2020年3月31日火曜日

島尾新『水墨画入門』3



「参考文献抄」には、僕が監修した『水墨画』(美術年鑑社)があげられていますし、水墨画について拙文を書いたこともあります。しかし今回、まったく知らなかった事実や示唆的な見方を、たくさん島尾さんから教えてもらいました。「矢代幸雄の名著『水墨画』<岩波新書>から半世紀、水墨画へのあらたな道案内」とうたっていますが、ガイドとしてだけじゃなく、水墨画と濃厚接触したいあなたにもオススメですよ()

最後に島尾さんは「シンプル・イズ・ベスト?」として、文人画家・浦上玉堂が如意道人という奇人に贈った「奇峰連聳図」を取り上げています。これは「如意道人蒐集画帖」(出光美術館蔵)に含まれる作品で、かつてその特輯号を『國華』で編んだとき、僕も2、3点解説を担当したことを思い出します。そこに加えられた玉堂の七言絶句を、またまたマイ戯訳で紹介することにしましょう。

2020年3月30日月曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』8



もちろんお酒をたたえる詩もあります。最近ある人から「酒仙館長」なる尊称を奉られましたが、「忘憂」とはよく言ったもの、ストレスに弱い僕が、嫌いなはずはありません() この「饒舌館長」でも、お酒の話がかなりのパーセンテージを占めているのではないでしょうか。その「酒仙館長」として、徂徠の一首を紹介せずにはいられません。「五言律詩百二十四首」のうちの「秋夜友人宅にて酒に対す」を……。

  いずこも秋の寂寥感 目と目で語る致仕への情
  歌舞音曲はないけれど すいすい進む盃[さかずき]
  友はふるさと懐かしみ 深夜 月光 町に満つ
  草木枯れ落つこんな夜 雁の音聞くのは堪えがたく……

2020年3月29日日曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』7


 
語注に導かれて『漢詩大観』をみたところ、『白楽天詩後集』の巻12に「浪淘沙詞六首」が載っていました。そのうちの第四をマイ戯訳で……。原詩は「借問江湖与海水 何似君情与妾心 相恨不如潮有信 相思始覚海非深」ですから、徂徠がこれからインスピレーションを受けた可能性は、充分考えられるのではないでしょうか。

劉禹錫の9首は知ることができませんでしたが、「劉白」と併称された二人ですから、徂徠は同時に影響を受けたのかもしれません。

ちょっとお尋ねしますけど 川や湖[みずうみ]それと海
あなたの情け我が心 どっちに似てると思います?
恨んでいるわ!来ぬ便り 潮汐みたいに決まっては……
思いこがれて悟ったわ! 海より深い夫[]の情け

2020年3月28日土曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』6


「七言古詩三十一首」の劈頭「浪淘沙詞」もすごくいい!! 「浪淘沙」の語注には、

唐代の歌曲名。七言絶句の形式で男女の情愛を歌う。『楽府詩集』巻八二では「近代曲辞」として、劉禹錫(九首)や白楽天(六首)などの作を収録。

 とあります。はじめて知りましたが、江戸の漢詩人は、ちゃんとこういう唐の恋愛詩にもオマージュを捧げているんです。またまたマイ戯訳を紹介することにしますが、これは葛飾北斎『潮来絶句』の逆バージョンだなんていったら、よく言うよ!!と嗤われてしまうでしょうか()

  青い楼閣十二階 この妓楼こそ我が家よ
  大きな川の波あらく 巻き上がる砂――ながめてる
  あなたの愛に比べれば 海もかえって浅くなる
  あなたの愛に比べれば 山の高さもメじゃないわ
  寄せては返す波のごと わたしの心は落ち着かず
  麻糸みたいに乱れてる 心をだれも知らないわ


2020年3月27日金曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』5


 
更にまた河辺の樹木輝いて 繚乱として花びらは散る
 昔聞く月に生えるという桂 大内裏へと移植されたと
 縹渺と仙界の花風に散り 音一つなく流れに落ちる
 漢水の女神が絹の靴下を はいて波上を歩むに似たり
 鄭交甫女神の帯び玉いただいた 直径一寸輝く光彩
 胸痛む岸辺の鶏[とり]の鳴き声に…… 交甫なんかじゃないこの俺は
 川の月見えなくなったし岸の花 いつも咲いてるわけでもないさ
 変らずにみなぎる川の水だけが 岸辺の街をめぐり流れる

2020年3月26日木曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』4



今回は一聯の二句を、和歌のように仕立ててみました。もっとも、荒井さんがこういう駄洒落をお好みにならないことは、よく存じ上げているのですが……。

 人は言う素晴らしいのは春の川 月明かりなら何をか言わん
 花・花・花――咲いてる岸辺の林かな 桂生ゆ月波間に浮かぶ
 水面[みなも]には花と月とが揺れ動く 月影花の香清くさわやか
 疑った!初め美人の顔[かんばせ]の 髻[まげ]に挿す花映ったのかと
 また思う鏡見つめる美女嫦娥 誰かに恋する色っぽさかと
 微笑めばかすかに開く唇よ 媚態万化し水にただよう
 見るうちに江上の月昇りたり 満ちたる潮もすでに鎮もる

2020年3月25日水曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』3



その田口さんの「はじめに――荻生徂徠詩案内」がまたすばらしい。中村真一郎と石川淳の対談「江戸時代の漢詩について」の引用から始められるのですから、「もうマイッタ」という感じです‼

とくに僕にとって、中村真一郎先生は『<水墨画の巨匠14>竹田』(講談社 1995)で一緒にお仕事をさせていただいた文学者です。また石川淳は、再読するたびにこれまた「もうマイッタ」とカブトを脱がざるをえない『文学大概』の著者です。というわけで、ご両者は僕が勝手に親しく感じ、また仰ぎ見る知の巨人です。

『荻生徂徠全詩』を読み進めれば、やがて「擬古楽府十四首」の「春江花月夜」に逢着、いまの季節にピッタリの楽府に倣った擬古五言詩です。いつものごとくマイ戯訳で紹介することにしましょう。

2020年3月24日火曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』2


折り返し鄭重なるお手紙を頂戴して恐縮しましたが、李賀をとおして、この碩学とお知り合いになれたことが、殊のほかうれしく感じられました。

先日、荒井さんは田口一郎さんと一緒に出版された『荻生徂徠全詩』1をお贈りくださいました。446ページ、これから出る全4巻で完結というのですから、ものすごいエネルギーの要るお仕事です。

ページを開けば、『徂徠集』巻1の「風雅一首」から始まり、原詩、読み下し、語注、現代語訳とそろって、詳細を極めています。巻末には、「主要人名一覧」と「頻出語彙」のページが加えられています。荒井さんは僕より14歳年長、どこにこのような集中力が隠されているのでしょうか。田口さんとの共著とはいえ……。

2020年3月23日月曜日

荒井健・田口一郎『荻生徂徠全詩』1



荒井健・田口一郎訳注『荻生徂徠全詩』1<東洋文庫9002020

 荒井健さんは僕が尊敬して止まない中国文学研究者です。もう何度も「饒舌館長」に登場いただいていますね。紹介してくれたのは、これまたたびたび登場する、いまは亡き天羽直之さんです。あるとき飲みながら……

「僕が一番好きな漢詩人は李賀だ。荒井健訳注の『中国詩人選』の李賀は僕のバイブルだ」

「それじゃ~そのことを『國華清話会会報』に書いてよ。荒井さんはよく知っているから、こんど紹介してあげるよ」

さっそく僕が、「我が愛する詩人・李賀」というエッセーを書いて会報が出来上がると、天羽さんは荒井さんに送ってくれました。荒井さんが『中国詩人選』に選んだ74首につけたマイ戯訳も早く出来上がっていましたので、これも自己紹介をかねてお送りし、ご笑覧いただきました。
 
*本来なら「荒井先生」とお呼びすべきところですが、このブログでは、お元気な方は「さん」、鬼籍に入った方のみ「先生」とすることにしております。どうぞお許しくださいませ。

2020年3月22日日曜日

島尾新『水墨画入門』2



こういう芸当ができるのは、島尾さんにとって、水墨画が単に眺めたり考えたりする対象ではなく、骨肉化しているからです。画論を読んで机上の空論を組み立てるだけじゃ~ありません。作品を見て、印象批評を述べるだけじゃ~ありません。
「おわりに」には、「『画けない』私が、技法や画材についてある程度のことを書けるのは、さまざまな場を通じてお知り合いになった画家と書家の方々、そして広島・熊野町、越前和紙の中心地・今立や、墨作りの奈良などの、文房四宝の制作者のご教示のお陰である」と書かれています。

島尾さんはこれらの方々と親しく交流されていらっしゃいますが、これなくして「骨肉化」はなかったでしょう。

2020年3月21日土曜日

島尾新『水墨画入門』1


島尾新『水墨画入門』<岩波新書>2019

 畏友・島尾新さんが新著『水墨画入門』を贈ってくれました。あっという間に読了、腰巻にある「こんなにも豊かで、深く、そして愉しい水墨画の世界」が、よく腑に落ちたことでした。あっという間に読めたのは、島尾さんの軽快な語り口のゆえでしょう。

島尾さんは日本の筆墨文化を論じて、「流れるように詠まれる歌には、連綿体の仮名の流れが相応しい」と述べていますが、その和歌のごとく連綿体のごとく、島尾さんの文章は美しく流れていきます。簡潔な体言止めを所々に混ぜながら、島尾文体は完成の域に達しています。

第一章は、「水墨画を定義するのは難しい」と書き始められています。そこで島尾さんは、「エビアン」や「トンカツ」や「マーカー」、三無主義の僕が持っていないスマホまで引っ張ってきて、水墨画をぐっと身近なアートにしようとしています。

2020年3月20日金曜日

六田知弘『仏宇宙』7



このあとフホホトへ行き、シラムレンのモンゴル・パオに一泊し、21日には無事北京へ戻ってきました。翌22日、いつものように自転車に乗って講義に出かけると、学生は一人もいなかったので、当然のことながら休講となりました。そのとき、センター長の尾上兼英先生から配られたお知らせが、旅日記に貼ってありましたので、これもアップしておきましょう。いまや、きわめて貴重なる歴史資料といってもいいかな()

諸先生方へ

(日本)基金の山田部長から、電話が通じなかったので遅れたが、北京の皆さんに変りはないかとの連絡がありました。今夕までの情勢を説明しましたが、そのことを、基金から、諸先生の留守宅へお知らせするとのことでした。

また、大使館へも、我々の保護について依頼をしているので、大使館の指示に従って下さいとのことでした。

以上、取急ぎ報告いたします。                 尾上兼英

なお、大使館からは、必要のない外出は控えること、とくに夜間の外出は慎んで欲しい。噂に左右されないよう、また何かあれば大使館に通報して欲しいとのことでした。

  

2020年3月19日木曜日

六田知弘『仏宇宙』6



曇曜五窟といわれる第16窟から第20窟は、ゆっくりと歩を進めながら拝見していきました。前壁が崩れ落ちて、露坐となっている第20窟の印象はやはり強烈でした。ぶっちゃけていえば、「僕の一点」に選んだ第18窟と、ほかの窟との区別も今やおぼろげになっているのですが、大きな心の高まりだけは鮮明に覚えています。

書庫から旅日記を引っ張り出してきて開くと、「曇曜五窟は460年の開鑿、日本への仏教公伝以前に、こんなすごいものを鮮卑族は造っていたのだ!」なんて書いてあります。「飛鳥仏への影響は確かにあるが、やはりかなり違っている」などと、仏教美術専門家みたいな印象も述べられています()

その日の午後は懸空寺[けくうじ]にお参りしましたが、白タクならぬ白バイクに乗ったことなども、懐かしく思い出されます。やはりあのころは俺も若かったなぁ!!() 

2020年3月18日水曜日

六田知弘『仏宇宙』5



北京駅の售票処へ行くと、本日分はすべて売り切れでした。仕方がないので外国人専用售票処へ行き、21:18北京発295次の硬臥――つまり2等寝台をゲットしました。

翌朝5時半、大同に着くと、もう屋台が出ているのには驚きましたが、薄暗い中で、拉麺と包子[パオズ]の美味しい朝食を堪能しました。まずはバスで大同賓館へ行き部屋を予約すると、またバスで雲崗石窟へ向かいました。

8時には雲崗石窟に到着、8:30開門とあったので、門のところに座って待っていました。服務員が出てきたので、改めて開門時間を訪ねると9時だということでしたが、840過ぎには門が開き、長い間あこがれてきた雲崗石窟の仏さんたちと、はじめての対面を果たしたのです。

2020年3月17日火曜日

六田知弘『仏宇宙』4



しかし、次の講義日である22日の前日までには帰ってこなければなりませんし、上記のように、当時の中国では確実に切符が買えるかどうか、保証はありませんでした。もちろん、CITSという外国人専用の旅行社に頼めば話は簡単ですが、なるべく僕は、中国人民、つまり一般の人々と一緒に切符を買い、一緒に旅がしたかったのです。中国人民といえば、当時はまだ人民服を着ている人がたくさんいました。

ともかくも、1日も早く出発しないと心配でたまらず、16日の夕方、気功術の練習が済んでから、いつものように自転車と地下鉄を乗り継いで、北京駅へ向かいました。いつもは停まる前門駅を通過してしまうので、おかしいなぁと思いましたが、すぐに天安門で行われているデモのせいだろうと想像がつきました。

2020年3月16日月曜日

六田知弘『仏宇宙』3



この写真を見ていると、はじめて仰ぎ見て「すごいなぁ」と感じ入った日のことが、夢のようによみがえってくるんです。もっとも、衣文に刻まれる千仏など、この写真ほどはっきりとは見えなかったような気もしますが……。

それは1989517日のことでした。すでにアップしたことがありますが、そのころ僕は、北京日本学研究センターの派遣講師として北京で生活していました。2日前の15日、朝5時半に起きて、宿舎の友誼賓館近くにある人民大学售票処へ、大同までの切符を買いに出かけました。售票処というのは乗車券発売所のことです。

当日の切符はもちろん、翌日のもなく、ようやく17日の95次・特快・硬座をゲットしました。硬座というのは、2等車の座席という意味です。

2020年3月15日日曜日

六田知弘『仏宇宙』2



最近、六田さんが生活の友社から出版された写真集『仏宇宙』を、先だってお贈りいただきました。興福寺の運慶作「無著菩薩立像」から雲岡石窟第16窟の仏手まで全部で62作品――国宝もあれば、首も手足もないトルソ仏(?)や、六田さんしか知らないフラグメント仏(?)もあります。

しかし、それらはすべて六田さんの眼によって選び取られ、六田さんのカメラワークによって表現された仏像であり、仏画なのです。一つ一つのイメージが、写真集のタイトルになっている仏宇宙――ブッダ・ユニバースを象徴しているように感じられました。

「僕の一点」は、№59の「雲岡石窟 第18窟」ですね。第18窟は雲岡石窟を代表する曇曜五窟の一つ、その本尊の胸のあたりをクローズアップした、迫力に満ちる見開きの一点です。

2020年3月14日土曜日

六田知弘『仏宇宙』1



六田知弘写真集『仏宇宙』(生活の友社 2020

 六田知弘さんは僕が大好きな写真家です。はじめて僕が「あぁいい写真家だなぁ」と感じたのは、2011年、繭山龍泉堂さんで開かれた写真展「雲岡 仏宇宙」を拝見したときでした。しばらくして、江戸絵画の新収品を見せてもらいにロンドン・ギャラリーさんをお訪ねすると、偶然ご本人がそこでお仕事をされており、親しく挨拶を交わしたのでした。

その後、『國華』でも撮影をお願いしましたが、「小川一真の作品が載る『國華』に、自分の写真を掲載してもらえるなんて、こんな名誉なことはありません」と謙遜されているとお聞きして、その人柄にも心底惹かれるものがありました。

最近、『國華』1489号に筑波大学の八木春生さんが寄稿してくれた論文「雲岡石窟第十一窟の造営について」の図版も、六田さんの写真でしたが、あまりのすばらしさに、便利堂さんにお願いしてコロタイプにしてもらったのでした。

2020年3月13日金曜日

畠堀操八『富士山・村山古道を歩く』6



しかし今や、使っているのは日本だけです。中国文化の古層が我が国に遺っているというのは、素晴らしいことではないでしょうか? たとえ『万葉集』という国書から採ったとしても、元号というシステム自体が中国オリジンであることは明らかです。

日本歴史上、もっとも長い元号である「昭和」を使い続ければ、一つの東洋文化である元号を護ることができます。昭和と西暦を併用すれば、±25で換算も簡単ですし、悠久の歴史を持つ文化システムを、漢字や抹茶や雅楽のように、日本人が保護し伝えていくというのは、誇るべきことではないでしょうか。

ところで、なぜ僕が昭和を使い続けろというのかって? 昭和を使えば、今年僕が何歳かすぐに分かるからですよ。令和2年などといわれると、今年何歳だったか、後期高齢者にはすぐに思い出せないんですよ( ´艸`)

2020年3月12日木曜日

日曜美術館「真を写す眼 渡辺崋山」



日曜美術館「真を写す眼 渡辺崋山」<3159:009:45NHKEテレ>

 前にもお世話になったことがあるNHKの吉田通代さんから、「こんど渡辺崋山を取り上げることになったので宜しく」とオファーがかかりました。大好きな画家――というよりも、尊敬して止まない画家です。拙著『文人画 往還する美』にも、『定本・渡辺崋山』に寄稿した「崋山と江戸絵画」を収録しましたが、吉田さんはこれを読んでくださったようでした。

34日、静嘉堂の仕事を済ませて渋谷の放送センターに入ると、すぐメイクの野村さんがドウランを塗ってくれます。このごろ目立つ老人斑を隠してくれるのが、殊のほかうれしい!!(笑) 司会は芥川賞作家で早稲田大学教授でイケメンの小野正嗣さんと、柴田祐規子アナウンサーです。

例によって時計は外してスタジオに入りました。今のテレビは時計のブランドまで分かるらしく、「アンタはひどい時計をしてる。姜尚中さんのはIWCだったぜ」と言われたことがあったからです(笑)

また以前は、「ハイ、45秒でお願いします」なんて言われてドギマギしたことがありましたが、今回は3人で自由にしゃべり、それを後で編集するという鼎談方式が採用されています。饒舌館長にとっては願ったりかなったり、崋山私論をまくしたてて、お二人をハラハラさせたことでした。それでも後から考えると、あれも言えばよかった、これも言えばよかったという独断と偏見がまだまだ残っていましたが……。

放映は来る15日、朝9時、ぜひNHKEテレにチャンネルを合わせてくださいませ。一応メインゲストでしたので、まさかカットされていることはないと思いますが(笑)

2020年3月11日水曜日

畠堀操八『富士山・村山古道を歩く』5



内表紙の献辞に、「昭和9515日 畠堀操八」とあるのを見て、「これから日本人はすべて昭和を使い続けるべきだ!!」と主張している饒舌館長のほかにも、昭和主義者がいるのを知って、こんなうれしいことはありませんでした。

ところで、昭和→平成→令和などと元号を変えると、不便でしょうがないから、元号なんて止めて、西暦に一本化すべきだという意見があります。しかし僕は、すべてを一本化することには慎重であるべきだと思います。いま日本でも、多様性が求められているじゃ~ありませんか。ちょっと意味が違うかな( ´艸`) この意味からも、元号が魅力的に映るのですが、言うまでもなく、元号は中国で使われ始め、一時は東アジアで多くの国が用いていました。

2020年3月10日火曜日

畠堀操八『富士山・村山古道を歩く』4



こんな風に、ソンタクなんかしないご性格のゆえでしょうか、むかし火山だった富士山に引っかけていえば、ちょっと煙ったがれることもあると、ご本人から聞いたことがあるような気もしますが……。しかし偉大なる霊峰富士に比べれば瑣末きわまりなきこと、畠堀さんは「呵呵」と笑い飛ばし、いまも山男として、またNPO法人事務局長として人生を楽しんでいらっしゃいます。だからこそ、風濤社から「新版」を是非お願いしますと求められるほど、ファンも多いのでしょう。

すでにアップしたように、正月5日、静岡県富士山世界遺産センターで、「写山楼谷文晁 山を愛した時代の寵児」という口演をやらせてもらいました。準備をしてくれた学芸員・松島仁さんのお陰で、空席一つだになき盛況でした。あるいは講師の人気も若干はあったかな( ´艸`) この日、畠堀さんはわざわざマイ口演を聴きにきてくださいました。そして直々に、この<新版>を頂戴したというわけです。

2020年3月9日月曜日

畠堀操八『富士山・村山古道を歩く』3



1943年(昭和18)6月、広島生まれ。高校時代から広島県内の山歩きを始め、以来40数年の間、丹沢・奥秩父・南アルプス・上越・南会津の縦走・沢登り・冬山を体験。最近は原生林探査や旧修験道の再発見に興味を持っている。特技は誰でも登らせる、秘術は下り坂でも足音がしない。NPO法人シニア大楽[だいがく]山楽[さんがく]カレッジ事務局長。
このたび畠堀さんは、その後の情報を書き加えて、<新版>をお出しになりました。「新版のための補遺」には、奥入瀬渓流落枝事件に対する見解を率直にお書きになっていますが、そこにも畠堀さんの登山哲学が垣間見られます。

2020年3月8日日曜日

畠堀操八『富士山・村山古道を歩く』2



平安末期に開かれたという富士山最古の登山道が村山古道ですが、100年ほど前に廃道になっていました。畠堀さんが中心となって、この村山古道をみごと復活させたのです。本書は復活者みずからが書いたガイドブックですが、読み物としてもハイレベル、広くオススメするゆえんです。

畠堀さんの登山哲学が、とても分かりやすく語られています。本書を手に村山古道を歩けば、まつわる歴史も一緒に学ぶことができるでしょう。10もあるコラムも必読です。先日「お酒をほめる和歌」を連載しましたが、畠堀さんも嫌いじゃないらしく、第1章には「元気よく『アルコ』う」という駄洒落の一節まであります(!?) 本書の見返しにある畠堀さんのプロフィールを、そのまま掲げておきましょう。

2020年3月7日土曜日

畠堀操八『富士山・村山古道を歩く』1



畠堀操八『富士山・村山古道を歩く<新版>』(風濤社 2013

 畠堀さんは僕と同い年の実に愉快な山男です。あくまで山男、アルピニストなんかじゃ~ありません。かつて見て、あぁいい映画だなぁと思った、木村大作監督の「剱岳 点の記」でいえば、中村トオルが演じた小島烏水ではなく、香川照之がやった長次郎――いまも長次郎谷に名前を遺す山案内人の感じです。

畠堀さんを紹介してくれたのは、いまは亡き天羽直之さん――何度も「饒舌館長」に登場してもらっている天羽さんです。ある時、飲みながら「俺の若いときの自慢は槍ヶ岳単独行だ。もちろん夏だよ。冬だったら、俺なんか死んじゃうよ」というと、「それじゃ~おもしろい山男がいるよ」といって会わせてくれたのが畠堀さんでした。そのとき畠堀さんから、著書『富士山・村山古道を歩く』をプレゼントされました。

2020年3月6日金曜日

お酒をほめる和歌7



第1首、僕が酒好きといっても、「海量」と呼ばれたことはありませんが、北京日本学研究センターで講師をつとめた1989年の思い出と通い合うところがあって、すごくいい! 「海量」は中国でよく使われる言葉です。小学館版『中日辞典』を引くと、「1<敬語>大きな度量。雅量。2酒豪。酒量が多い。酒に強い。」と出てきますが、日常会話では圧倒的に2の意味で使われることの方が多いように思います。

第2首、部下の死をしみじみと悼む旦那の気持ちを、女房がちゃんとわかっているところが、すごくいい! もっとも、この旦那は部下だけじゃ~なく、先輩の通夜から帰ったときも、同じように杯を重ねていらっしゃるのではないでしょうか。「失礼いたしました‼」

第3首、先日亡くなった野村克也監督が言う理想的家庭を、お酒の上でもいまや実践されているご夫婦とお見受けいたしました。ちょっと「番外地」風なユーモアが、すごくいい! 「これまた、失礼いたしました‼」


2020年3月5日木曜日

お酒をほめる和歌6



この春三も酒仙ジャーナリストだったらしく、つぎの一首などは、その面目躍如たるものがありますね。もっとも、本当に春三の歌かどうか、確証はないそうですが……。

酒のめばいつの心も春めきて借金取も鶯の声

このような『万葉集』以来受け継がれてきた讃酒和歌の伝統は、現在も生きているようです。先日の「朝日歌壇」には、馬場あき子さんと佐々木幸綱さんによって、讃酒和歌が讃酒も、いや、3首も選ばれていました。残念ながら第一席ではありませんでしたが、僕が選者ならみな第一席ですね(笑)

 酒好きのわれ海量[ハイリャン]と呼ばれたり中国滞在の日々は楽しき
 早世の部下の通夜より帰り来し夫は静かに杯重ねをり
 酒のめぬ妻が脱皮を繰り返し我より強い蟒蛇[うわばみ]になる

*『偉人暦』では「柳川春三」と書き、名前には「しゅんぞう」とルビを振っています。しかしウィキペディアで検索したところ、「柳河春三」とあり、「しゅんさん」と読んでいます。どちらが正しいのでしょうか。あるいは、どちらでもいいのでしょうか。

2020年3月4日水曜日

お酒をほめる和歌5



「讃酒」じゃ~元号としてあまりにも何だという意見が出るならば、歌の方から採ることにして、「酔泣」「酔哭」というのはどうでしょうか。旅人は「えいなき」と訓読みしていますが、元号ですからもちろん音読み、「すいきゅう元年」とか「すいこく2年」ということになります。ぜひ中西進さんにお考えいただきたかったと存じますが、だれが考え、だれが推薦したとしても、当然ボツでしょうね(笑)

『偉人暦』では、市岡猛彦の前日220日に、我が国初の新聞発行人・柳川春三という人物が取り上げられています。早熟にして、3歳のとき尾張候の前で書を披露しましたが、何枚も何枚も強いられるので、しまいには「もういやになった」と大書したという愉快なエピソードが紹介されています。

2020年3月3日火曜日

お酒をほめる和歌4



僕が愛してやまない酒仙歌人旅人も、去年からはもっぱら「令和」の歌人として有名ですね。『万葉集』巻5に収録される「梅花の歌三十二首」の序に、「時に、初春の<令>月にして、気淑く風<和>ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」とあるところから、「令和」という元号が選ばれたからです。皆さん、よくご存知のとおりです。

もちろん「令和」も悪くありませんが、その32首のうち、旅人が詠んだのはわずか1首にすぎません。そのあとにある「後に追ひて梅の歌に和へる四首」が旅人の詠だったとしても5首です。一方「酒を讃むるの歌」は13首も詠んだわけですから、『万葉集』の旅人詠から年号を取るとすれば、当然こちらによるべきだったのではないでしょうか?

これには序がないので、題から取ることになりますから、おのずと「讃酒」となります。去年は「讃酒元年」、今年は「讃酒2年」――じつに素晴らしいじゃ~ありませんか(笑)


2020年3月2日月曜日

お酒をほめる和歌3


価無き宝といふとも一杯の濁れる酒にあに益[]さめやも

夜光る玉といふとも酒飲みて情[こころ]をやるにあに若[]かめやも

世のなかの遊びの道にすすしくは酔泣[えいなき]するにあるべくあるらし

この世にし楽しくあらば来[]む生[]には虫に鳥にもわれはなりなむ

生ける者つひにも死ぬるものにあればこの世なる間[]は楽しくをあらな

黙然[もだ]をりて賢[さか]しらするは酒飲みて酔泣[えいなき]するになほ若かずけり

2020年3月1日日曜日

お酒をほめる和歌2



[しるし]なき物を思はずは一杯[ひとつき]の濁れる酒を飲むべくあるらし

酒の名を聖[ひじり]と負[おわ]せし古[いにしえ]の大き聖の言[こと]のよろしき

[いにしえ]の七の賢[さか]しき人どもも慾[]りせしものは酒にしあるらし

[さか]しみと物いふよりは酒飲みて酔[えい]泣きするしまさりたるらし

言はむすべせむすべ知らず極まりて貴[とうと]きものは酒にしある

なかなかに人とあらずは酒壷に成りにてしかも酒に染みなむ

あな醜[みにく][さか]しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る