2017年7月31日月曜日

岡田秀之『長沢芦雪』1




岡田秀之『かわいい こわい おもしろい 長沢芦雪』(新潮社<とんぼの本>)


 嵯峨嵐山日本美術研究所の岡田秀之さんが、かの奇想の画家・長沢芦雪をモチーフに、絶対のオススメ本を著わしました。6年前、岡田さんが企画開催した特別展「長沢芦雪 奇は新なり」は、改めて芦雪の魅力を僕たちに教えてくれたものでした。


そのとき僕も声をかけられ、当時MIHO MUSEUMの館長をつとめていらっしゃった辻惟雄さんと、この4月から僕のあと京都美術工芸大学プレジデントを引き受けてくれた冷泉為人さんと3人で、芦雪をサカナに鼎談をやったことを懐かしく思い出します。


鼎談の前に、岡田さんを含めた4人で会場を回りながら、僕が「こんなすごい芦雪、どこで見っけたの? 俺もまったく知らなかった傑作だ!!」といった調子で「饒舌館長」をやっていたら、ガードマンの美しいお嬢さんから、「お静かに願います!!」と一本取られたのも、懐かしい思い出、いや、ちょっとほろ苦い思い出です。

その岡田さんが、さらに多くの人に芦雪というシャングリラに遊んでもらいたいと、満を持して世に問うたのが、この「とんぼの本」です。「応挙よりウマイ 若冲よりスゴイ 伝説の絵師のすべて」という腰巻も、岡田さんの意気込みを語っているようです。もっとも、考えたのは担当編集者の黒田玲子さんかもしれませんが……。

 

2017年7月30日日曜日

静嘉堂文庫美術館「私の好きな茶道具ベスト10」4<白磁水指>2


それは「鳥の子」と呼ばれてきましたが、つまり「鳥の子紙」――鳥の子色をした紙の意味です。鳥の子色とは、ニワトリの卵の殻のような淡黄色のことです。白磁といっても、それは純白じゃありません。もちろん定窯磁器は、牙白と呼ばれる象牙に似たクリーム色である点に特徴があるわけですが、わが国においては、このような温かみのある白磁をとくに「鳥の子」と呼んで大切にしてきました。

近代以前、定窯のような華北の陶磁がわが国へ将来されることは少なかったそうですが、あまりにも厳しい白磁は敬遠されることが多かったのでしょう。それは龍泉窯の青磁や、景徳鎮の染付や古染付の方を日本人が好んだ現象と、表裏の関係に結ばれているような気がします。しかしこの深鉢は「鳥の子」ゆえに、やさしい白磁として、前田家のお蔵に納まることになったのでしょう。

唐時代、中国の磁器は、華北の邢窯や定窯が白磁中心となり、江南の越窯が青磁中心となったので、「南青北白」と言われました。しかし、宋時代になっても、定窯が白磁中心であり、龍泉窯が青磁中心であったことを考えれば、やはり南青北白の伝統は生きていたともいえるでしょう。

この南青北白という観点からみると、古く日本人は、北白よりも南青の方に多く惹かれたように思われます。それは北宋山水画より、南宋山水画を好んだ美意識と、どこかでつながっているようにも感じられるのですが……。

2017年7月29日土曜日

静嘉堂文庫美術館「私の好きな茶道具ベスト10」3<白磁水指>1


 ②白磁刻花蓮花文輪花形水指は中国・定窯の逸品、北宋から金にかけての制作と推定されています。もともとは深鉢として中華料理を盛り、皇帝の豪華な食卓を飾ったにちがいありません。麻婆豆腐か、青椒肉絲か、はたまた酢豚でしょうか――僕が大好きな家常菜なんか皇帝には出さないような気もしますが……。しかし少なくともデザートの杏仁豆腐なら、この深鉢にピッタリですし、きっと皇帝も喜ぶでしょう!?

いずれにせよ我が国では、これに塗り物の蓋を用意して、茶の湯の水指に使ったらしく、伝えてきた加賀藩前田家でも水指と呼ばれてきました。伝世品であるこの作品以外に、このような使われ方をした定窯磁器があるのでしょうか。もしあるとすれば、近代になって、この水指にならったものにちがいありません。

瓜のような縦筋を入れた優美なフォルムや、内外に加えられた片切り彫りによる蓮花文のおおらかさ、きわめて薄い陶胎を削り出すテクニックなど、非の打ちどころがありません。しかし僕が、もっとも興味を持ったのはその肌の色です。

2017年7月28日金曜日

静嘉堂文庫美術館「私の好きな茶道具ベスト10」2<曜変天目>


①曜変天目については、もうずいぶんアップしてきましたので、ここでは僕に曜変虹蜺邪淫説を思いつかせてくれた聞一多のことを、紹介することにしましょう。聞一多の名前は、桑原武夫の名著『一日一言』<岩波新書>で早くから知っていました。715日の条に、「この日、昆明で国民党のテロに殺された。詩人にしてかつ文学研究者。その研究は卓抜な見識に富む」として登場するからです。桑原武夫は聞一多の「臧克家氏への手紙」を引用していますが、あまりにも多くの古文献に恵まれた中国知識人の苦悩や反発は、かの魯迅も吐露するところでした。

私は10年余りも古書のなかで暮して、確信ができました――わが民族、わが文化の病根がはっきり分かったのです。そこでそれの処方箋を書く気になりました。それの方式が、文学史(詩史)になるか、または詩(史詩)になるかは分からないし、どれにしても駄目かもしれません。決定的な処方箋ができ上がるかどうかは、環境がそれを許すか否かにかかっています。しかし、私としては、このやり方に誤りはないと信じています。実は私はあの古書の山を誰にも増して憎むものです。憎むからこそ、そいつをはっきりさせずには済ませないのです。

 

2017年7月27日木曜日

静嘉堂文庫美術館「私の好きな茶道具ベスト10」1


静嘉堂文庫美術館「おしゃべりトーク 私の好きな茶道具ベスト10」(723日)

 いま開催中の企画展「珠玉の香合・香炉展」についてはすでにアップしたところですが、お陰をもちまして、予想をはるかに超えるお客様に来館していただいています。813日(日)までですので、まだの方は一刻も早くご来館くださいませ!!

 この企画展にちなみ、三井記念美術館の赤沼多佳さんをゲストにお招きして、二人が各々「私の好きな茶道具ベスト10」を選んで、掛け合いトークをすることになりました。僕はすべて静嘉堂文庫美術館コレクションから選ぶことにして、次の10点をリストアップしました。

①曜変天目 ②白磁刻花蓮花文輪花形水指 ③長次郎「黒楽茶碗(紙屋黒)」 ④交趾四方魚文香合 ⑤尾形光琳「住之江蒔絵硯箱」 ⑥原羊遊斎「片輪車螺鈿蒔絵大棗」 ⑦因陀羅「禅機図断簡」(智常禅師)」 ⑧梅渓図 ⑨伝紀貫之「寸松庵色紙」 ⑩伝狩野元信筆「猿曳棚」

 

2017年7月26日水曜日

三菱一号館美術館「レオナルド✖ミケランジェロ展」3


画家は、まず優れた師匠の手になる素描を模写することに習熟しなければならない。彼の先生が、その手習いができたと判断したら、次いで優れた立体物を模写することに習熟しなければならないが、その規則については、立体物の模写についての個所で述べよう。

これは一種の粉本主義ではありませんか。粉本主義は決して江戸狩野の専売特許なんかじゃなく、西洋にもあったし、ダ・ヴィンチも認めていたんです。橋本雅邦が『國華』3号に寄稿した「木挽町画所」で述べているような、「粉本に始まり粉本に終わる」といった教育法とは異なるものと想像され、おそらく最終的には実物写生に進んだのでしょう。しかしスタートは、あくまで師匠の手になる素描であったのです。

2017年7月25日火曜日

静嘉堂「曜変天目」諸説7



ただ、このご本を通読してみると、『旧約聖書』に登場するノアの虹をはじめとして、西洋では虹を瑞兆とか正義を象徴するものとみる思想が強く、不吉とか邪悪なものと考える傾向は薄いように思われましたが……。

虹といえば、先日の『朝日新聞』に、今夏の朝日放送(ABC)高校野球応援ソング「虹」を作詩作曲したシンガー・ソングライターの高橋優さんが紹介されていました。♪こぼれた涙に日が差せば 虹がかかるよ♪ 「虹になってやろうという意思が、大人たちが感じる『青春』『ときめき』『美しさ』なんじゃないか」と感じて、球児から受けた前向きなエネルギーを歌詞に込めたそうです。

♪虹を待つな 虹になれ♪――虹蜺邪淫説の対極にある、じつに美しいフレーズですね。もし簡単なコード進行なら、そのうち弾き語りにチャレンジしてみることにしましょう。もうウッディー・リヴァーで森さんとやる機会はなさそうですが!?

2017年7月24日月曜日

静嘉堂「曜変天目」諸説6



その後、京都大学の岡田温司[あつし]さんから、『虹の西洋美術史樹脂』<ちくまプリマー新書>をいただきました。これまたオススメ本ですが、曜変虹蜺邪淫説の観点からとくに興味深いのは、第4章「女王の虹――権力の象徴」のなかの「虹と蛇」です。宮廷肖像画家アイザック・オリヴァーがエリザベス一世を描いた「虹の肖像」を取り上げて、虹および蛇の両義性を分析しているからです。

岡田さんによると、古今東西のさまざまな神話が物語っているように、古くから蛇(龍)は虹とも密接な関係を保ってきました。たとえば、オーストラリアの先住民アボリジニは、虹と蛇の合体した図像――「虹蛇」<レインボーサーペント>を、先史時代からずっと受け継いできたそうです。

この図像は、雨や水と結びついて、自然のもつ創造的かつ破壊的な力を象徴しています。虹も幸福のシンボルですが、同時に不吉なものともなりえます。このような自然の両義的な力が、水とのかかわりが深い虹と蛇の両方に投影され、合体したのだというのが岡田さんの指摘です。

2017年7月23日日曜日

静嘉堂「曜変天目」諸説5



このような美術だけでなく、天皇からドラえもん・サザエさんまでを論じて実におもしろく、また対応英訳付きとなっていますので、外国人に日本文化の歴史や社会的背景を知ってもらいたいなぁと思うとき、とても便利なオススメ本ですよ。

もう一つ、高橋さんは『国宝への旅② 都雅檀風』<NHKライブラリー>から「曜変天目茶碗」のコピーも送ってくれました。そこには、当時における中国の人々の感性が、爬虫類的なイメージを与える斑点を気味の悪いものとして敬遠していた可能性が言及されていました。

つまり、僕と同じようなことを考えた方はいろいろといらっしゃったわけです。しかし私見は、聞一多の『中国神話』<平凡社・東洋文庫>から思いついた曜変虹蜺邪淫説である点に、私見たるゆえんがあるのですが!?

2017年7月22日土曜日

静嘉堂「曜変天目」諸説4



僕は山種美術館館長・山﨑妙子さんの好意で、その館の仕事もさせてもらっているのですが、理事会があるたびに高橋瞳さんとお会いし、ひとしきり美術談義に花を咲かせます。高橋さんは高橋公認会計士事務所の所長さんで、山種美術館の監査役をつとめていらっしゃるのですが、お話をしていると、日本文化に対する飽くなき好奇心と豊かな教養を身に付けたジェントルマンという感じを強くします。

談たまたま曜変天目に及んだとき、私見とマイブログのことを申し上げると、ご著書『日本文化入門』(小学館)を送ってくださいました。早速に開くと、「茶道と曜変天目茶碗」という一節があります。「この茶碗で茶を点てることは想像しがたく、もしそのような機会にめぐり合った時は、目から天目の星が飛び出る気分になるのではないか」というユーモラスな記述とともに、最高の曜変天目として静嘉堂文庫美術館の一碗が紹介されています。

 

2017年7月21日金曜日

三菱一号館美術館「レオナルド☓ミケランジェロ展」2


「僕の一点」は、やはりダ・ヴィンチの「少女の頭部 <岩窟の聖母>の天使のための習作」です。鳥肌が立つような素晴らしさは、とても人間業とは思えません。じっとながめているうちに、パブロ・ピカソの古典主義時代の作品が脳裏に浮かんできたのでした。

そしてピカソはこの作品を、あるいはこのようなダ・ヴィンチの素描をきっと見ていたにちがいないと確信するに至りました。しかしダ・ヴィンチが神業であるのに対し、ピカソはあくまで人間業に止まっている――しかしその最高の高みに達していると感じたことでした。

ダ・ヴィンチやミケランジェロの絵画論から一節を抜き出したパネルからも、大きな示唆を受けました。一番興味深かったのは、ダ・ヴィンチの模写に関する考え方でした。それは斎藤泰弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ 絵画の書』(岩波書店 2014)から採ったことを教えてもらったので、その「63 画家の教則」を全文引くことにしましょう。

静嘉堂「曜変天目」諸説3



しかし、曜変天目が窯を出てすぐさま消されてしまったのならば、なぜ日本に伝わってきたのかという疑問が起こります。これに対して彭丹さんは、『清波雑志』という本に登場する仲檝[ちゅうしゅう]という老人に注目します。

徽宗皇帝の大観年間、景徳鎮窯で釉薬が辰砂のごとく真っ赤になってしまった窯変が発生したとき、陶工はそれをすぐ壊そうとしましたが、仲檝がいくつかを持ち出し、人々に「定州窯の紅磁よりも鮮やかだ」と誇って見せたというのです。窯変は不吉なものだという世間一般の見方にとらわれない仲檝のような人間が、天目茶碗を焼く南宋時代の建窯にもいたにちがいないと、彭丹さんは推測しているのです。

窯変という不完全な陶磁器に対する中国人の強い忌避感は、僕もアップしたとおりですが、それを天の思想と結び付けたところが彭丹さんのすばらしいアイディアです。

 

2017年7月20日木曜日

三菱一号館美術館「レオナルド☓ミケランジェロ展」1


三菱一号館美術館「レオナルド☓ミケランジェロ展」<924日まで>

 ポスターには「宿命の対決!」という刺激的キャッチコピーが踊っています。すぐに僕は、「対決! 巨匠たちの日本美術」――略称「対決展」を思い出したことでした。2008年、『國華』創刊120周年をことほいで、東京国立博物館平成館でやった特別展です。

運慶VS快慶から横山大観VS富岡鉄斎まで、12組の対決を仕立てあげ、各々の傑作を展示して観覧者に優劣をつけてもらおうという企画でした。優劣というと、ちょっと語弊がありますね。ご自分の好悪にしたがってお楽しみくださいという企画でした。

何といっても『國華』主催記念展ですから、絶対美術史的なクオリティを担保しなければいけませんでしたが、それだけでは僕が言う美術展質量主義に反します。美術展はすぐれた質を保つとともに、量、つまり多くの観覧者を集めるように努力すべきであって、どんなに片っ方だけがすごくっても、それはいい美術展とは言えないという考え方です。

「対決展」は量の観点からも大成功でした。企画事業部の町田さんがとても喜んでくれ、『國華』近くのお店で打ち上げの飲み会を開いてくれました。秋田県人である僕の気持ちを忖度して、秋田料理の「きりたんぽ」さんでやってくれたんです!?

静嘉堂「曜変天目」諸説2


ここで取り上げるのが、第2章の「曜変天目の謎」です。詳細は本書をお読みいただくとして、日本限定現象は、古代中国における絶対的な存在である「天」と相容れないものとして起こった現象であるというのが、彭丹さんの結論です。

彭丹さんによれば、中国の製陶は、上古時代の神農、黄帝、舜など古代の聖人から始まったものとされています。したがって、製陶は陰陽五行の調和を象徴し、神聖な意味をもっていました。

しかし、この神聖な活動に、窯変という予測のできない異変が起こると、当然それは天意の現われであり、天から与えられた警告だと見なされます。したがって、窯変はどんな素晴らしく見えても、窯から出るなり砕かれる運命にありました。その変化が素晴らしければ素晴らしいほど、妖気だと見られたのです。

 

2017年7月19日水曜日

静嘉堂「曜変天目」諸説1


 さて、いよいよ曜変天目の「日本限定現象」に関する新しい情報へ進むことにしましょう。すでに田中優子さんから、この問題を論じた中国人留学生が法政大学にいたことを聞いていました。それが彭丹さんで、日本限定現象を中心に、日中陶磁比較論の観点からまとめた興味深い一書が、『中国と茶碗と日本と』(小学館 2012)です。

腰巻には、「日本人が気づかない日本文化の死角」「謎多き茶碗に秘められた中国と日本の似て非なる文化的本質を新進気鋭の中国人研究者が読みとく」とあります。僕だったら、最後に!を2つか3つ付けちゃうところですね!!! 

本書の著者紹介によると、彭丹さんは1971年、四川省重慶の生まれ、日中比較文化研究者として、法政大学社会学部の講師をつとめているそうです。研究のかたわら、茶の湯、能楽、禅などの日本文化に親しむとありますから、すでにアップしたことがあるデービッド・アトキンソンさんと同じく、もう僕など足元にも及ばない日本人だといってよいでしょう。

 

伊井春樹『小林一三は宝塚少女歌劇に……』4


楯彦は伊井さんの新著に「もっとも大阪の画家らしいと評判の菅楯彦」とあるとおり、明治から大正、昭和へと、三代にわたり活躍した大阪の画家で、その個性的風俗画は一世を風靡しました。今回とくに楯彦の名前が目に止まったのは、長い間親しくさせてもらっている日本美術史研究家で、米国・リッチモンド大学名誉教授のスティーブ・アディスさんから、ちょうど楯彦に関するメールをもらったところだったからです。

今秋、リッチモンド大学美術館で開催する特別展「Unexpected Smiles: Seven Types of Japanese Paintings」の準備をしているアディスさんは、そこに楯彦の「大阪月次風俗図」という双幅を陳列することにしたそうです。その画像を送ってくれるとともに、ちょっとした質問を添え、僕に意見を求めてきました。この双幅は楯彦の諧謔的画質がよく現われたおもしろい作品だったので、意見を述べる必要上、楯彦について少し調べてみました。

調べてみると、生き方もじつに愉快な画家であることが分かり、その双幅をぜひ見てみたい、その展覧会も一緒に楽しみたいという気持ちになりました。伊井さんの新著に楯彦が登場することを、アディスさんに即刻メールしたことは、改めて言うまでもありません。

ところで、逸翁のすぐれたコレクションをそのままに伝える逸翁美術館は、今年開館60周年を迎えます。先日、伊井さんから求められるまま、その記念図録に「逸翁絵画コレクション」というエッセーを寄稿したところです。また1111日(土)には、逸翁美術館で講演もやらせてもらうことになっています。そのタイトルや、「ひねもす蕪村を語り尽す――饒舌館長、池田へ見参!!」というのですから、果たしていかなることになるのでしょうか。本人にもよく分かりません!?

2017年7月18日火曜日

サントリー美術館「神の宝の玉手箱」3


もちろん、平安蒔絵を代表する「片輪車蒔絵螺鈿手箱」(東京国立博物館蔵)の蓋裏の花鳥文と比べるならば、鎌倉リアリズムの現実的視覚が確かにうかがわれます。しかし、基本的にその草花折枝文が王朝美の造形であり、そこにちょっとだけ鎌倉的要素が加わったものであることは、改めて指摘するまでもありません。

このように眺めてくると、外側の厳密な中国的構成と、内側の優美なやまと的描写が、やはり和漢のコントラストをなしていることに、大きな興味を掻き立てられるのです。確かに浮線綾はわが国の有職文ですが、そのもとには中国の幾何学文があったにちがいないからです。正倉院御物などに見られる団花文がそれです。そもそも浮織物自体、中国からもたらされた唐織だったんだと思います。浮線綾が一般的に唐花円文に分類されるのも、そのためなのでしょう。

しかも外側が漢となり、内側が和となっているところに、日本美術、ひいては日本文化の特質が何よりもよく現われているといってもよいでしょう。古く、公文書は漢文で、私的な手紙は仮名交じりで書いたのと似たような感覚です。

静嘉堂文庫美術館を開いた岩崎家は、数少なくない本邸や別邸を造りましたが、多くの場合、洋館を賓客用に、日本家屋を家族の日常生活に用いました。中国と西欧の違いはありますが、共通するトレンドがうかがわれます。

ところで、僕は佐野みどりさんから敦煌みやげとしてプレゼントされた千年胡楊木の櫛をずっと愛用していますが、この特別展を見て、櫛には呪力が宿ることを初めて教えられました。それなら、その呪力によって、最近とみに増えた白髪が再びみどりの黒髪に戻りますように!?

2017年7月17日月曜日

サントリー美術館「神の宝の玉手箱」2


「浮線綾」というのは、線つまり糸を浮かせるようにして織った浮織物の綾[あや]という意味の染織用語です。しかし藤末鎌初以降は、むしろ唐花円文の一種を指す有職故実文様の名称として使われることが多くなりました。もちろん漆工芸である「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」の場合も、この意味で用いられています。

金粉を密に蒔いた沃懸地[いかけじ]に、螺鈿をもって、蓋の表から蓋鬘[ふたかずら]、そして身側面に連続して規則正しく浮線綾がほどこされています。ちょっと曼荼羅を思わせるような、厳密なる幾何学性、あるいは整然たる理智性をもった文様構成は実にみごとで、直立不動の姿勢で鑑賞しなければならないといった気持ちにさせられます。

しかし僕は、蓋の裏にほどこされた草花折枝文の方に惹かれてしまうのです。平目地の上に研出蒔絵[とぎだしまきえ]で表わされた30種ほどの四季にわたる草花たちは、アンシンメトリーを特徴とする、平安後期の和鏡の装飾文様とまったく同じではありませんか。

それらは王朝文化が生み出した、やさしくエレガントな美しさのシンボルだといってもよいでしょう。「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」自体は、鎌倉時代に入った13世紀の作品ですが、そこには王朝の美意識がはっきりと感じ取れるのです。

2017年7月16日日曜日

サントリー美術館「神の宝の玉手箱」1


サントリー美術館「神の宝の玉手箱」<717日まで>

 玉手箱といえば、浦島太郎が龍宮の乙姫様からもらい、帰ってから開けたら自分が一瞬にして白髪の老人になってしまったという箱――「開けてびっくり玉手箱」を思い出す出すことでしょう。しかしもともとは、金銀や螺鈿で飾られた玉のように美しい箱という意味でした。それが浦島伝説に取り入れられて、そっちの方が有名になってしまったのでしょう。

サントリー美術館六本木開館10周年をことほぐ「神の宝の玉手箱」は、この玉手箱という工芸が秘める独自の美しさと、私たちが世界に誇りたくなるものづくりの精緻なテクニック、そこから広がる豊かな玉手箱イメージを、実際の遺品と関連資料によって視覚化しようとする、オススメの特別展です。ギャラリーを巡るうちに、あの浦島伝説が生まれた理由も、おのずと理解されてくることでしょう。

さて、サントリー美術館最高の逸品として、国宝「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」があります。今回、人間国宝・室瀬和美さんの手により、50年ぶりの修復が完了しました。これを初公開する特別展でもあるのです。もちろん「僕の一点」もこの国宝手箱です。

2017年7月15日土曜日

伊井春樹『小林一三は宝塚少女歌劇に……』3


会場建物の二階に上がると、雪佳と楯彦によって考証された時代婦人風俗人形が飾られ、女性の髪で作られた実物大の時代髷17種、加えて服装、音楽、書画、衛生、舞踊、装身の各部に新旧の作品が陳列されていた――と、これまた『大阪朝日新聞』にあるそうです。

雪佳は最近とみに評価の高い近代琳派の画家であり工芸家です。一昨年、京都を中心として琳派400年記念祭が行なわれ、琳派ブーム?の様相を呈しました。僕も狩り出されて、京都国立博物館で開催された特別展「琳派 京を彩る」のゲスト・キューレーターをつとめることになった顛末については、すでにアップしたとおりです。この展覧会では、江戸時代までの琳派に限ったため、雪佳には出演してもらうことができませんでした。

しかし、細見美術館所蔵の琳派作品による特別展では大活躍でした。その特別展は、京都高島屋を振り出しに3箇所で行なわれたのですが、館長の細見良行さんは、雪佳に最大の見せ場を用意したのでした。

その細見美術館が所蔵する雪佳の傑作に「金魚玉図」がありますが、それをラベルにしたお酒も琳派400年を記念して発売されました。それを舞台でグイグイ?やりながら、落語家の桂文我師匠と琳派論を交わしたトークショー「おしゃべ琳派」も、今や懐かしく思い出されるのです。

雪佳のモノグラフも著わしている榊原吉郎さんから雪佳のお話を聞き、やがて二人の琳派観や京都江戸優劣論へと進んでいった対談も、やはり忘れることができません。

2017年7月14日金曜日

伊井春樹『小林一三は宝塚少女歌劇に……』2


ところが伊井さんは、この定説を疑い、独自の新しい見解を提示します。それは、大正元年63日の『大阪朝日新聞』に載る「宝塚の屋内水泳場」という記事の発見から生まれたものでした。

この記事によると、建物中央の天井は総ガラス張りで、2階は四方すべて桟敷席、床と水槽は色レンガと大理石造りでした。そして夏場は水泳場として用いるけれども、冬の間はプールの上一面を蓋で覆って観客の座席とし、脱衣場に舞台を組んで、劇場と公会堂が一緒になったような施設に早変わりさせる設計になっていると書かれているのです。

伊井さんによれば、プールの水を抜いて劇場にしたのではなく、逆に、劇場に水を入れてプールにも用いたのです。つまり逸翁は、最初から多目的ホールとして造っていたというわけです。僕も伊井さんの意見に大賛成です。かのアイディアマンにして、よい意味で緻密な策略家であった逸翁が、夏場の12ヶ月しか使えないプールに、莫大な資本を投じるはずがありません。

以上が本書のハイライトとなっている伊井新説ですが、それよりも僕がうれしかったのは、神坂雪佳と菅楯彦が登場してくることでした。大正2年春、逸翁はそのプール劇場を利用して、婦人博覧会を開催することにしました。早くから販売していた池田室町の住宅および沿線各地で進めていた住宅開発のサポートと、婦人がリードする新しい家庭像を提案するのが目的だったそうです。

 

2017年7月13日木曜日

伊井春樹『小林一三は宝塚少女歌劇に……』1


伊井春樹『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』(ミネルヴァ書房)

 いま逸翁美術館の館長をつとめている伊井春樹さんは、かの1989年の春から初夏にかけて、北京日本学研究センターで一緒に中国人学生を教えた同期の桜です。すでにアップしたところですので、ご記憶にある方は、ご記憶にあると存じます!? 

その伊井さんから、上記の新著をいただきました。今や100年の歴史を誇り、日本近代文化に華やかな彩りを添えてきた宝塚歌劇は、逸翁小林一三が創った宝塚少女歌劇から発展したものです。

逸翁は苦労の末開通させた箕面有馬電気軌道鉄道――今の阪急電車の終点となった宝塚を活性化し、ひいては鉄道そのものからも利益を上げるため、大正元年(1912)、温泉とともに室内プールなどの娯楽施設を有する近代的な洋館、宝塚パラダイスを建設しました。ところがこのプール、真夏でも水が冷たく、室内のため日光も射さず、5分と入っていることができなかったため、ほとんど誰も利用しません。

そこで逸翁は、継続は難しいと判断し、水を抜いて客席とし、脱衣場を舞台にして、少女歌劇を始めることにしました。いわば、宝塚歌劇は苦肉の策から始まった――これが定説となってきました。それも当然のことで、逸翁みずから、プールがうまくいかなかったので、それを少女歌劇の舞台に転用したと回想しているからです。

2017年7月12日水曜日

奇美美術館「おもてなし」11


最終日は、台北までの切符をゲットするため、貸し自転車でまず台南駅へ。同じ「台南駅」が、在来線の台鉄と新幹線の高鉄に存在し、しかもそれが電車で25分も離れており、後者の台南駅は台鉄の沙崙駅でもあるということが最初どうしても理解できず、何10分にもわたって台南のインフォーメイション嬢と国際交流につとめることと相なりました。

何しろ僕のブロークン・チャイニーズ、彼女のブロークン・ジャパニーズ、両方のブロークン・イングリッシュです。しかも今回は23日の旅だと思って、『地球の歩き方 台湾』を持っていかなかったものですから……。

新幹線の切符は高鉄・台南駅でしか買えないことも分かったので、台鉄・台南~沙崙の切符だけをゲットし、自転車で赤嵌楼へ。かつてここには台湾を植民地化しようとしたオランダが築いたプロビンシャ城がありました。その後、清朝に滅ぼされた明朝の復興を企てた鄭成功が、これを占拠して「承天府」と名づけ、行政活動の拠点としました。しかし1862年、台湾中南部を襲った大地震で倒壊し、その廃墟の跡に建てられたのが、現在の赤嵌楼だそうです。

楼閣に登って眺望を楽しんでいたら、沙崙へ行く電車の出発時間が気になりだし、早々に晶英酒店へ戻ってバッグを受け取り、タクシーでふたたび台南駅へ。もちろん在来線の方ですよ。こうして初めての台南旅行は無事終了することになりました。もっとも、その後一両日ちょっと頭痛がしたのは、台南の炎天下、帽子もかぶらずに自転車で走り回ったので、軽い日射病――今は熱中症というようですが、ともかくもそれににやられたせいかな?

2017年7月11日火曜日

奇美美術館「おもてなし」10




晶英酒店にチェックインのあと、三菱商事の野々村さんを加えた3人で、台南名物・担子麺で有名な「度小月」さんへ出かけましたが、座ろうとした途端、コケてしまいました。椅子がとても小さかったからです。

 ところで担子とは、天秤棒で担ぐようなかつぎ荷のことで、担子麺とは、むかし洪芋頭という若い漁師が、漁のひまな時に、ソバを天秤棒でかつぎながら売ったところから付けられた名称だそうです。日本でいえば、夜鳴きソバという感じですかね。

きっとその洪さんが携帯していたにちがいない小さな椅子のフォルムを、「度小月」さんは今も大切に守っているんだろうなぁなどと思いながら、台湾啤酒で盛り上がりました。そのあと、食後の腹ごなしをかねて、戦前に日本人の林さんが開いたという林百貨へ、ヒヤカシに出かけました。


 

2017年7月10日月曜日

奇美美術館「おもてなし」9 


兵器ホールの「僕の一点」は15本ほど展示されていた日本刀です。それを木製の段々式陳列具にハシゴのごとく掛けて展示してあったからです。日本では、必ず白い布で刀掛けを覆い、一振りずつ展示します。もちろん先の「超日本刀入門」でもそうしましたが、僕たちは日本刀に何かほかの工芸品とは異なる霊的心象をもっているからではないでしょうか。

しかし日本刀が武器の一種であることは紛れもなき事実であって、「武器ホール」に陳列するとすれば、これ以外の方法はあり得ないでしょう。ハシゴ状に並べることによって、他国の刀剣と客観的に比較する途が開けるからです。

こんなことを思いながら中国刀剣のコーナーに行くと、結構「反り」のあるものが陳列されています。平安時代に入って、直刀であった日本刀に反りが生まれるのは、戦法の変化と美意識によるものだと思ってきたので、「超日本刀入門」の館長挨拶にもそう書きました。しかし、時差に注意しながら、中国刀の影響も考えることが必要じゃないかなぁと反省しつつ、山田さんと待ち合わせの出口のところへ向かいました。

2017年7月9日日曜日

奇美美術館「おもてなし」8



楽器ホール・バイオリン展示エリアの「僕の一点」は、やはりアントニオ・ストラディバリの「バイオリン」です。世にストラディバリはたくさんあるわけですが、奇美美術館の一丁は1709年に制作された正真正銘のストラディバリ、旧所有者にちなんで「マリー・ホール-ヴィオッティ」の愛称が捧げられています。

チェロ、ビオラを含めて名器は数知れず、それらを許文龍さんはすぐれた演奏家に貸与しています。台湾を代表する若きバイオリニスト曽宇謙のCD「夢幻楽章」をおみやげにいただきましたが、解説によると、6曲すべて、奇美美術館が所蔵するジュゼッペ・ガルネリ・デルジェスの1732年製名器によって奏でられているそうです。さらに許文龍さんが、豊かな才能を示す若い音楽家の卵にも名器を貸与していることを聞いて、深く心を動かされたことでした。

楽器ホール・その他楽器エリアの「僕の一点」は、1915年のジュークボックスです。先日、「田能村竹田の勝利とエルヴィス・プレスリー」をアップしたとき、ドディー・スティーブンスのアンサーソング「イエス、アイム ロンサム トゥナイト」のレコード・ジャケットにジュークボックスが登場することを書きましたが、これはシックスティーズの話ですよ。それが1915年には、アメリカで作られていたんです!!

現在の音楽大衆化はアメリカのIT音楽ビジネスモデルによって果たされ、それまでトップを走っていた日本は昔日の耀きをまったく失ってしまったと聞いたことがあります。それを思い出し、1世紀前にジュークボックスを発明したアメリカには、負けてもしょうがないなぁという感慨にとらわれました。

ジュークボックスは、音楽をできるだけ多くの人間が、簡便かつ安価に楽しむべきだというイデアを内包しているからです。シンプルながら、それは脇に展示されていた60年代の懐かしきジュークボックスと基本的に同じ構造のように思われました。

2017年7月8日土曜日

奇美美術館「おもてなし」7


 


ロダン・ホールの「僕の一点」は、カミーユ・クローデルの「遺棄」です。クローデルはかのオーギュスト・ロダンの弟子にして、また恋人として知られていますが、その造形に対して、近年とくに高い評価が与えられるようになっています。2006年に府中市美術館で開かれた特別展は人気を集め、大きな話題となりました。ネットで検索すると、今年3月には、セーヌ川の上流にあるノジャン・シュル・セーヌという小さな町に、カミーユ・クローデル美術館が開館したそうです。
しかし、僕も執筆編集に参加した『新潮世界美術辞典』(1985年)に、「カミーユ・クローデル」の項目を見出すことはできず、お兄さんの「ポール・クローデル」の最後に、ちょっと言及されるだけなのです。
クローデルには、もともと古代インドの恋愛譚「シャクンタラー」に取材したオリジナルがあり、それをブロンズ化した作品が「遺棄」だそうです。もっともこれは、1905年版複製だそうですが、クローデルのロダンに対する愛憎を、それが言い過ぎなら愛情と猜疑を、いとも容易に読み取ることができるでしょう。
動物ホールの「僕の一点」は、何といってもアフリカゾウです。ともかくもデカイ!! 上野動物園で何度も見てきたはずですが、象舎の周りから遠望するといった感じでした。ところがこの動物ホールでは、目の前に屹立する巨体を仰ぎ見るのです。剥製とはいえ、動物園では絶対味わえない圧倒的迫力に、自然に対する畏敬の念がおのずと湧き起ってくるのです。

 

2017年7月7日金曜日

奇美美術館「おもてなし」6


ランチのあと、弦楽器の収蔵庫を見学しましたが、壮観の一語に尽きるとはこのことでしょう。三菱商事の方々はこの日帰国するので、見送ったあと、一人でギャラリーを回ることにしました。ギャラリーは芸術ホール、ロダン・ホール、動物ホール、楽器ホール(バイオリン展示エリア+その他楽器エリア)、兵器ホールに分かれ、彫刻アベニューが加わる形になっています。

それでは、各ホールの「僕の一点」を挙げていきましょう。まず芸術ホールからは、ポール・ギュスターヴ・ドレの「エフタの犠牲」です。ドレは19世紀後半に活躍したフランスの画家です。厳密にいえば、版画家兼画家ですね。初めパリの風刺ジャーナルの挿絵画家としてデビューしますが、間もなく油絵作品を発表するようになります。

一般的には、バルザックの『滑稽譚』をはじめとする挿絵の方が高く評価されているようです。鹿島茂さんの新著『失われたパリの復元 バルザックの時代の街を歩く』(新潮社)でも、ドレは「ヴィエイユ・ランテルヌ通り」という石版画の作者として登場しています。しかし、油絵においても一流の芸術家であったことを、この「エフタの犠牲」が証明してくれています。

涙なくしては聞くことができない『聖書』のお話に取材し、みごとに造形化していますが、イギリスで興ったラファエル前派の影響が、海を越えてフランスにも及んだことを物語ってくれます。しかし、キアロスクーロ(陰影法)を重視するフランス・アカデミズムの伝統が、過度の細密描写を遠ざけ、フランス・ラファエル前派とでも呼びたいような、独特な様式を生み出しています。その点に僕は、一番の興味を引かれたことでした。

2017年7月6日木曜日

奇美美術館「おもてなし」5


セレモニー終了後、長い時間をかけて計画を練り上げ、一週間前に現地入りをして準備を進め、遂にこの日を迎えた担当学芸員の山田正樹さんのギャラリートークへと移りました。会場には四畳半の茶室もしつらえられ、裏千家名誉師範・関宗貴さんのお手前も披露されました。

山田さんが担当した企画展「超日本刀入門」の時も感じたことですが、簡にして要を得た解説はとても分かりやすく、すっと腑に落ちるのです。今回のように通訳がつく場合、これはとくに重要なポイントとなります。「饒舌館長」みたいな解説は、通訳の方を悩ませるだけです。それに何より山田さんはイケメンです!? 奇美美術館の女性館員の方々にも、圧倒的人気があるようにお見受けしましたが……。

ランチは立派なミューゼアム・レストランで、おいしいロースト・ビーフが振舞われましたが、改めて静嘉堂文庫美術館にもレストラン――といわないまでもカフェが欲しいなぁと思ったことでした。前に広がる広い洋式庭園は、アラン・レネの傑作「去年マリエンバートで」をよみがえらせてくれましたが、もちろん筋はまったく思い出せませんでした。というより、半世紀前、映画館でスクリーンを見ながらも、筋はまったく理解できなかったのです!?

2017年7月5日水曜日

奇美美術館「おもてなし」4


29日朝、高鉄――いわゆる台湾新幹線で台南へ。2011年、台湾近代美術館を見学するため、台中まで行ったことはありますが、台南は初めてです。台南駅で降りると、やはり台北より南国度?がより一層高くなっているような感じです。それもそのはず、台北は亜熱帯ですが、台南は熱帯に属するそうです。

クルマで奇美美術館へ。応接室で皆さんと名刺交換のあと、許文龍さんのお部屋へ挨拶にうかがいました。90歳を迎えた許文龍さんは、マンドリンで「ふるさと」など日本の曲を3曲も演奏して、僕らを歓迎して下さいました。もしギターがあったら、唯一中国語で歌える「讀你」を返歌としたかったのですが、幸運なことにその部屋にはありませんでした。もっとも、「ふるさと」に対して「讀你」では、ちょっと失礼に当たるかも!?

そのあと、オープニング・セレモニーでも、羽織袴と和服の女性カルテットが、尺八と和琴で僕たちを歓迎してくれました。許文龍さんと佐々木さんのエール交換ともいうべき挨拶があり、記念揮毫調印式に移りました。

台南で「意象書法」の書家として有名な陳世憲さんが、「待客之心」――つまり「おもてなし」と書いてくれた大きな横幅がすでに用意されており、それに僕が「静嘉堂」の方印を、続いて奇美美術館幅館長の郭玲玲さんが「奇美美術館」の方印を捺して、この日の記念としました。

2017年7月4日火曜日

奇美美術館「おもてなし」3


このたび、奇美美術館の特別展スペースをお借りして、「おもてなし 宴のうつわ・茶のうつわ 静嘉堂文庫美術館蔵陶磁名品展」を開催させていただくことになりました。静嘉堂文庫美術館がはじめて海外の美術館で開く、大規模なコレクション特別展です。これによって日台友好がさらに進むことを願ってやみません。

28日、羽田空港からANA853で台北松山空港へ飛び、定刻に着陸すれば車で大倉久和大飯店へ。歓迎の宴のあと、ホテルの近くを一人で散歩しましたが、もっとも驚いたのは、100円ショップのダイソーがものすごい人気を集めていることでした。台北では「日本大創」、一律39元ですから、ほぼ150円ショップということになります。

僕も逗子のダイソーをよく利用しますが、会計のところにこんな長蛇の列ができるなんていうことは絶対ありません。台北と人口6万の逗子を比較することが間違っているとおっしゃるなら、かの原宿・竹下通りのダイソーと比べても同じでしょう。

ダイソーは広島のあるご夫婦が日々の糧を得るために、屋台で始めた商売がもとになって発展したものだと聞いたことがありますが、それが台北でこんなに愛されているのを知って、何かとてもうれしい気持ちになりました。近くにあった新光三越は、ちょっと日本大創にかなわないような雰囲気でしたが……。

 

2017年7月3日月曜日

奇美美術館「おもてなし」2


許文龍さんは立志伝中の方です。先の美術館案内にもあるとおり、プラスチック工業ですぐれた成功を収められましたが、少年のころの夢捨てがたく、奇美グループ創業者として私財を投げ打ち、この素晴らしい奇美美術館をオープンさせたのです。長年にわたり、三菱商事およびグループはその事業のお手伝いをさせてもらってきました。

しかし今回、許文龍さんと静嘉堂文庫美術館代表理事である佐々木幹夫さんとの交流振りを拝見するに及んで、単なるビジネス・パートナーではなく、厚い信頼関係によって結ばれていることを知りました。だからこそ、許文龍さんはこの奇美美術館の建設に対する三菱からの寄付をお断りになったのでしょう。それを知って僕は、許文龍さんに対する尊敬の念がいや増すのを覚えました。

幼いころから芸術という真善美の世界に憧れた許文龍さんは、実業家の前に芸術家であったようにも感じられました。事実、バイオリンの腕前はプロ並みであり、許文龍ルームに飾られた油絵の絵画的完成度もとても高いものでした。

その多くはコレクションの模写的作品でしたが、若いころ描かれた「樹林――イメージ」とでも名づけたいような小品は、もって生まれた造形的才能を遺憾なく発揮した作品として深く心に刻まれました。

2017年7月2日日曜日

奇美美術館「おもてなし」1


奇美美術館「おもてなし 宴のうつわ・茶のうつわ 静嘉堂蔵日本陶磁名品展」
                       <1112日まで>(628日~30日)

 奇美美術館は台湾を代表する新しい美術館です。まだ訪れたことがない方のために、日本語パンフレットの紹介をそのまま引用することにしましょう。

 奇美美術館は奇美グループ創立者である許文龍氏が、幼少期から老年に至るまで80年に亘って抱き続けていた夢を実現したものです。

 許氏は幼い頃、台南州立教育博物館へ見学に行くことがよくありました。幼心に受けた深い感動は文化的な種となって根付き、自分の家のように、いつでも帰って心の饗宴を享受できる、大衆のための博物館をいつか建てたいと願うようになりました。やがてプラスチック素材の事業が安定した後、まず個人的に美術品コレクションの蒐集を始めました。

後に基金会が設立されるとともに、奇美実業のサポートを受けて1992年に奇美博物館が創設され、奇美実業仁徳工場内において20年余り無料開放による運営が行なわれました。更に奇美博物館が誇る所蔵品をより良い状態で保存、展示するため、十数年もの努力を経て新たな移設先を見つけ、遂には現在の博物館の姿である美しい西洋建築が建てられました。創業者である許氏は「この博物館が永久に大衆のために在ること」を願いました。

 

2017年7月1日土曜日

静嘉堂「曜変天目」7


 単に美しいだけでなく、雨がやみ、天気がよくなっていく表象として、虹がたたえられているようです。あるいは、一瞬美しい姿を見せて、すぐに消えてしまう虹に、彼らははかなきものだけがもつ真の美を感じ取ったのでしょうか。

和歌だけではありません。俳句になると、中村草田男に「虹に謝す妻よりほかに女知らず」という一句があります。もちろん草田男は虹に感謝しているのであって、俺は不甲斐ない男だと、虹に謝っているのではありません!? 中国における「邪淫のシンボル」、つまり不倫の真逆ではありませんか!!

このような虹を忌むべきものと見なす思想ゆえに、虹彩鮮やかな曜変天目茶碗は中国で嫌悪されて国外追放に遭い、そのような伝統がまったくなかったわが国では、虹のごとく七色に輝く最高の茶碗として、きわめて高い評価を集めることになったというのが私見なのですが!?