すように清らかな方でした。『こしかたの記』を読めばよく分かります。

だからこそ清方は、「世人に認められる機の乏しかったのが私には惜しくてならない」と感じたのでしょう。けっして上から目線ではありません。しかし英朋自身がそう感じていたかどうかは、誰にも分かりません。葛藤がまったくなかったとはいえないかもしれませんが、みずからの境地を心から楽しみつつ日々を生きていたのではないでしょうか。

それは会場を巡りながら、僕が心に強く感じた印象でした。とくに挿絵美人250図を小唄とともに集めた画集『うた姿』(1916年)によく現われているように思われました。冒頭の口絵には泉鏡花が「闇には迷ひ月みては……結ぼれとけぬ柳髪」という小唄を書き寄せていますが、これまた絶品です!! 今回はとくにガラスに顔をくっつけるようにしながら――くっつけ過ぎて係の女性からチョッと注意されてしまいましたが(´艸`)、僕はそんな風に思ったのでした。

2025年7月12日土曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」12

しかも展覧会場に足を運ぶ美術ファンの何倍、いや、何十倍何百倍もが全国津々浦々にいたことでしょう。それは「大衆」であったかもしれませんが、身銭を切って雑誌を求める人たちでした。

もちろん口絵や挿絵を矮小な空間だとしてそこを脱出し、大作や屏風絵を描き、展覧会に出品して画名を高めるべく、さらに褒章を獲得するべく精魂こめて誠心誠意努力する――これもすぐれた画家の生き方、人間のあり方です。そのように生きた清方、わが故郷秋田から出た寺崎広業、そして現代の横尾忠則――みな僕が尊敬して止まないアーティストです。

しかし生き方は人それぞれ、どちらが正しくどちらが間違っているということはないでしょう。どちらが美しく、どちらが見苦しいということもないと思います。どちらが幸せで、どちらが不幸せということもあるはずがありません。英朋の一生は正しく、美しく、十分に幸せだったと思います。


2025年7月11日金曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」11

もっとも明治40年(1907)第1回文展には応募していますから、このころまでは会場芸術への色気というか、意欲もあったのでしょう。しかし突きつけられた「落選」という結果が、英朋に引導を渡すことになったにちがいありません。このようなサッパリとした江戸っ子気質も、「最後の浮世絵師」と呼ばれるにふさわしいように思います。

あるいは7人の子宝に恵まれた英朋にとって、口絵や挿絵は生活のためであったかもしれません。しかし、家族を養うために絵筆を揮いながら口絵芸術の極致を目指す――これも偉大な創造です。

 これはこれで素晴らしい生き方だったと思います。たしかに文展や帝展や院展の作家のごとく、一般的な意味での栄誉、少し意地の悪い言い方をすれば世俗的栄誉は得られなかったかもしれませんが、熱烈な英朋ファンに囲まれていたのです。 

2025年7月10日木曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」10

英朋の才能を燃え立たせたのは、泉鏡花の華麗な文筆が創り出した幻想的世界だったでしょう。また落款の「芳桐印」に象徴されるように、歌川派の系譜に連なる絵師としての自負と矜持もあったでしょう。さらに僕は、ラファエル前派を先導したジョン・エヴァレット・ミレイの傑作「オフェリア」(1852年)を、英朋が写真や図版を通して知っていた可能性も考えてみたいのです。

しかし清方が「鳥合会の後公開の会への出品がない」と書いているように、英朋は口絵や挿絵の小さいけれど濃密な絵画空間にみずからの創造世界を限定して、近代が生み出した人工的装置である展覧会への出品にはきわめて冷淡でした。川端龍子の言葉を借りれば、「会場芸術」を嫌ったのです。


太田記念美術館「鰭崎英朋」16

   「饒舌館長ブログ」ファン (?) の牧啓介さんが、このエントリーにコメントを寄せてくれました。英朋が晩年どうして寡作になったのか不思議だというのです。 確かにカタログの「鰭崎英朋略年譜」をみると、昭和 2 年 (1927)47 歳のとき、もっともつながりの深かった『娯楽...