2025年6月30日月曜日

6月の詩8

立派な男おのこの人生の 出会いはみんな時の運

一時は浮かびまた沈む いにしえからの繰り返し

出世と蹉跌さてつが生涯に あること嘆くも甲斐なからん

親しき友と再会の 約束できぬ恨めしさ

緑の川と青い山――越えて彼方の我が友よ!!

はるか遠くのその顔が 夢うつつにも浮かび出る

彼 枕辺に書を寄こし 「君よ!! まぁまぁ気を楽に!!

  いまだ二本の大小が チャンと腰にはあるから」と…… 

2025年6月29日日曜日

6月の詩7

 

  口では理屈を滔々とうとうと こねるがすべて受け売りで

  たった一つの経典を 後生大事にあくせくと……

  四角と丸い器では もともとならないワンセット

  世間の奴らの毀誉褒貶きよほうへん かまびすしいこと限りなし

  ある日 厳しい譴責けんせきを 喰らうことなど予期できず

蟄居ちっきょは南の荒地だが その場所さえも知らされず

南国地方の水無月は 溽暑じょくしょ蒸暑じょうしょの日々多し

ひねもすボンヤリ飲んだ気分――とはいえ不快な二日酔い

人を頼って紀ノ川へ 決まるも家は決まらずに

古典書かかえて山間の 田んぼをみずから耕した


2025年6月28日土曜日

6月の詩6

 

江戸・祇園南海「庚辰の夏、余 罪を南海に俟つ。鬱鬱として一室に居る。六月溽暑、中夜寝ねられず。因りて江都の旧游を思う」

  「俺は男だ!!」――若きより 血気盛んで進取的

  偉人になれるし学問も トップと自信に満ちていた

  かの木門もくもんの才子には すごい豪傑多くいて

  意気投合しねんごろに 心許して交わった

  月夜に詩を詠み酒を酌む 宴うたげをしょっちゅう開いたし

  春風はるかぜ受けて馬を駆り 花柳の巷ちまたを荒らしてた

  剣を学ぶもたくさんの 敵を倒すにゃ程遠く

  弓矢 習って七重ななえもの 鎧よろい射抜くと空威張り

  かくして十年やったけど 一つもものにならぬまま

  空しく一人の青白き インテリ生まれただけだった


2025年6月27日金曜日

6月の詩5

江戸・祇園南海「庚辰の夏、余 罪を南海に俟つ。鬱鬱として一室に居る。六月溽暑、中夜寝ねられず。因りて江都の旧游を思う」

初期日本文人画四大家の一人・祇園南海は、元禄13年(17005月、25歳のとき不行跡につき知行を召し上げられ、和歌山城下を追放されました。以後10年間、赦免されるまで和歌山東方の長原村で困窮をきわめる生活を送りました。これは翌6月に詠んだ七言古詩です。

ここには僕の大好きな中唐の鬼才・李賀が、重ね合わされているように思います。のちに南海は「五竹図巻」という作品を描きましたが、その巻頭「新竹図」は、李賀の「昌谷北園新筍」という詩からインスピレーションを得て描かれているのですから……。

 「不行跡」の内容は不明といわれていますが、これを読めば、南海が完全に周囲から浮き上がって、SNSはなくとも誹謗中傷のターゲットとなり、ついに追放の憂き目にあった原因がよく分かると思います。 

2025年6月26日木曜日

6月の詩4

 

江戸・荻生徂徠「猗蘭台に集う。韻を金の字に分かたる」

  宴うたげに賓客 参集し 夏の日差しも翳かげるころ

  水無月なれど襟元に 快い風 吹き込んで

  豪壮華麗な大広間 歌声 響き渡るあと

  才華あふれる詩が続き もちろん銘酒もジャカジャカと……

  「白雪」――高雅の真価 知る 宋玉みたいな文人や

  絶対 金かねでは釣られない 郭隗かっかいみたいな高士たち

  すべて詩文や学問で 互いに親しき友となる

  世俗 侮蔑ぶべつの心情が 酔えば酔うほど高揚す

2025年6月25日水曜日

6月の詩3

 

清・袁枚えんばい「銷夏の詩」

  衣冠束帯 脱ぎ捨てて 役人生活 辞めてから 半年近くになりました

  水が澄んでて雲深き 佳境で花に囲まれて 眠っているのさのんびりと

  いつも心に描いてた 夢に見ていた無位無官 そんな楽しい生活を

  誇ってやるぞ!!友達に 時は水無月 炎天下 あくせくせずともいいことを

 人間の感情を何よりも重視する清新性霊派の領袖詩人・袁枚――その面目躍如たるものがありますね。もっとも僕にとっての袁枚は、青木正児の『華国風味』で知ったグルメにして酒仙であった袁枚の方ですね()

2025年6月24日火曜日

6月の詩2

 

北宋・蘇東坡「六月二十七日、望湖楼ぼうころうに酔うて書す 五首」其の一

  墨ぶちまけたような雲 まだ鳳凰山を覆わぬに

  夕立 急襲 大粒の 真珠 降りこむ船の内

  大地ゆるがす風 起こり たちまち雲雨を吹きはらう

  望湖楼下の西湖にしうみの 水 蒼穹そうきゅうを映し出す

 写真の「望湖楼」は、蘇東坡が酔ってこの名吟を詠じた「望湖楼」とは場所も時代もマッタク異なる、マッタク無関係の観光施設です( ´艸`) ひとり旅でも、「辻先生と行く江南の旅」でも泊まった望湖飯店もマッタク無関係です!!

2025年6月23日月曜日

6月の詩1

 

 毎日暑いですね!! 一昨日621日(土)は夏至でした。そこでマイ漢詩戯訳帖から、趙秉文ちょうへいぶんの七言絶句「夏至」を紹介することにしましょう。趙秉文は、北宋を滅ぼして華北を支配した金の詩人です。続いて6月ゆかりの漢詩を、日中取り混ぜて数首、これまたマイ漢詩戯訳帖から……。 

 金・趙秉文「夏至」

  翰林院で眠りから 覚めるとしきりに茶がほしく

  摘みたての葉を銅臼で 挽いて一服……別院で

  日は南中し階段に 映りしスダレの影 消えて

  つがいの蝶が楽しげに 戯れるのは立葵たちあおい

2025年6月22日日曜日

東京美術『日本視覚文化用語辞典』5

視覚文化――それは過去を凝縮した文化であり、現代を象徴する文化であり、未来を略奪する文化だ。日本は原始の時代から視覚文化のマホロバであり、すぐれた伝統はもちろん現代まで脈々と受け継がれている。それを世界へ向けて発信し、国境を越えて交信したい。そのための絶対的ツールとして出版されたのがこの辞典だ。

ページを繰りながらあなたが心から発した言葉は、機械的なAI言語とは一味ちがうはずだ。私も「饒舌館長ブログ」で日々さまざまな発信を続けている。先日は大英博物館の「マンガ展」についてアップしたのだが、本書が出版されたら、英語でもエントリーしてみたいと今からワクワクしている。

 

2025年6月21日土曜日

東京美術『日本視覚文化用語辞典』4

 

先日「7日間ブックカバーチャレンジ」として村上もとかの『フイチン再見!』をアップしましたが、これら本辞典の項目を読んでから『フイチン再見!』10巻にチャレンジすれば、もっとよく内容が理解できて、さらにおもしろかったと思います。この辞典を編集した委員会のトップは、尊敬して止まない原田平作先生でしたから、こんなすごい辞典が出来上がったのも、当たり前田のクラッカーです。

 というわけで、この辞典のadチラシに推薦の辞を書いちゃったんです。しかもハーバード大学美術建築史学部教授のユキオ・リピットさんと一緒に!! 例のごとく依頼された字数をちょっとオーバーしてしまったので圧縮してもらいましたが、ここではそのモトゲンの方を読んでいただくことにしましょう。


2025年6月20日金曜日

東京美術『日本視覚文化用語辞典』3

 

前回、東京国立博物館の特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」を紹介しましたが、実をいうと後期高齢者の僕には「コンテンツ」の意味がよく飲み込めませんでした。しかしこの辞典にはチャンと「コンテンツ」という項目があって、簡にして要を得た説明がなされています。しかも「マーシャル・マクルーハンが『メディア論』の中でメディアの中のメディアに当たるとしている」とありますから、孫引きにも使えます() 

以前、ニコル・ルマニエル・クーリッジさんがキューレーションを行なって話題を集めた大英博物館の「マンガ展」をアップしましたが、この辞典に「漫画/マンガ」という項目があることは言うまでもありません。しかも「マンガ家」など、「マンガ」から始まる項目が11も続いているんです。


2025年6月19日木曜日

東京美術『日本視覚文化用語辞典』2

 本邦初の辞典がここに誕生したんです。しかも日本語のあとに、すぐれた英訳がついているから便利です。便利なだけじゃ~ありません。日本語と英語における視覚文化へのアプローチが意外に異なっていることが浮彫りになり、おのずとわが国視覚文化の特質といった問題へ導かれることになります。この質量と20年間の編集期間を考えれば、96800円という定価は決して高くありませんが、まずは図書館でぜひ購入してほしい辞典ですね。

10264項目の最初は「アーカイヴ」――「美術館などを含む機関などで記録を保存、活用することという意味に用いる」とありますから、僕が勝手に使ってきた「國華アーカイヴ」も間違いじゃ~ないことが分かってホッとしました。しかしそれは『國華』というアナログ雑誌に印刷されたアナログ図版のアーカイヴです。今やアーカイヴ=デジタル情報の保存公開だとすると、やはり「國華アーカイヴ」はガラパゴスかな()

 

2025年6月18日水曜日

東京美術『日本視覚文化用語辞典』1

 

東京美術『<和英対照>日本視覚文化用語辞典』

以下に掲げるのは、このたび東京美術から出版された『<和英対照>日本視覚文化用語辞典』の序文から引用した一部です。

本辞典の前身である『和英対照 日本美術用語辞典』が、文化交流の新たなステージにおいて国際的に資することを願って産声を上げたのは1990年のことであった。(略)

その後21世紀を迎え、日本における 「美術」 をとりまく状況は加速度的に変化した。 国やジャンルを超えた相互交流がこれまで以上に活発となり、「美術」という概念の境界線が曖昧となる一方で、マンガやアニメなど独自の進化を遂げた日本のサブカルチャーに世界的な関心が寄せられるなか、このような状況に幅広く対応した次世代の辞書が必要なのではないか――。こうした声が内外から聞かれるようになり、2005年、本辞典の改訂増補版を立ち上げるに至った。

2025年6月17日火曜日

サントリー美術館「酒吞童子ビギンズ」5

もう一つのメダマである住吉廣行筆の「酒呑童子絵巻」もチョッと見てみましょう。はるばるドイツのライプツィヒ・グラッシー民族博物館から飛んできてくれた、「酒呑童子絵巻」の別バージョンです。サントリー美術館本にはなかった、酒呑童子の生い立ちが詳しく描かれていて愉快です。しかし両者の関係については、これまた専門家に一任することにしましょう。

もっとも日本絵画史をナリワイとしている僕にとって、狩野探幽原本の模本とみられる「大江山絵巻」(逸翁美術館蔵)により、探幽の「瀟洒淡白」という特徴が今回はっきりと視覚的に認識できたことは大きな収穫でした。

このあいだ改めてレッシングの名著『ラオコオン』を読んだのですが、レッシングは異時同図法を「詩人の領域への侵害」であって「よき趣味」ではないと主張しています。ところがサントリー美術館本の酒呑童子をやっつけるシーンでは、異時同図法がとても効果的に使われています。それはレッシングの考えが間違っていることを、実証していると思います。

  ヤジ「オマエなんかがレッシングにケチをつけたところでどうなるんだ!!

 

2025年6月16日月曜日

サントリー美術館「酒吞童子ビギンズ」4

僕も赤羽末吉の『ももたろう』にプレイバックしたりしていました。赤羽末吉――すばらしい絵本作家ですね。彼を含めて、わが国の絵本は世界に誇るべき文化だと思いますが、そのオリジンが「酒呑童子絵巻」のような絵巻や御伽草子や奈良絵本にあったことは疑いありません。それは日本絵画史の大きな流れの一つだったのです。

「ごあいさつ」にあるように、現代のマンガやアニメもこれらの子どもたちなのですから、現代日本視覚文化のオリジンであったといっても過言ではないでしょう。しかしこれまた専門家に任せることにしましょう。酒吞童子の首をはねるシーンでさえ、現代のスマホゲームのように刺激的じゃ~ないかもしれませんが、絵とキャプションで酒呑童子の筋を追っていけば、とても上質な楽しみをしばらくの時間味わうことができるでしょう。


2025年6月15日日曜日

サントリー美術館「酒吞童子ビギンズ」3

 本特別展のメダマは、大修理を終え昨日描いたように新しくよみがえったサントリー美術館所蔵の重要文化財・狩野元信筆「酒呑童子絵巻」の全巻公開です。場面場面に簡にして要を得たお話のキャプションがついていますから、絵を見てそれを読み、読んでから絵を見てください。おもしろいことこの上ありません。

 狩野元信はかの狩野永徳のおじいさんにあたる画家で、中国画と日本画をとてもうまく融合して描いたことで有名ですが、この「酒呑童子絵巻」にもその特徴がよく現われています。しかし、そんな美術史専門家みたいな話はどうでもいいんです。

ともかくも絵とキャプションを見ながら、話の筋を追っていくことをお勧めしたいと思います。お母さんに絵本を読んでもらった子どものころが、懐かしくよみがえってくることでしょう。あるいは、お子さんにプレゼントした絵本のことを思いだされる方もいらっしゃるでしょう。

 

2025年6月14日土曜日

サントリー美術館「酒吞童子ビギンズ」2

酒呑童子の住処といえば、物語によって丹波国大江山、あるいは近江国伊吹山として描かれ、サントリー本は伊吹山系最古の絵巻として知られます。以降、このサントリー本が《図様のはじまり》となり、江戸時代を通して何百という模本や類本が作られました。 さらに近年注目されるのは、サントリー本とほぼ同じ内容を含みながらも、酒呑童子の生い立ち、すなわち《鬼のはじまり》を大胆に描き加える絵巻が相次いで発見されていることです。

本展では、これらの《はじまり》に焦点をあて、絵画と演劇()の関連にもふれながら、 酒呑童子絵巻の知られざる歴史と多様な展開をたどります。現代のマンガやアニメにも息づく、日本人が古来より親しんできた鬼退治の物語をお楽しみください。

 

2025年6月13日金曜日

サントリー美術館「酒呑童子ビギンズ」1


サントリー美術館「酒呑童子ビギンズ」<615日まで>

 お急ぎください!! 千載一遇、空前絶後、曇華一現の特別展です!! あとわずか3日間です!! サントリー美術館で開催中の「酒呑童子ビギンズ」がそれです!! まずは永久保存版にして残部僅少、終了後値上がり必至(!?)のカタログに載る「ごあいさつ」によって、その概要を知ることにしましょう。

 酒呑童子は、日本で最も名高い鬼です。 平安時代、都で美しい娘たちを次々に誘拐していた酒呑童子が武将・源頼光とその家来によって退治される物語は、十四世紀以前に成立し、やがて絵画や能などの題材になって広く普及しました。 なかでも、サントリー美術館が所蔵する重要文化財・狩野元信筆「酒伝童子絵巻」は、後世に大きな影響を与えた室町時代の古例として有名です。 このたびの展示では、解体修理を終えたサントリー本を大公開するとともに、酒呑童子にまつわる二つの《はじまり》 をご紹介します。 

2025年6月12日木曜日

鎌倉国宝館「集結!北斎のエナジー」5

題名だけじゃ~ありません。鈴木先生が中心になって編集した、『北斎読本挿絵集成』3(美術出版社)には『勢田橋龍女本地』が収められています。その素晴らしいコロタイプ図版を見ていたはずなのに、完全に忘れていたんです。ところがさすが荒川正人さんです。この読本のなかに、「酔余美人図」とほとんど同じ姿態の美人が描かれていることを発見したのです。しかもそれが、有名な荘子胡蝶の夢をイメージソースとしているというのです。

この発見が僕の興味をとくに引いたのは、ちょうどいま柳沢淇園(柳里恭)の「睡童子図」などを取り上げつつ、いわゆる文人画の書画一致思想――僕にいわせれば書画補完思想について拙文を書いているところだったからです。

 

2025年6月11日水曜日

鎌倉国宝館「集結!北斎のエナジー」4


 このカタログには、氏家浮世絵コレクション理事長をつとめる内藤正人さんが、やはり「酔余美人図」をテーマに、「『酔態』と『睡態』――酔余美人図のコンテクスト」という魅力的な巻頭論文を書いています。酔態と睡態――タイトルがまた洒落ているじゃ~ありませんか。

とくに僕が興味を惹かれたのは、『勢田橋龍女本地』によく似た姿態の美人が描かれているという指摘でした。『勢田橋龍女本地』は文化8年(1811)に出版された読本で、作者は柳亭種彦、挿絵は種彦と親しかった北斎です。

僕もこの読本の題名は知っていました。鈴木重三先生が著わした北斎研究の基本文献ともいうべき『人間 北斎』(緑園書房 1963年)に、北斎が晩年愛用したチリチリとした衣文線について、年代が確定できる初出はこの読本であると指摘されていたからです。

 


2025年6月10日火曜日

鎌倉国宝館「集結!北斎のエナジー」3

 

 「僕の一点」は、何といっても「酔余美人図」ですね。北斎最高傑作の一つでしょう。あんまり素晴らしいので、10年ほど前、お元気だった黒川(氏家)ご夫妻のお許しを得て、『國華』1452号に拙文解説を寄せちゃったんです。「北斎はバロックだ」というのが持論なので、この作品についても次のような一文をもって〆にしたのでした。

 しかし新しい創造を希求して止まぬ北斎は、宗理型美人を再生産することを潔よしとしなかった。「亀毛蛇足」印を用い始めるころから、新しい美人型の創出に挑戦するようになる。「亀毛蛇足」印使用時代の北斎美人図を、宗理型美人にならって亀毛型美人と呼んでみたい。この亀毛型美人は、宗理型美人が湛えていた古典主義的、あるいは浪漫主義的女性美を惜しげもなく捨て去って、19世紀という新時代に即応する女性美を誇示するようになる。それを一言でいえば、バロック的女性美だと断言してよいであろう。 

2025年6月9日月曜日

鎌倉国宝館「集結!北斎のエナジー」2

氏家浮世絵コレクションは、長きにわたり美術品の蒐集につとめた氏家武雄 (一九〇三~八〇)による肉筆浮世絵の一大コレクションです。昭和四十九年(一九七四)十月一日、 氏家と鎌倉市が協力し、鎌倉国宝館内に「財団法人氏家浮世絵コレクション」が設置され、令和六年(二〇二四)には財団設立から五十周年を迎えました。

氏家が蒐集をはじめたのは、一九三〇年代という、戦争の暗い影におおわれた時代のことでした。製薬会社を興し、はじめはあらゆる美術品に眼を留めていた氏家ですが、終戦直後に自らの蒐集活動の目指すべき方向を定めます。 氏家は「我が国独自の創造的なもので、世界に誇れるもの」として、版画ではなく、絵師本来の技量を伝える一点物の肉筆浮世絵をその対象に選び、蒐集を通して海外漏出から守ることを心 に決めたのでした。

 

2025年6月8日日曜日

鎌倉国宝館「集結!北斎のエナジー」1

 

鎌倉国宝館「集結!北斎のエナジー――肉筆浮世絵の殿堂――」

 「氏家浮世絵コレクション財団設立50周年記念特別展」として、「集結!北斎のエナジー――肉筆浮世絵の殿堂――」が鎌倉国宝館で開かれていました。「開かれていました」というのは、511日に終わっちゃったからです() しかし6日のアヤメでも、是非このブログにエントリーしておきたいと思います。

それは学芸員の中川満帆さんがキューレーションを行なった、すばらしい肉筆浮世絵展だったからです。8年ほど前、「永田生慈さん北斎画を寄贈」と題してアップしましたが、その永田先生からお呼びがかかり、氏家浮世絵コレクション財団の理事をつとめていたことがあったからです。本展のカタログに、僕のエッセー「氏家浮世絵コレクションの魅力」が載っているからです――再録ですが() 

氏家浮世絵コレクションの概要については、カタログの「ごあいさつ」をもって代えることにしましょう。


2025年6月7日土曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」18

しかし今回の「べらぼう」は、いまのところ皆勤賞です。もちろんNHK文化センター講座で本展を取り上げたので、観なくちゃまずいと思って観ているわけじゃ~ありません。畏友・浅野秀剛さんが浮世絵関係の監修をやっているからといって、彼に義理を立てているわけでもありません。観ていてワクワクするから観ているんです。とくに5代瀬川を演じた小芝風花にワクワクしたかな()

あまり「べらぼう」を評価しない専門家もいらっしゃるようですが、森下佳子のような脚本は僕に書けません。横浜流星のように演じることも、ジョン・グラムのように効果音楽を作曲することもできません。僕にはゼッタイできない――もうそれだけですごいテレビドラマです。

  ヤジ「オマエなんかを基準にしてどうするんだ!!

 

2025年6月6日金曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」17

 

一言でいって、鈴木さんの思考は狂歌や黄表紙や洒落本と同じように、とても明るく軽やかなんです。改めてこの名著を読み返し、ちょっとネクラな(!?)僕の妄想と暴走を再考しようと思っているところです。

実をいうと、本書が出たときにすぐ求めようと思いながらそのままになっていたところ、NHK文化センター講座の熱心な受講生であるWさんが貸してくれたんです。一読してこりゃ~やはり書架に備えなければならんと、ソク注文したことでした。

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」はとてもよく出来ていると思います。毎週日曜20:00にガラケーの目覚ましをセットしておき、ゼッタイ見逃さないようにしています。昭和39年の第2回大河ドラマ「赤穂浪士」はチョッと観た記憶もありますが、その後はまったくご無沙汰してきました。

2025年6月5日木曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」16

 

今年の1月、『本の江戸文化講義 蔦屋重三郎と本屋の時代』という一書が角川書店(KADOKAWA)から出版されました。著者は蔦屋重三郎を中心に、書籍文化史の研究ですぐれた本をたくさん著わし、僕も多くを学ばせてもらってきた鈴木俊幸さん、しかも今回「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の歴史考証を担当している鈴木俊幸さんです。これまた名著、皆さんにおススメする所以です。

もちろん鈴木さんは、恋川春町の『鸚鵡返文武二道』を取り上げています。大田南畝や朋誠堂喜三二についても、寛政の改革についても新しい見方を提示しています。とくに松平定信側近の水野為長が、施政の参考に供すべく収集し書き留めた風聞集『よしの冊子ぞうし』を用いて考察した寛政の改革論は、目から鱗が落ちるようです。


2025年6月4日水曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」15

中西進さんの『辞世のことば』<中公新書>には、有間皇子ありまのみこから飯田蛇笏いいだだこつまで、60人が遺した辞世が選ばれています。しかし「今はの際は寂しかりけり」みたいな悲観に満ちるものは本書に見つかりません。

やや近いのは、在原業平の「つひに行く道とはかねて聞しかど昨日今日とは思はざりしを」でしょうが、色恋と戯作の違いはありながら、自分の好む道をまっすぐに歩んだ点で、春町は業平に似ているような感じもします。それはともかく、春町の内向的性格がその肉体をさいなんだのではないでしょうか。

また春町の狂歌名は酒上不埒さけのうえのふらちといいました。これは明らかに酒仙あるいはアル中(!?)であったことを示していますが、やはり飲み過ぎも病気の一因だったのではないでしょうか。春町の享年は数えで46、人生50年の時代といっても若すぎますね。

 

2025年6月3日火曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」14

死の訪れが間もないことを自覚すれば、もう怖いものはこの世に何もありません。そうだとすれば、浜田義一郎先生が引用する先の倉橋家文書が事実である可能性は、きわめて高いということになります。したがって自死というのは、あくまでウワサだったのではないでしょうか。いずれにせよ、恋川春町はすごい人間だと感を深くしますが、「いい加減はよい加減」なんていっている僕には、真似をしたくともできませんね()

ところで春町は純真で自己の信念に誠実だったと書きましたが、それだけにチョッと内向的性格だったようにも思われます。あるいはややペシミスティックだったのかもしれません。僕がそのように想像するのは、

我もまた身はなきものとおもひしが今はのきははさびしかりけり

という春町辞世の一首を知るからです。

 

2025年6月2日月曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」13

もっとも水野稔先生は、「それら(『鸚鵡返文武二道』など)はかならずしも新政を批判するものでもなく、たまたま黄表紙の戯謔ぎぎゃくとうがちが、新しいトピックとして時事問題をとりあげたにすぎず、そこに意識的な根強い幕政風刺の意図を見いだすことはできない」と指摘しています。

確かに近代的な意味での政治批判とは異なるでしょうが、春町が単にウケねらいや、新しいトピックといった軽い気持ちでテーマに選んだとはどうしても思えません。武士がこのような本を書いて出版すればどういうことになるか、春町にはよく分かっていたはずです。「確信犯」だったのです。

封建的身分社会にあって、政権からの召喚とか、さらに手鎖とか、身上半減とかのダメージは、現代と比較にならぬほど重かったのではないでしょうか。春町を含め彼らはそれを賭して、みずからの道を歩んだのです。そう思わなければ、彼らも浮かばれません。

 

2025年6月1日日曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」12

恋川春町は絵も得意で鳥山石燕に入門しました。はじめは武士とともに絵師として生きることを望んだのです。その強い願望は、人気浮世絵師・勝川春章にあやかった「恋川春町」という戯作名に象徴されています。

『金々先生栄花夢』をはじめ、自作黄表紙の挿絵はほとんどみずから描き、朋誠堂喜三二のために挿絵を提供しているほどですから、栄之のように美人画浮世絵師として生きることもできたはずです。しかし春町は、結局それを潔よしとしなかったのでしょう。

このようにいろいろと考えてくると、『鸚鵡返文武二道』は長患いのため任に堪えず、死を予感した恋川春町が寛政改革に対する自己の気持ち――こんな改革は人間本来の生き方を抑圧するものだという見解を率直に述べた「遺書」だったような気がしてくるのです。