目出度い雪が彼方まで 驚くほどに降り積もり
目出度い雲が天上の 果てまで暗くしてるけど
地上はまるで満月の 夜かと疑う明るさで
山には白雲 棚引いて きらめく朝日を浴びてるよう
舞うがごとくに降る雪は ひらひら散ってく花に似て
歌うがごとくに降る雪は 白扇はくせんみたいに翻ひるがえる
この大周の世の天子 住まう皇居へ行く道を
今日 海神わたつみが参内し 天子に拝謁するようだ
目出度い雲が天上の 果てまで暗くしてるけど
地上はまるで満月の 夜かと疑う明るさで
山には白雲 棚引いて きらめく朝日を浴びてるよう
舞うがごとくに降る雪は ひらひら散ってく花に似て
歌うがごとくに降る雪は 白扇はくせんみたいに翻ひるがえる
この大周の世の天子 住まう皇居へ行く道を
今日 海神わたつみが参内し 天子に拝謁するようだ
そういう詩人が、盛唐の華やかな雰囲気をよく伝える素晴らしい詩を遺しているんです。芸術家の人間性と作品は無関係だという説がありますが、その典型みたいですね( ´艸`) 『諸橋大漢和辞典』「扇影」の項に引かれる李嶠の「雪」もスゴクいい詩だと思います。またまたマイ戯訳で……。
衣香 焚きしめ手に扇子 かざす優雅な美女の群れ
魚が銀鱗ひるがえし 春潮みなぎる暖かさ
誘う春風 一斉いっせいに 水面みなもを埋める木蘭船もくらんせん
ここでも「扇影衣香」は美しい女性のイメージをたたえる言葉のようですが、鎌倉と南宋・高麗の仏画はそのように美しいといった意味を込めてつけられた展覧会名のようですね。一見しただけでは分からない展覧会タイトルだと、人は入らないと言われるとおりで、僕が見に行ったのは日曜日だったにもかかわらず、きわめてゆっくり鑑賞することができました。いや、「鎌倉と南宋・高麗の仏教絵画」としても、あまり変りはなかったかな( ´艸`)
『東洋の理想』を著わした岡倉天心じゃ~ありませんが、アジアは一つだ!!ということを実感できる特別展に仕上がっています。山椒は小粒でもピリリと辛い――おススメの展覧会ですよ!!
鎌倉国宝館「扇影衣香 鎌倉と南宋・高麗の仏教絵画の交響」<12月14日まで>
扇影衣香――美しい四字熟語ですね。『諸橋大漢和辞典』には、「扇子のかげと衣のにおい。貴婦人などの会合を形容して云う語」とあります。しかし出典が書かれていないので、AIのジェミニに訊いてみました。答えは「特定の古典や文献からの引用というよりも、情景描写として使われてきた言葉と考えられます」というものでした。
しかしどうでしょうか。早くにこの語を用いた詩人がいたにちがいないと思われます。少なくとも「扇影」については、『諸橋大漢和辞典』に李嶠と杜甫の詩が引かれているんですから……。と思いつつ、いつも愛用している「中華詩詞網」で検索してみました。確かに古詩にはないようですが、清・曹仁虎という進士の「山塘雑詩 和王蘭泉韻八首 其一」という七言絶句に、「扇影衣香」が登場するんです。マイ戯訳で紹介すれば……
これらはすでに指摘され、定説となっているところですが、東洋絵画を専門とする井手さんは、日本近代絵画をもご自身の眼でしっかり見据えていらっしゃるんです。そのことを知って、ただいい絵だなぁなんて思っていた僕は、尊敬の念がいよいよ高まるのを覚えたのでした。
先日「7日間ブックカバーチャレンジ」で、著書『服部雪斎 幕末から明治を生きた、精美なる花鳥図の絵師』を紹介した児島薫さんも、このオットマンに感動を覚えて、フェイスブックに画像をアップしてくれました。すぐに僕は「いいね!」をクリックしたことでした。
会場でこれまたFBフレンドの井手誠之輔さんにお会いしました。井手さんは先月故宮博物院開創100周年記念特別展にちなむ台湾国際シンポジウムで、キーノートスピーチを行ない、帰国して前日に建長寺の講演を済まされたところでした。
有り体に言って、「築地明石町」に匹敵するような英朋の作品は一つもないでしょう。「僕の一点」に選んだ泉鏡花作『続風流線』の口絵でさえ、「築地明石町」と一緒に論じることは、チョッと清方に礼を失するような感じがします。
しかしだからと言って、僕の心のなかで鰭崎英朋の評価が下ることはありませんでした。それはとても不思議な感覚でした。両者とも画家なのに、作品を遠く離れた個人的感情でした。人間の生き方は人それぞれであり、比較などできないのだという思いが、最近とみに強くなってきているからなのでしょう。
ヤジ「それは単にオマエが年取ったからに過ぎないんじゃないの? そもそもそんなことを言い出したら、美術史なんて成立しないんじゃないの?」
目出度い雪が彼方まで 驚くほどに降り積もり 目出度い雲が天上の 果てまで暗く してる けど 地上はまるで満月の 夜かと疑う明るさで 山には白雲 棚引いて きらめく朝日を 浴び てる よう 舞うがごとくに降る雪は ひらひら 散って...