ところが伊井さんは、この定説を疑い、独自の新しい見解を提示します。それは、大正元年6月3日の『大阪朝日新聞』に載る「宝塚の屋内水泳場」という記事の発見から生まれたものでした。
この記事によると、建物中央の天井は総ガラス張りで、2階は四方すべて桟敷席、床と水槽は色レンガと大理石造りでした。そして夏場は水泳場として用いるけれども、冬の間はプールの上一面を蓋で覆って観客の座席とし、脱衣場に舞台を組んで、劇場と公会堂が一緒になったような施設に早変わりさせる設計になっていると書かれているのです。
伊井さんによれば、プールの水を抜いて劇場にしたのではなく、逆に、劇場に水を入れてプールにも用いたのです。つまり逸翁は、最初から多目的ホールとして造っていたというわけです。僕も伊井さんの意見に大賛成です。かのアイディアマンにして、よい意味で緻密な策略家であった逸翁が、夏場の1、2ヶ月しか使えないプールに、莫大な資本を投じるはずがありません。
以上が本書のハイライトとなっている伊井新説ですが、それよりも僕がうれしかったのは、神坂雪佳と菅楯彦が登場してくることでした。大正2年春、逸翁はそのプール劇場を利用して、婦人博覧会を開催することにしました。早くから販売していた池田室町の住宅および沿線各地で進めていた住宅開発のサポートと、婦人がリードする新しい家庭像を提案するのが目的だったそうです。
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