2020年4月30日木曜日

シルバー川柳4




 ④目には蚊を 耳には蝉を 飼っている

僕の大好きな文人画家に田能村竹田がいます。「饒舌館長」にも何回かアップした画家ですから、ご記憶のある方もいらっしゃるでしょう。この竹田が尊敬する伊藤鏡河と古田含章という人に宛てた手紙が思い出されます。竹田は「目は常に華を見て、飛蝿貫珠、咫尺の外は弁知すること能わず。耳また能く鳴り、隠々として声あり、時に大、時に小、雷の如く、蚊の如く、膿を出すこと、一日に両三次、或いは三四日に一次なり」と、自分の病気を耽美的に表現しています。まるでこの竹田を川柳に詠んだような一句ですね。もっとも竹田の場合、目には華と蝿、耳には蚊で、ちょっと違っていますが……。その結果、「耳遠く オレオレ詐欺も 困り果て」ということになって、わざわい転じて福となるわけですね。オレオレ詐欺といえば、名句「オレオレに 亭主と知って 電話切る」があります!!

 

2020年4月29日水曜日

シルバー川柳3



③大事なら しまうな二度と 出てこない

「万歩計 半分以上 探し物」に対する返歌というか、アンサーソングというか、これでワンセットというか……。いずれにせよ、「認知症」というとちょっとオーバーですし、「ボケ」は差別用語らしいので、「物忘れ」がいいと思います。

今や川柳の一大ジャンルを形成するのがシルバー川柳です。社団法人全国有料老人ホーム協会+ポプラ社編集部で作ったシルバー川柳集も、第8集まで達したようです。僕が持っているのは第1集だけですが……。

しかもアマゾンで検索すると、このほかに別のシリーズもあるようで、國華編輯委員としてはうらやましい限りです() こんなシルバー川柳のライトモチーフこそ、「物忘れ」ですね。いまは亡き赤瀬川原平さんが、物忘れを老人力といって称えたのはすばらしいことでした。 

2020年4月28日火曜日

シルバー川柳2



 ①万歩計 半分以上 探し物

確かにそうですね。このところ在宅勤務で時間もたっぷりあるため、たまっていた『國華』の解説を数編まとめて書きましたが、ワープロの前に座っている時間より、本や資料を探している時間の方が長いような気がします。それでも結局見つからず、ソラで書いちゃったところもあります() 類句に「探し物 ようやく見つけて 置き忘れ」がありますが……。

 ②忘れえぬ 人はいるけど 名を忘れ

このところ僕も、日一日とひどくなる感じです。少し前は外国人の名が出てこなくて困りましたが、最近は日本人の名もよく出てきません。やがて女房の名が出てこなくなり、ついには自分の名も出てこなくなって、名前なんか一切必要のない世界へ旅立つのでしょう。
*上の写真は『國華』最新号です。「琉球美術特輯号」かと思いきや、これが「円覚寺の開創特輯号」なんです。でも清水真澄さんの巻頭論文+作品解説の充実度はバッチリ、絶対オススメですよ❣❣

2020年4月27日月曜日

シルバー川柳1




 朋友・薮本俊一さんが、奥様のお友達が大切にされているという「座右の銘(シルバー川柳)」64首のリストを贈ってくれました。僕はよく口演でサラリーマン川柳を引いて笑いをとるんです。

30年以上にわたり年一度、第一生命保険が発表していて、間もなく第33回が発表されるはずの俗称サラセンです。しかしいつも決まったヤツを使うので、もう少し持ちネタを増やしたらどうなんだと、薮本さんが心配してくれたのかもしれません( ´艸`)

市井のごく普通の人が、こういうユーモア文学を創り出すんですから、日本は文学の国だと誇りたい気持ちになります。新聞の投書歌壇はいうまでもなく、『万葉集』にみる防人の歌以来の伝統が、今も生きているんです!!

この64首からマイベストテンを選んで、僕の評釈(?)とともに紹介することにしましょう。ただしこれはリストの順にアップしたもので、1位→10位というわけじゃ~ありません。

2020年4月26日日曜日

国立新美術館「古典×現代2020」6



それは会場を圧するごとく堂々と屹立していますが、カタログには間に合わなかったのでしょうか、会場でしか見られません。「対決 巨匠たちの日本美術」展では、「円空VS木喰」だったなぁなどと思い出しながら、あるいは偶然とも思われる木目の神秘に、僕は見惚れていました。

「ZIPANGUⅡ」でアーティスト・トークをお願いしたのは、山口晃さんと鴻池朋子さんだけでしたので、今回はじめて棚田さんとお会いする機会を得ることになりました。その特別展以来、ずっとあこがれてきたアーティストに直接お会いでき、作品を前にお話を聞くことができたのは、望外の喜びでした。

さすがに今日はレセプションなど一切ありませんし、誰かを誘うのも気が引けます。酒仙館長も見終わるとソク六本木駅へ向かったことでした。()

2020年4月25日土曜日

国立新美術館「古典×現代2020」5



薬師如来の仏師も、円空も、棚田さんもみんな木目の素晴らしさに魅了されています。それだけではありません。大地から天に向かって伸びていく木の生命力、さらにいえば木の聖性に魅了されています。あるいは、畏怖を感じているといった方が正しいかもしれません。

とくにそれは、円空仏と比較するとよく分かります。円空仏も棚田彫刻も、台座から一本の木で彫り上げたものが多いのです。真の意味で一木造りであり、そこには樹木に対する尊崇の念が存在するといっても過言じゃ~ありません。

棚田さんはこの特別展に向けて、文字通り特別に目玉ともいうべき大きな「宙の像」を彫り上げてくれました。

2020年4月24日金曜日

国立新美術館「古典×現代2020」4



この特別展にちなんで、急遽「ZIPANGU――日本美術の視点から――」という講演をやることになりました。そのころはまだ「口演」ではなく、真面目に「講演」と銘打っていました() 

主催のABS秋田放送が考えてくれたのは、「ジパング秋田展に河野元昭が緊急参戦。美術史家が現代アートを斬る?」という、ちょっと恥ずかしいようなキャッチ・コピーでした。

僕は神護寺の薬師如来立像や円空仏と、棚田さんの作品の間に、呼応する美意識が存在することをしゃべったのです。木という材質それ自体の美しさを活かそうとする感覚――僕がいうところの素材主義によって、両者は強く結びついています。さて、木にはあって、大理石にも銅にも漆にもないものは何でしょうか? それは<木目>です。

2020年4月23日木曜日

国立新美術館「古典×現代2020」3



しかしこのように実際の作品を、多くのジャンルにわたって並列的に見せられると、それはおのずと古典と現代の美意識対決みたいになっていて、じつに面白いんです。しかしそれ以上に、日本美術における古典と現代の抜き差しならぬ関係――いま風にいえばDNAの方を、強く感じずにはいられませんでした。

「僕の一点」、いや今回は「僕の一組」となりますが、それは円空×棚田康司です。日本美術における古典と現在の抜き差しならぬ関係が、もっとも興味深く印象づけられたからです。実をいうと、これについてはすでにしゃべったことがあるんです。
2013年秋、ディレクターをつとめていた秋田県立近代美術館で、特別展「ZIPANGUⅡ 沸騰する日本の現代アート」を開催しましたが、もっとも惹かれたアーティストの一人が棚田康司さんでした。

2020年4月22日水曜日

国立新美術館「古典×現代2020」2


 
本展のゲストキューレーターでもある國華主幹・小林忠さんや、アーティストの挨拶を聞いたあと、ゆっくりと会場を巡りました。その8つの組み合わせとは、仙厓×菅木志雄、花鳥画×川内倫子、円空×棚田康司、刀剣×鴻池朋子、仏像×田根剛、北斎×しりあがり寿、乾山×皆川明、蕭白×横尾忠則です。

かつて『國華』創刊120周年を記念して開いた特別展「対決 巨匠たちの日本美術」は、古典美術どうしの対決でしたが、今度は古典美術と現代アートの対決といった趣です。2015年にMOA美術館で開かれた特別展「光琳ART 光琳と現代美術」の拡大版ともいえるでしょう。僕も口演では、古典的な琳派と村上隆や千住博、あるいは鴻池朋子や山本太郎を対比させてスライド・ショーをやったことがあります。


2020年4月21日火曜日

国立新美術館「古典×現代2020」1



国立新美術館「古典×現代2020――時空を超える日本のアート」メディア内覧会(3月24日)

 この刺激的な特別展は、311日から国立新美術館で開かれることになっていましたが、COVID-19――つまりコロナ・ウィルスのために会期未定の順延となってしまいました。誰ですか? チャイナ・ウィルスなんて言ってるのは( ´艸`) しかしメディア内覧会だけは開かれることになったので、静嘉堂の仕事が終わったあと駆けつけました。主催のなかに國華社が入っているので、是非とも出席したかったのです。立派なカタログから「ごあいさつ」の一部を引用しておきましょう。

国際的な注目が東京に集まる2020(令和2)年に、古い時代の美術と現代の美術の対比を通して、日本美術の豊かな土壌を探り、その魅力を新しい視点から発信する展覧会を開催します。展覧会は江戸時代以前の絵画や仏像、陶器や刀剣の名品を、現代を生きる8人の作家の作品と組み合わせ、一組ずつ8つの展示室で紹介します。

2020年4月20日月曜日

都留文科大学編『大学的富士山ガイド』2

加藤さんは「描かれた富士山――芸術の源泉」を執筆、遥拝所としての千居[せんご]遺跡環状列石[ストーンサークル]から富士の画家・横山大観まで、富士イメージの歴史を鳥瞰しています。高階秀爾監修『日本の美 富士山』に書いた僕の拙文を引用してくれたのは、同じ専門をやっている先輩へのソンタクかな() 
渡辺豊博さんの「富士山とは――世界遺産と環境保全」もオススメですね。渡辺さんは「現在まで『世界文化遺産』に登録されることを優先した、行政指導の『器・形』を整える運動が先行してきた。しかし、最も重要なことは、50年先、100年先の富士山をどのように守り、伝えていくかを考えることである」と述べています。
環境破壊を生むオーバーユースに警鐘を鳴らしているのです。世界遺産に登録されて浮かれがちな日本人のすべてが、よく熟読玩味、拳々服膺、思索生知すべき一章でしょう。

2020年4月19日日曜日

都留文科大学編『大学的富士山ガイド』1



都留文科大学編『大学的富士山ガイド――こだわりの歩き方』(昭和堂 2020年

 先日、畠堀操八さんの『富士山・村山古道を歩く<新版>』を紹介しましたが、続いて都留文科大学の加藤弘子さんからこのガイドブックを贈られました。ガイドブックといっても、並みのガイドブックじゃ~ありません。腰巻には、「富士山に一番近い公立大学が贈る知的好奇心、学究心旺盛な方へのガイド。外国人旅行者、留学生にも役立つように、英文も掲載」とあるとおり、ワンランク上の富士山ガイドといった感じです。

しかし、「ゴジラと富士山」というおもしろい一章もあります。「富士山の湧水はなぜおいしい」もよく分かったけど、「富士山の湧水で作ったウィスキーはなぜおいしい」も知りたかったなぁ() また「月光寺の飲み屋街『新世界乾杯通り』――再開発への思い」というコラムまであって、楽しく読めるよう気配りもされています。気配り――もうちょっと古いかな()

2020年4月18日土曜日

静嘉堂文庫美術館「聴松軒図」2


そのころ僕は大学院に籍を置いていましたが、ノンポリだったのでほとんど大学には行きませんでしたし、8月といえば夏休みですから、自由時間がたっぷりあったのでしょう。ともかくも52年前の話ですから、もう記憶も定かじゃ~ありません。

まだ梅棹忠夫先生の名著『知的生産の技術』を知らず、月光荘の小さなスケッチブックを使っていたころなので、後からそれをB6の京大カードに貼り付けてあるのも懐かしく感じられます。僕は25歳になったばかり、いま読むと顔から火が出そうな生意気きわまる言辞が書き連ねられています。そう言いつつ、やはり紹介せずにはいられません()

松の木霊。その間には意外と空間はない。左の渓流も奥行きというより、形態に対する興味が強く感じられる。室町水墨も小画面に大宇宙という時代は極初期に終りを告げたのではないか。もしくは近世への萌芽は意外に早く現われていたのか。 

2020年4月17日金曜日

静嘉堂文庫美術館「聴松軒図」1



静嘉堂文庫美術館「惟肖得巌賛 聴松軒図」

 COVID-19 ――俗称コロナウィルスのせいで、静嘉堂文庫美術館も休館とは相なりました。普通だったら、今ごろ「江戸のエナジー」展で門前市をなしていたはずなのに! 残念無念!! 『國華』に寄稿するべく、柴田是真筆「茨木童子図」の解説も一応書き上げたので、たまっていた調査カードをアイウエオ順に整理することにしました。

懐かしいカードとたくさん逢着しましたが――つまり整理は遅々として進まなかったのですが、静嘉堂文庫美術館コレクションの中から選べば、何といっても惟肖得巌賛「聴松軒図」ですね。去年、「入門 墨の美術」展に錦上花を添えるべく()、「『饒舌館長ベストテン――好みの墨絵――』を口演す」と題してしゃべりましたが、その時も選んだ名品中の名品です。それを昭和43(1968)87日に、静嘉堂で見たことがカードから分かりましたが、鑑賞室がオープンする前ですから、特別観覧だったのでしょうか。よく思い出せません。

2020年4月16日木曜日

追悼 大林宣彦さん5



CFの撮影のため、砧の緑地公園に来ていた。スタッフと待ち合わせた時間には少し間があり、制服を着たままの私は、車の中にいるのが嫌で車外へ出た。……

その時、私は視界の中に一台の白い車を認めた。私の乗っている車からそう遠く離れていないその車から、ひとりの青年が降り立った。ブルーのトレーニングウェアに身を包んだその人と一瞬目が合った。しかし、お互いに挨拶を交わすでもなかった。緑地公園にトレーニングに来ているスポーツ選手という印象を持った。即座にそう思えるほど、彼は健康的だった。

しばらく間があって、スタッフから紹介され、挨拶を交わした。「よろしく」別に笑顔も作らずに、彼はそのひと言だけを置き去りにした。……

恋のはじまりは、意外性の発見から――と誰かが言うのを聞いたことがある。私の場合もそうだった。彼は、私の目にはあきらかに他の人たちと違って映った。初対面のぶっきらぼうな態度に、私は肩すかしを喰わされ、そして、それが少しも不快でないことに、驚いていた。

2020年4月15日水曜日

追悼 大林宣彦さん4



もちろん、これらが大林さんの「作品」であることは、あとから知ったにすぎません。樋口さんも、「1960年代から70年代にかけて、妙に私の心に焼きついた詠み人知らずのコマーシャルについて後年調べると、ことごとく大林の作であったことに驚愕したことがある」と書いています。

百恵・友和の「グリコセシルチョコレート」といえば、百恵さんの遺著ともいうべき『蒼い時』に、次のごとく決定的瞬間(?)が述べられています。残間里江子さんの創作も若干入っているような気がしますが() もちろん大林さんの名前も、商品名も出てきませんが、セシルチョコのための撮影であり、ここに大林ディレクターがいたことは、改めていうまでもないでしょう。言ってみれば、大林さんは百恵・友和のマッチメーカーでもあるんです()

2020年4月14日火曜日

追悼 大林宣彦さん3



412日の『朝日新聞』に、映画評論家・監督の樋口尚文さんが「大林宣彦さんを悼む 監督ではなく『映画作家』だった」を寄稿しています。従来の「映画監督」は、自社の映画館で上映する商品としての映画を上々に仕上げる社内の「職人」だった。しかし大林さんの作品は、大林という強烈な「個」がつむぐ「詩」であって、劇場用映画のまねごとではなかった――樋口さんの指摘するとおりです。

しかし僕にとって、「CM界の巨匠」である大林さんの方が、思い出を呼び起こしてくれるんです。チャールズ・ブロンソンの「う~ん マンダム」は、モテタイナァという気持ちが結構あったころですから、チョットは丹頂さんに貢献したように思います。山口百恵・三浦友和の「グリコセシルチョコレート」も、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」も、「いいなぁ うらやましいなぁ」「あんな夫婦になりたいなぁ」と思って見ていました( ´艸`)

2020年4月13日月曜日

追悼 大林宣彦さん2



みんながよく知っている錚々たる方々に混じって、何か申し訳ないような気持ちで、出勤簿に判子を捺していました。しかし、大林さんは名誉教授ですし、寧日なき毎日ですから、僕のようなチャッチー授業を毎週するわけではありません。

ワン・セメスターに何回か、撮影現場に学生を連れて行って、直接に教え指導するのです。ナマの映画体験をさせるのです。その教育効果たるや、筆舌に尽くし難きものがあったはずです。僕も一度参加させてもらおうと思いながら、そのままになってしまいましたが、一年に一度お会いする機会が巡ってきました。

卒論発表の日にいらして、指導学生のプレゼンテーションを聞き、講評を述べられるからです。僕は、あぁこれが「時をかける少女」の大林監督なんだと、お顔を眺めながら聴いていました。映画監督という仕事に憧れながら、実際にお会いすることができた映画監督は、大林さんと吉田喜重さんのお二人だけです。あの時、上福岡のキャンパスで大林さんとご一緒できたことは、生涯僕の誇りです。

2020年4月12日日曜日

追悼 大林宣彦さん1


 大林宣彦さんがお亡くなりになりました。心からご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。作品へのオマージュはたくさんの方がお書きになると思いますし、「饒舌館長」にもそのうちアップすることをお約束して、ここでは個人的な思い出だけを書くことにしましょう。
2006年から尚美学園大学芸術情報学部大学院で教えることになった僕は、そこで大林さんと同僚になったのです。大林さんは名誉教授として学生を指導していました。したがって大学内での呼称を使えば、「先生」とお呼びするべきかもしれませんが、やはり「さん」の方がふさわしいような感じがします。逝去を伝える『朝日新聞』も、「氏」ではなく「さん」づけにしていますね。このごろ、新聞はみんな「さん」かな?
大学院単独で教えるのは、大林さんとモーツァルト研究の権威・海老澤敏さん、尚美学園出身のトランぺッター・日野皓正、そして僕でした。

杜牧「清明」9



 杜牧「清明」柏木如亭訳  

  清明時節[さんがつごろ]の紛々[しっぽり]とふる雨に
  路上[たび]の行人[もの]は欲断魂[たまられ]
  酒屋[さかや]は何処[どこ]に有[ある]と借問[きけ]
  牧童[くさかりこぞう]が杏花[あんずのさい]た村のはうへ遥指[おしえた]


 岡田米山人筆「武陵桃源図」賛マイ戯訳

  高低なみうつ青い山 あいだを碧[あお]き渓流が……
  立ち込めている春霞 あまたの楼閣隠してる
  「ちょっとお尋ねしますけど 中のお客はどなた様?」
  「桃咲く谷の入り口に 舟を泊めてる人でしょう」


2020年4月11日土曜日

杜牧「清明」8


 
江戸時代後期の漢詩人・柏木如亭は、当時の話し言葉を使って『聯珠詩格』を翻訳し、享和元年(1801)に『訳注聯珠詩格』を出版しました。これに揖斐高さんが注を施した岩波文庫版『訳注聯珠詩格』が10年ほど前に出版され、『聯珠詩格』はぐっと親しみやすい漢詩集となりました。カバーに「従来の訓読とはひと味もふた味も違う、清新な味わいの“現代語訳”」とあるのが愉快です。その如亭訳「清明」も紹介しておきましょう。

[  ]内は一種のルビです。たとえば「清明時節」を「さんがつごろ」、「牧童」を「くさかりこぞう」と如亭は訳したわけです。『訳注聯珠詩格』こそ、清新な味わいを誇るマイ戯訳の大先輩です() ついでに先の岡田米山人筆「武陵桃源図」の七絶自賛も……。

ヤジ「調子に乗るんじゃない!!

2020年4月10日金曜日

杜牧「清明」7



多分いけるだろうと思って、僕が小皿に汾酒を注いで火をつけると、揺らめくような青白い炎が上がり始めました。何しろ汾酒は53度ですから燃えるんです。それを見ながら、みんなで「ハッピー・バースディ」を歌い、先生をお祝いしたことが、昨日のことのように思い出されます。

その後、先生とは賀状の交換をさせていただいていましたが、3年前、悲しくも白玉楼中の人となられました。前置きが長くなってしまいましたが、そろそろマイ戯訳を……。

  清明節のころは雨 シトシトシトシト降る季節
  旅する人の心中を ちょっとブルーにするのです
  「もしもし お尋ねしますけど 酒屋はどこにありますか?」
  牧童 黙って指すかなた アンズの花の咲く村が……

2020年4月9日木曜日

杜牧「清明」6



1989年春から初夏にかけて、北京日本学研究センターの講師として北京に滞在していたことは先日もアップしましたが、その4月11日夕方、宿舎となっていた友誼賓館の蘇園餐庁で、我々からの答礼宴が開かれました。宴が果てたあと、「僕の部屋で二次会をやろう」というと、何人かが集まってくれたのですが、うれしいことにセンター長の尾上兼英先生と奥様も加わってくださったのです。

そのとき振舞ったのが僕の部屋にあった汾酒でしたが、誰かが「尾上先生は確か今月のお生まれでしたね」というと、「そうですけど、よくご存知ですねぇ」とおっしゃる。それじゃ~先生の誕生パーティーをやろうということになりましたが、ローソクなんて部屋にありません。

2020年4月8日水曜日

杜牧「清明」5



それどころか、これまた紹介したことがある渡部英喜さんの『漢詩歳時記』によると、安徽省貴池県と山西省汾州では本家争いを繰り広げているそうです。しかし渡部さんも、安徽省に軍配を上げています。杜牧が貴池へ刺史として赴任したことがあることのほか、「清明」の風景が乾ききった山西省の風土と合わないからだそうです。

しかし、ここに至ってはそんなことなどどうでもよく、今夜は杜牧の「清明」と、もちろん汾酒もランクアップされている中国10大銘酒の暗唱をまずやったうえで、本当の汾酒を堪能することにしたいと思います。家じゃ~誰も拍手なんかしてくれませんが() 実をいうと、この中国10大銘酒の中で、一番好きなのが汾酒なんですが、これにも忘れられない想い出があります。

2020年4月7日火曜日

杜牧「清明」4


しかし杜牧の「清明」は、米山人も馴染んでいたにちがいない『唐詩選』にも『三体詩』にも選ばれていません。ところがその後、明治大学の池沢一郎さんから、『聯珠詩格』と『千家詩』に載っていることを教えてもらいました。『聯珠詩格』は持っているにもかかわらず記憶になかったのですが、与謝蕪村が愛して止まなかった『聯珠詩格』を、米山人も愛唱していたことが分かって、とてもうれしく感じたことでした。

またこの唐詩にある杏花村は、大好きな汾酒で有名な山西省汾州の地名だと思い込んでいました。しかし先の『千家詩』に載ることを教えられ、試みに張哲永という研究者の『千家詩評注』を読んだところ、この杏花村は杜牧が池州刺史をつとめた安徽省貴池県の地名であることが分かって、不明を恥じたことでした。

山西省汾州以外にも、杏花村は少なくないそうですが、すべてこの詩によって後世名づけられたものであることも分かって驚きました。

2020年4月6日月曜日

杜牧「清明」3



「清明」は、すでに紹介したことがあるピンイン・ルビ付きの『中国古典詩詞選』や『唐詩一百首』にも採られているので、僕が中国語で暗唱できる唐詩の一つです。もっとも、中国人に通じるかどうかは、保障の限りじゃ~ありませんが()

この「清明」には、ちょっとした思い出があります。かつて『國華』1309号に「米山人と武陵桃源」という拙文を寄稿したとき、この唐詩を引用したことがあったからです。大好きな文人画家の岡田米山人にすばらしい「武陵桃源図」があり、若き米山人のパトロンだった安積喜平次のご子孫の家に伝えられてきました。

これを見ずして「米山人と武陵桃源」なんていう文章はとても書けませんから、兵庫県加西市の西剣坂まで出かけて、親しく拝見させていただいたのです。この作品には米山人自作の七言絶句が着賛されているのですが、それはあきらかに杜牧の「清明」からインスピレーションを得て詠まれています。


2020年4月5日日曜日

杜牧「清明」2



しかし『広辞苑』には、「清明祭[せいめいさい]」という行事が立項されていて、「沖縄地方で、旧暦三月の清明節に一族そろって祖先の墓参りをする行事。士族の間で中国伝来の行事として始まったとされる。御清明<ウシーミー>」と説明されています。それは沖縄と中国との文化的結びつきを物語っているようにも感じられます。

美術史的には、清明節でにぎわう北宋の首都・汴京[べんきょう]――いまの開封の風俗を描いた張択端の「清明上河図巻」がよく知られていますね。

それからもう一つ、思い出されるのは晩唐の詩人・杜牧の名吟「清明」でしょう。連夜妓楼に流連したという、イケメンの風流才子・杜牧の面目躍如たるものがある一首ですが、「江南春絶句」や「秦淮に泊す」や「山行」など、分かりやすくて浪漫性に富むところ、とくに日本人好みの感じがします。

2020年4月4日土曜日

杜牧「清明」1



 今日は清明節の日です。清明節といっても、我が国ではあまり馴染みがないかもしれませんが、もともと中国で考えられた二十四節気の一つです。『広辞苑』で「二十四節気」と引くと、「太陽年を太陽の黄径に従って二四等分して、季節を示すのに用いる語」などと書いてありますが、最初のところは僕にもよく分かりません。まぁ、1年を12か月の倍の24等分にして季節を表す言葉としておけば間違いないでしょう。

「清明」は馴染みがなくとも、春の「立春」「春分」、夏の「夏至」、秋の「立秋」「秋分」、冬の「冬至」などは、僕たちもよく使いますね。

清明節は春分から15日目、冬至から数えて107日目とのこと、今年は今日44日がこれに当たります。中国では、昔この日に墓参りをしたそうですが、今はどうでしょうか。日本ではほとんど取り入れなかったように思います。
*ネット画像を「清明節」で検索したところ、上のようなのがヒットし、"Tomb Sweeping Day"と書いてありました。

2020年4月3日金曜日

陸游のネコ漢詩「鼠 書を敗る」



陸游「鼠 書を敗る」<『剣南詩稿』巻63

「饒舌館長」に何度も登場してもらっている南宋のネコ詩人・陸游のネコ漢詩をまたまた僕の戯訳で……。ちなみに、中華書局出版の『陸游集』に「緘藤」とあるのは「緘縢」の誤りでしょう。『諸橋大漢和辞典』によると、「緘縢」[かんとう]とは「綴じからげる」ことですから、ここでは書物の意味だと思われます。コンテクストから「稀覯本」と訳してみましたが、どうでしょうか。

  雲は去りゆき雨も止み カラスが鳴けば窓白む
  短いものだ!秋の夜 寝てない気がする一年も
  夜が明けすぐに布団あげ 頭巾をつける暇もなく
  机上の本をよく見ると ネズミのかじった跡がある
  タカツキ・ワリゴなどならば かじられたって構やせぬ
  我が物顔にそこら中 出てきちゃ本を無茶苦茶に……
  無用になった書物箱 焚書のわざわいいつの世も……
  飼ってやってる我がネコよ! なぜ穴に入り捕まえぬ?
  遂にやられた稀覯本 責任問うても何になる
  怠惰は自分で治すべし それまでネズミはやり放題

2020年4月1日水曜日

島尾新『水墨画入門』4




ここにもお酒が登場するように、玉堂は酒仙画家であり、酒仙詩人であり、酒仙琴士だったんです。かつて小林忠さんから、『江戸名作画帖全集』第2巻<玉堂・竹田・米山人>に一文を求められたとき、「玉堂と酒」と題して責をふさぎました。その書き出しは、「酒、これなくして玉堂芸術は存在しなかった。」というものでしたが、できたら「饒舌館長」風に、「。」じゃ~なく「!」を付けたかったなぁ()

 琴曲「飛鴻」と「別鶴」を 七弦琴で弾きながら
 美酒酌み交わし茅屋に 楽しい一時過したが
 別れたあとで岡山を 思い出すことあったらば
 どこにいようとこの詩画賛 必ず開いて見てほしい