2019年8月31日土曜日

諸橋轍次博士2


 

 先生は1883年、新潟県南蒲原郡四ッ沢村大字庭月――その後下田村[しただむら]字庭月――現在の三条市庭月に生まれました。1908年、東京高等師範学校を卒業、漢学の教員として同校に勤め始めた先生は、1919年、文部省より命じられ、中国哲学および中国文学研究のため2年間中国へ留学することになりました。

ところが中国に行ってみると、満足な漢字辞典がなく、大変苦労したことが契機となり、ライフワークとなる『大漢和辞典』の完成を決意したそうです。その後、これを伝え聞いた大修館社長の鈴木一平氏が先生のもとを訪れ、浩瀚なる漢和辞典の構想を提案したことも鼓舞するところとなり、以後35年にわたる苦難の大事業が開始されたのでした。

2019年8月30日金曜日

諸橋轍次博士1




 
 諸橋轍次先生は大著『大漢和辞典』13巻(大修館書店)――通称『諸橋大漢和』の編著者として、あまりにも有名ですね。僕がこの辞典から受けた学恩を、どのように表現したらよいのでしょうか。どのような感謝の辞を捧げたらよいのでしょうか。最近、この大著がデジタル化され、とても使いやすくなりました。そのパンフレットに推薦の辞を求められた僕は、次のようなオマージュを捧げたのでした。

『諸橋大漢和』は黄金です。きわめて価値高く、これなくして東洋文化を、いや、人間の文化そのものを語ることはできません。しかし黄金です。きわめて重く、机の上に広げるのも楽ではありません。それが一挙に解決されるデジタル時代がやってきました。新しい検索機能は、さらに黄金の価値を高めています!!

2019年8月29日木曜日

三菱一号館美術館「マリアノ・フォルチュニ展」5


その絵画もじつに素晴らしいのですが、多くテンペラ画である点がおもしろく感じられました。フォルチュニは油彩画よりも、テンペラの方を好んだのです。油彩画と比べると、テンペラは乾きが速いために、色の面を平塗りにすることや、ぼかしテクニックを用いることが比較的むずかしく、おのずと線的描写が多くなるといわれています。これは日本画の性格とちょっと似ています。

フォルチュニのテンペラ作品を見ると、超絶技巧を身につけていたと思われる彼は、このようなテンペラの弱点をみごとに克服していることが分かります。しかし、フォルチュニが日本画に近いテンペラを油絵より好んだという事実――それを僕はとてもおもしろく思いながら、濃密なる会場をあとにしたのでした。


2019年8月28日水曜日

三菱一号館美術館「マリアノ・フォルチュニ展」4





なにしろ相手がおおらかなイタリアと中国ですから、これまた「こころの風景」に書きたいような、楽しきトラブルが発生したことは言うまでもありません(笑)

それはともかく、このシンポジウム終了後、フォルチュニ美術館をぜひお訪ねしたいと思いましたが、時間的余裕がないままに帰国してしまいました。今回、長年の渇望がいやされることになったというわけです。

この三菱一号館美術館展では、フォルチュニ美術館の全面的な協力のもと、フォルチュニ芸術の中核をなす服飾作品のほか、絵画、版画、写真、舞台装飾作品、さらに彼がコレクションした日本のカタガミを含む関連資料が、洗いざらい展示されています。ここであえて「総合的に」になんて言わず、「洗いざらい」といったのは、デルフォスにはオススメの洗濯屋さん指定されていたからです(笑)

2019年8月27日火曜日

三菱一号館美術館「マリアノ・フォルチュニ展」3


1996年、ヴェネツィアのカ・フォスカリ大学教授で国際北斎研究所所長のジャン・カルロ・カルツァさんが主宰する国際北斎シンポジウムが、ヴェネツィアで開かれました。もっとも、この回のテーマは北斎じゃなく、20世紀の日本美術だったのですが……。

僕にも発表の招待状が来たので、以前勤めていた東京国立文化財研究所で、ちょっとは馴染んでいた黒田清輝についてしゃべることにして、準備を始めました。

ところがこのとき、第2回目の北京日本学研究センター出張講義で北京にいたものですから、北京空港からイタリアへ飛ぶことになったという、思い出深い海外旅行、いや、海外→海外旅行でした。

2019年8月26日月曜日

三菱一号館美術館「マリアノ・フォルチュニ展」2



デルフォスの垂直性は、直線裁ちを特徴とする我が国の着物とも美しき共鳴を起こしています。そんなことを思いながら見ていくと、フォルチュニが着物からヒントを得て作った作品が展示されているではありませんか。やはり、デルフォスを考え出したフォルチュニの感受性は、日本の着物にも鋭く反応していたのです。

ただし、その着物風ドレスは基本的に室内着だったらしく、デルフォスの上に羽織るものであったようです。やはりコルセットを嫌ったフォルチュニは、着物といっても、女性の体を締め付ける帯には関心が向かなかったのでしょうか。

グラナダで生まれ、ローマとパリで育ち、ヴェネツィアで活躍し成功を収めるに至ったフォルチュニが、どこの国の人かなどと問うことはもうナンセンス、すぐれたコスモポリタンであったというべきでしょう。そのヴェネツィアの邸宅兼アトリエは、フォルチュニ美術館として公開されています。


2019年8月25日日曜日

三菱一号館美術館「マリアノ・フォルチュニ展」1


三菱一号館美術館「マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展」<106日まで>

 マリアノ・フォルチュニ(18711949)は、軽くてしなやかでシンプルなフォルムの<デルフォス>を創り出した天才的なデザイナーです。デルフォスは繊細なプリーツを縦に施した、レディーのためのシルク・ドレスで、フォルチュニはギリシア彫刻から霊感を得たそうです。確かによく似ていますが、僕はギリシア彫刻より、アール・デコとの強い親近性に興味を掻きたてられました。

デルフォスはコルセットを必要としない、着心地の好さとも相まって社会から迎えられ、フォルチュニは早くも20世紀初頭、服飾界の寵児となったと、カタログには書いてあります。しかし、コルセットは必要ないかもしれませんが、着る人自体の美しい体形は必要じゃ~ないかな?(笑)

2019年8月24日土曜日

漢方薬と饒舌館長7


処方されたのは、錠剤の「金蓮花」、ネスカフェみたいな「板藍根」、アンプルに入った「蛇胆液」の3種でした。

金蓮花は化膿止め効果があるということでしたので、白湯で飲みました。板藍根は熱冷ましとして利くということでしたが、お湯で溶いて飲もうとすると、小さな網戸のキレッパシのようなものが出てきたので、製造方法が推定されて愉快でした(笑)上の写真は、日記帳に貼ってあった板藍根の懐かしい箱ですが……。咳止め薬であるという蛇胆液は1本だけ試し、あとは捨ててしまいました。だって、ヘビのキモの液ですよ‼

漢方薬の効果は抜群でした。木曜日の日記を見ると、「6:30 起床 洗面 少しよくなっている。それに痰も出てきた」などと書いてあるのです。そのうちいつか、ツムラの①葛根湯や⑭半夏瀉心湯についても感想をアップしたいと思います。漢方按摩法を取り入れたと思われるマグネット靴敷きの偉大なる効果についても……。その靴敷きが何と100均だったことも!!(笑) 

2019年8月23日金曜日

漢方薬と饒舌館長6



写真でしか知らなかった長城の素晴らしさは筆舌に尽くしがたきものでしたが、3月中旬とはいえ、八達嶺に吹きつける寒風のすごさといったら!! 夕方、友誼賓館に戻ってくると悪寒が始まりました。万里の長城風邪?をひいたのです。月曜日は講義の日で、仕方なく出勤したのがよくなかったらしく、火曜日は絶不調に陥って、ほとんど寝ていました。

一番堪えがたかったのは、ヒリヒリとした喉の痛みです。日本では経験したことのない痛みです。日本の冬も乾燥しますが、北京の乾燥はそんなもんじゃ~ありません。もうどうしようもないので、水曜日に友誼賓館の中にある門診部という病院へでかけました。

そしてせっかく中国に来たんだから、漢方薬をもらおうと思い、お医者さんに、「僕は漢方薬が大好きで、西洋の薬はあまり好まないので、漢方薬を出してください」と言ったのです。

2019年8月22日木曜日

漢方薬と饒舌館長5


その後の経済発展によって、中国はまったく変わってしまいましたが、僕にとってはちょっと懐かしい気分にさせてくれる本でもあるんです。

その後、西倉さんは龍谷大学で政治学・ジャーナリズム論を教え、現在は軽井沢でエコツアー・ガイドをしながら、カーリングと蕎麦栽培を楽しまれてようです。いつのころからかフェイスブック・フレンドになっていますが、直接お会いしたことは、残念ながらまだないんです。

そのカバー写真には、アメリカ人の奥さんと、お孫さんを抱く娘さん夫婦と一緒に、すばらしき晩年を過す西倉さんが写っています。西倉さん、是非一度、皆さんで静嘉堂文庫美術館をお訪ねくださいね❣❣❣

2019年8月21日水曜日

漢方薬と饒舌館長4


 


 西倉さんは1972年、東京外国語大学中国語学科を卒業して共同通信社に入社、1980年から1年間、北京語言学院へ語学研修生として派遣されました。そのときの留学体験をまとめたのが『中国・グラスルーツ』で、国家対民衆という視点からありのままの中国を描いた傑作ルポルタージュです。

もっとも、第15回大宅壮一ノンフィクション賞を受けたこの本のお陰で、西倉さんは10年間、中国から入国禁止をくらったそうですが……。1989年、僕がはじめて中国に行くことを知った細見良行さんが、ハナムケに贈ってくれたのですが、ワクワクしながら一気に読了したことを思い出します。

僕が中国で少しでも旅行をしようと思ったのも、なるべく普通の人々がどんな生活をしているか知りたくなったのも、この本の影響が少なくありません。

2019年8月20日火曜日

漢方薬と饒舌館長3



しかし、ジャーナリストの西倉一喜さんは汽車にも乗らず、万里の長城まで自転車で行ったんですから驚きです。西倉さんは『中国・グラスルーツ』(文春文庫 1986年)で、つぎのように報告しています。

一本だけ制限なしに遠出できるルートがある。北京から万里の長城のある八達嶺[パーターリン]に至る約75キロの舗装道路だ。私は秋から冬にかけほとんど毎日曜日、このルートを自転車で往復した。……これまでの訪中で何回か長城詣でをしているが、自分の足で初めてたどり着いた時ほど、その景観が雄大かつ難攻不落に映ったことはない。

 もっとも、のちにシルクロード450キロを自転車で単独走破することになる西倉さんですから、北京⇔八達嶺なんてチョロイものだったかもしれませんが……。


2019年8月19日月曜日

漢方薬と饒舌館長2




ここにアップした『地球の歩き方』<中国>は、その北京日本学研究センター出張中、僕のバイブルとなっていた19881989版です。もっとも、アップしようと思って探しましたが、バイブルなのにどうしても見つかりません。捨てるはずは絶対ないのに!!

仕方がないのでネットで検索したところ、たまたまヤフー・オークションに出品されていました。画像はそれを拝借したものですが、入札価格が10,000~というのには驚きました。僕はバイブル版がいつか見つかることを期待して、入札しませんでしたが……。

表紙のキャッチコピーを虫眼鏡でよく読んでみてください!! 「中国大陸を、11500円以内で ホテルなどの予約なしで 火車や長途汽車(バス)を使って 自由旅行するガイド」と書いてあるでしょう。僕の銭塘への旅もまさにそんな自由旅行でした。後期高齢者になってしまった今じゃ~絶対無理ですね( ´艸`)

2019年8月18日日曜日

東京藝術大学大学美術館「円山応挙から近代京都画壇へ」


東京藝術大学大学美術館「円山応挙から近代京都画壇へ」<929日まで>


 絶対オススメの江戸絵画展です。いや、円山応挙→円山派→円山四条派→近代京都画壇という大きな京派絵画の潮流をテーマに据えた特別展ですから、江戸近代絵画展といわなければなりません。

すでにアップしたように、今年僕は、NHK文化センター青山教室で、「1年で学ぶ教養シリーズ 絶対オススメ12選<魅惑の日本美術展>」なるカルチャー講座をやっています。今月の絶対オススメ展にはこれを選び、先日ミズテンでしゃべり、今日816日にはじめて拝見させてもらいました。

古田亮さんが企画する特別展なら絶対間違いないだろうという予想がズバリ的中、しかも我が静嘉堂文庫美術館が大切にしている応挙筆「江口君図」が錦上花を添えています。こんなうれしいことはありません。

今回の目玉は兵庫県香住の大乗寺が誇る障壁画です。円山派の展覧会場とたたえられる大乗寺の障壁画から、主要部分がほとんど上野へやってきたんです!! 卒論で応挙を取り上げた僕が最初にお邪魔したのは1966年、それが縁となって『國華』945号大乗寺の絵画特輯号にも執筆することになった、思い出深いお寺の障壁画です。

地形の関係からでしょうか、大乗寺客殿は西に面して建っています。その中心となる西側3室は、中央が応挙筆「松に孔雀図」、右脇が呉春筆「四季耕作図」、左脇が応挙筆「郭子儀図」となっています。そのコンセプトは福禄寿だというのが持論です。つまり郭子儀­=子福、四季耕作=俸禄、松に孔雀=長寿になっているというのがマイ独断なのですが、しかしこういうのは当たるも八卦、当たらぬも八卦、聴講者の皆さんも「?」という感じだったかな( ´艸`)


2019年8月17日土曜日

漢方薬と饒舌館長1


 先日、丁宗鐵さんと南伸坊さんの『丁先生、漢方って、おもしろいです。』を紹介しましたが、この「漢方薬と饒舌館長」は、その続編みたいなものです。




僕にとって漢方といえば、やはり北京日本学研究センター出張のときの思い出ですね。198938日、はじめて中国大陸は北京の土を踏んだとき、有り余る時間を利用して旅行し、ナマの中国をこの眼で見てやろうと思い立ちました。

そこで『地球の歩き方』<中国>の巻末に載っている「旅の中国語」を丸暗記し、宿舎に指定された友誼賓館の服務員である黄さんをつかまえて、練習台になってもらいました。最初は親切に付き合ってくれた黄さんも、そのうち僕の顔を見ると、どこへともなくスッと消えるようになってしまいましたが……(笑)

1週間もやるとちょっとは通じるようになったので、319()、万里の長城へ行くことに決め、早朝自転車で西直門駅へ向いました。はじめて中国語で汽車の切符が買えたときのうれしさは、何ともいえないものでした。

2019年8月16日金曜日

松浦武四郎と「永遠のニシパ」


松浦武四郎と松本潤・深田恭子主演「永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎」(NHK)<715日>
 以下は一度アップしましたが、イメージ上の問題が起こったので、全部削除しました。しかし、やはり「饒舌館長」にテキストだけでも残しておきたかったので、再度エントリーすることにしました。すでにお読みになった方は、スルーしてくださいませ。

 去年、わが静嘉堂文庫美術館では「松浦武四郎展」を開いて、とくに歴史ファンの方々に楽しんでいただいたことについては、すでに「饒舌館長」にエントリーしました。北海道命名150年・武四郎生誕200年を記念して開催した企画展でした。

この武四郎を主人公にしたNHKテレビ特別番組「永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎」が、先日放映されました。これに合わせて開催すれば、もっとたくさんの入館者に恵まれたかな( ´艸`)

武四郎役は「嵐」の松本潤、彼に思いを寄せるアイヌの娘・リセに深田恭子という豪華キャストです。もっとも、<深キョン>のことはよく知らなかったので、ネット検索したところ、僕が大好きな筒井康隆の原作にかかる朝日放送テレビドラマ「富豪刑事」の神戸美和子役が当たり役とのこと、急にファンになっちゃいました( ´艸`)

 「永遠のニシパ」は、テレビドラマとしてとてもよく出来ており、僕が絵画の評価で使っているランクにしたがえば「上品上生」、いや、厳しく採点すれば「上品中生」かな( ´艸`) ときどきウルウルになりながら見ていました。何といってもテレビドラマですから、武四郎とリセのメロドラマに仕立てられています。しかし、松阪・松浦武四郎記念館の山本命さんが著わした『幕末の探検家 松浦武四郎 入門』(月兎社 2018年)には、次のように書かれています。

この年(1859年)、武四郎は42歳で結婚している。いつまで蝦夷地のことばかりに没頭しているのを見かねた周囲が、いい加減結婚したらと勧めたのだろう。女性関係のエピソードが一切なく、硬派な志士としての一面しかなかった武四郎に嫁いだのは、旗本福田氏の娘<とう>。初めは儒学者の尾藤水竹に嫁いだが、水竹の没後は寡婦となっていた。

 つまり、武四郎とリセのラブロマンスは、視聴率をかせぐための完全なストーリーだったのでしょう()

 今回エントリーするにあたり、まだ手にとっていなかったドナルド・キーン先生の『続 百代の過客』を逗子市立図書館から借りてきて、「松浦武四郎北方日誌」を読んでみました。僕は『百代の過客』の正編しか持っていなかったので……。読者を引き込むその取捨選択と筆の妙、さすがキーン先生と感を深くしましたが、先生が取りあげた武四郎の漢詩を、またまたマイ戯訳で紹介することにしましょう。

  はるかに遠く行く道は 雲と霞に消えてゆき
  食糧尽きた山の中 気持ちは萎えて元気出ず
  千島の熊のてのひらは 絶品と聞いたことがある
  雪の崖下 熊の穴…… 自然とヨダレが垂れてくる

 山本命さん著書の巻末に、「北海道の武四郎碑めぐり」が特集されていて、その中に「ボッケ/釧路市阿寒町」の漢詩碑が紹介されています。写真だけでよく読めないので、ネットで検索したところ、やはり出てきました。

それは武四郎の『久摺日誌』に載っているそうですが、阿寒湖の美しい自然を詠んで、とても印象的な七言詩です。何よりも、10年ほどまえ登った阿寒岳とその下に碧き水をたたえる阿寒湖を思い出させてくれました。もっとも僕が登ったのは、武四郎と異なり雌阿寒岳の方ですが……。そこでまたまたマイ戯訳です。

 風は止んだり夕日影 水面[みなも]も静か波立たず
 小舟に掉さし湖の 崖に沿いつつ帰り行く
 真白き雄阿寒 千尋の 雄姿をパッと映す水
 これこそ昨日この俺が 登った山だ!あの山だ!

 わが展覧会のあと、武四郎への関心はいよいよ高まり、美術雑誌『聚美』に連載している「聚美季題」に取り上げることにしました。「饒舌館長」にエントリーしたものをバージョンアップしたものですが、ここに再録することをお許しください。

松浦武四郎――幕末の北方探検家にして北海道の名付け親である。私が尊敬して止まない日本人である。しかし一般的には、あまり知られていない。幕末の北方探検家といえば、必ず伊能忠敬や間宮林蔵の名があがるが、松浦武四郎はまず出てこない。もっとも大きな理由は、教科書に登場することが少ないためのように思われるが、それには訳がある。

一言でいえば、武四郎が「敗者」だったからである。山口昌男氏は、名著『「敗者」の精神史』の最終章「幕臣の静岡――明治初頭の知的陰影」において、大きく武四郎を取り上げ、続く「結びに替えて」のすべてを武四郎に捧げている。確かに武四郎は社会的敗者であったが、しかし人生の勝者であったと思う。武四郎のことを知れば知るほど、尊敬の念は深まっていく。

松浦武四郎は文政元年(一八一八)、現在の松阪市小野江町で生まれた。松浦家は代々和歌山藩の郷士をつとめる家柄で、父時春の四男坊であった。十六歳の時、手紙を残し突然家出したが、江戸で見つかり連れ戻される。伊勢街道を行き来する、お伊勢詣りの人々を見て育った武四郎には、おのずと異国へのあこがれが育っていたのであろう。

翌年諸国をめぐる旅に出ると、長崎へ向かって僧侶となるも、ロシア南下の脅威を聞き知ると、二十八歳の時、最初の蝦夷地探検を試みる。四十一歳までにこれを六回敢行することになったが、後半の三回は、幕府の蝦夷地御用雇としての公的調査であった。

かくして五十二歳の時、開拓判官に任じられ、従五位に叙せられた。しかし明治政府のアイヌ政策に賛同できなかった武四郎は、翌年辞職し、位階も返上してしまう。そして明治二十一年(一八八八)七十一歳で没するまで、旅と古物蒐集に適意の晩年を送ったのだった。

今年は武四郎が誕生してから、ちょうど二百年の節目の年にあたっている。武四郎の提案が採用され、太政官布告をもって「蝦夷地」が「北海道」と改称されてから百五十年目でもある。なお、武四郎が最初に選んだ「北加伊道」には、北の人々が暮らす大地という意味が込められていた。

これを記念して、静嘉堂文庫美術館では、企画展「松浦武四郎 幕末の北方探検家」展を開くことにした。静嘉堂文庫は、千点に近い武四郎関係の資料を収蔵している。

文庫創立者の岩崎弥之助が、その重要性をいち早く見抜き、これを譲り受けたわけだが、弥之助の深川別邸を建てた大工棟梁の柏木貨一郎がすぐれた古物蒐集家であり、武四郎と懇意であったというネットワークも与って力あったものと思われる。担当した学芸員・成澤麻子氏は、北方探検家であるとともに、また古物の大コレクターであった武四郎に照明をあて、ただ一枚残るポートレートの武四郎が首にかける「大首飾り」に、それをまず語らしめようとしている。


2019年8月15日木曜日

丁宗鐵・南伸坊『丁先生、漢方って、おもしろいです。』6


 


 はじめの2つは、風呂嫌い館長、酒好き館長にとって、「我が意を得たり」の思いでした(笑) 3つ目の天才梅毒説については、ちょっと一言……。僕は天才狂人説を信じていました。天才というのは、一種の精神病や神経症に罹った人、現代社会で問題になっているアスペルガー症候群やスキゾフレニアに陥った人だと思ってきました。昔から日本ではこれを「天才とバカは紙一重」といってきました。ここにいう「バカ」は、『広辞苑』にある「社会的常識に欠けていること。また、その人」の意味だと思います。

江戸絵画史上、きわめて重要な役割を果たした平賀源内も天才狂人説によって理解できると思ってきましたが、丁さんによると、脳梅毒だったんです。僕のは単なる思いつきですが、医学博士である丁さんのおっしゃることの方が確かです。これから源内を語るときには、<丁説>に従うことにしましょう。何といっても<定説>なんですから(笑)

2019年8月14日水曜日

丁宗鐵・南伸坊『丁先生、漢方って、おもしろいです。』5



丁 平賀源内も脳梅毒と思われます。突然、幻覚があって知人を斬りつけた。発狂したということになっていますが脳梅毒でしょう。入牢して、すぐ死んでしまった。拷問を受けたわけでもないのにです。ヨーロッパでも作曲家、詩人、画家、作家、素晴らしい業績を残した、脳梅毒の患者さんがたくさんいます。

南 患者さんていうのがいいですね、なんだか可笑しい。たしかにそうなんだけど。

丁 梅毒が脳にくると、最後は廃人になりますが、その前に一時的にハイになる人がいる。そうすると天才的なアイディアが浮かぶんです。もちろんそれまでにきちんとした知識、経験の蓄積があってのことですが、素晴らしいメロディ、とんでもない詩句、考えられないようなイメージを作り出す。ゴッホ、モネ、オスカー・ワイルド、ボードレール、ベートーベン、シューベルト、ニーチェなんかも患者さんです。

2019年8月13日火曜日

菅茶山の祥月命日



 今日813日は、僕が大好きな江戸時代後期の漢詩人、菅茶山(17481827)の祥月命日です。もっとも陰暦での話ですが……。この10日間は静嘉堂も夏休み、今日は富士川英郎先生の名著『江戸後期の詩人たち』から「菅茶山」の章を拾い読みしつつ、あまりにも美しき名のお住まい黄葉夕陽村舎を偲び、訥々とした茶山の声が聞こえてくる廉塾[れんじゅく]を勝手に想像したことでした。そのなかから、季節に合わせて夏の詩を二首ばかり、またまたマイ戯訳で……。

  備後神辺[かんなべ]雨降らず 二十日以上も一滴も
  川の浅瀬の石や砂 現われ始める水も涸れ
  槐[えんじゅ]の影濃き昼下がり 村全体が蝉の声
  少年アユを売りながら 涼しい軒下 伝いゆく

    雲ちりぢりに……国境[くにざかい] 夜は清らに澄み渡る
    頭上にかかる天の川 流れの音まで聞こえそう
    隣の子供も寝られずに 涼んでいたのかこの暑さ
  同じく散歩の我[わ]を追って 来て尋ねたり星の名を


丁宗鐵・南伸坊『丁先生、漢方って、おもしろいです。』4



丁 眠れないときは一杯飲んででも寝ちゃう。そうするとストレスにも強くなる。お酒がストレスにいいというのは、睡眠誘発剤としてまずいいんですね。どんな睡眠薬より、お酒は副作用がない睡眠薬です。眠れないときに一挙に睡眠薬に手を出すのはよくないです。昔から伝わる民間療法を試して自分に合っているのを見つけて下さい。

……大切なのは睡眠薬に頼らないで、自然な睡眠導入を心がけること。適量のお酒は、睡眠導入にもってこいです。アルコールには副交感神経を活発にして、リラックスさせる効果があります。糖分の少ない蒸留酒がベストですが、おなかがすいていて眠れないときには、少し糖分のあるワインや日本酒でもOK。お酒が得意でない人は、薬用酒などを少量飲むとよいでしょう。

2019年8月12日月曜日

丁宗鐵・南伸坊『丁先生、漢方って、おもしろいです。』3




南 そういえば先生、ホームレスの人、糖尿病にはなるが水虫はいないって話もありましたね。

丁 風呂に入らないから、皮膚が丈夫です。われわれの皮膚には皮脂腺というのがある。不飽和脂肪酸を出して、それで細菌感染を防いでいます。よく免疫が大切といいますが、免疫というのは、病原菌が体の中に入ってきてから。免疫系が動くというのは、複雑なシステムが連動する必要があってすごく体力を消耗します。風邪を引いてウイルスが体の中に入る。熱が出てぐったりしてくる、頭痛がして、肩もこってくる。ですから、免疫系が動き出すってのは大変なことで、その前に防御しておいたほうが効率がいい。皮膚と粘膜を丈夫にしておくことです。乾布摩擦がいいとか、いろいろ言いますが、一番いいのは風呂に入らない。

2019年8月11日日曜日

丁宗鐵・南伸坊『丁先生、漢方って、おもしろいです。』2



この『丁先生、漢方って、おもしろいです。』(朝日新聞出版 2014年)は、文字通りおもしろい本です。もちろん漢方なる医療がとてもおもしろいことはよく分かりましたが、この本自体がおもしろいんです。

丁さんの博覧強記はあっちに行きこっちに行き、読んでいてなるほど!! ホンマかいな? クスクスニヤニヤ♡♡、あまりのおもしろさに一気に読み終えたことでした。絶妙なる聞き出し役である南さんに、丁さんがうまく乗せられたといった感もありますが、「丁先生の雑談力」という一章があるように、丁さんは座談の名手なのでしょう。拝読して、とくに興味深かったのは……。

2019年8月10日土曜日

丁宗鐵・南伸坊『丁先生、漢方って、おもしろいです。』1




 丁宗鐵さんはテレビでもお馴染みの漢方医療専門医にして医学博士、しかのみならず日本薬科大学の学長さんです。当然、丁先生とお呼びすべきところであり、この本のタイトルも「丁先生」となっていますが、マイブログ「饒舌館長」では、鬼籍に入られた方のみ「先生」として、お元気な方はみな「さん」づけにするということになっていますので、どうぞお許しくださいませ。

南伸坊さんについては、改めて紹介するまでもないでしょう。今は亡き赤瀬川原平氏と、去年静嘉堂文庫美術館でも講演をお願いした藤森照信さんといっしょに著わした『路上観察学入門』は、かつて読んだとき、これはエデュテイメントの名著だと感を深くしました。

2019年8月9日金曜日

銭塘潮7



もちろん、行き当たりバッタリですから、銭塘江は波一つ立てず、ただ静かにゆうゆうと流れているだけでした。しかも、鄧小平による開放経済が始まって20年が経ち、沿岸の一部が工場地帯になっていました。天上の大雅には、ちょっと見せたくないなぁと思ったものでした。

今このときの旅日記を引っ張り出してきて、「饒舌館長」を書いているのですが、「銭塘大橋へ向う途中で、パン、白葡萄酒、石鹸、パンツを買う」などと書いてあります。銭塘江をながめながらの豪華なランチには、ちゃんと白葡萄酒を食前食後にやっているのですが、それが「ダイナスティー」だったか、「グレートウォール」だったか、はたまた煙台の安物だったか、まったく思い出せません。

何といっても30年前のことであり、今や僕も後期高齢者になっちゃっているからです。しかし、やっぱり煙台の安物だったような気がします(笑) 

2019年8月8日木曜日

銭塘潮6



僕がどうしても銭塘江を見たいと思ったのは、愛して止まない文人画家・池大雅に「西湖春景・銭塘観潮図屏風」(東京国立博物館蔵)という大作があるからです。微光感覚の画家・与謝蕪村に対して、陽光の画家とたたえたい大雅の傑作中の傑作です。絵画として造形としてすぐれていることは言うまでもありませんが、大雅の中国文化に対する強い憧憬を読み取りたい誘惑に駆られます。

もちろん鎖国日本のなかで生活していた大雅は、中国に出かけて銭塘潮を見ることは叶いませんでした。しかし、この劉禹錫が詠んだ七絶や白楽天の「江南を憶う」などは知っていたことでしょう。

渡部さんによると、銭塘潮を詠んだ漢詩は、宋の柳永「望海潮」、陳師道「観潮」、明の張輿「江潮」、高啓「呉越紀遊」、清の朱芹忠「銭塘懐古」など、たくさんあるそうです。大雅はこのような漢詩に淅江地誌か何かで見た銭塘江の真景をない交ぜにして、「銭塘観潮図」を描き出したにちがいありません。

僕は銭江大橋の上に立って、「あぁ 俺はいま大雅に成り代わって銭塘江を眺めているんだ!」と、悦に入ったものでした。


2019年8月7日水曜日

銭塘潮5



 じつは僕も、銭塘潮を見に行ったことがあります。それは198952日のことでした。この年の38日、北京日本学センターの講師として着任した僕は、メーデーの休みを利用して、上海→杭州→蘇州とまわる1週間の旅行に出ました。428日、夜910分北京駅発の161次・普快に乗れば、翌日の同じく夜9時に上海着です。つまりそのころ、北京~上海はまる一日かかったんです。

このときの上海における珍談については、かつて『朝日新聞』の「心の風景」というコラムに書いたことがありますし、このブログに再録したことがあるような気もします。

それはともかく、51日朝から夕方まで人力車を漕ぎ漕ぎ、西湖を案内してくれた呉正良さんの紹介で、ようやく泊れた招待所の西湖飯店を翌朝チェックアウトすると、近くの望湖飯店まで行って、貸し自転車を借りました。早速ペダルも軽やかに?銭塘江にかかる銭江大橋へ向いました。


2019年8月6日火曜日

銭塘潮4



銭塘潮というのは太陽と月の引力の関係で起きる現象ですが、川底が浅いということと、銭塘江の河口がラッパのように急激に狭くなっていることも原因であるといわれています。このため満潮になると、前の波の進度が遅くなり、後から来る波に押し上げられて巻き上がります。と同時に唸りをあげて時速15ノット(約28キロ)のスピードで銭塘江を100キロも逆流します。旧暦の818日の銭塘潮が最も潮勢が激しく、波の高さは23メートルにも達します。この日を「潮神の誕生日」といっています。この現象は世界でも、ブラジルのアマゾン河口のポロロッカと銭塘潮だけです。

2019年8月5日月曜日

銭塘潮3


 


 言うまでもなく、この8月は陰暦の8月、したがってこの七絶は<秋>の章に入っています。今なら9月というところでしょう。劉禹錫は洛陽から出たといわれる中唐の詩人ですが、印象的なのは、3度も左遷の憂き目にあっていることです。最後は太子賓客・礼部尚書まで上ったようですが、その前に3度の左遷です。というよりも、唐時代の有名な士大夫詩人は、順調に立身出世した方が少ないといってよいでしょう。

岩波文庫の『唐詩選』には、登場する詩人の簡単な伝記が、下巻の巻末に載っています。それを通読してみると、もうこれは左遷と失意と漂泊の人物辞典じゃないかと思われてくるほどです。あるいは、それらが天下の名吟絶唱を生み出すために、きわめて重要な要素として働いていたのでしょうか。必要不可欠だったとは言わないまでも……。銭塘潮については、先の『漢詩歳時記』をそのまま引いておきましょう。

2019年8月4日日曜日

銭塘潮2



81日――今日は振替休日をとったので、先日お名前を挙げた筒井康隆さんの真似をして不良老人を気取り、ちょっと卯酒を楽しみました。クーラーなんかつけずに、蚊取り線香を燻らし、先日浅草寺の壬生真康師から頂戴した団扇で涼を取りながら……。

そして、昼寝のあとは渡部英喜さんの『漢詩歳時記』を拾い読みしつつ、戯訳をつけて遊びました。そのなかに、劉禹錫が8月の銭塘潮をたたえた七言絶句「浪淘沙」があったので、これを紹介しましょう。

  八月 大地をとどろかせ 銭塘潮の季節[とき]が来る

  波濤は渦巻き龕山[がんざん]を 越えんばかりに盛り上がる

  アッという間に潮は引き 狭門[せと]を通って去ってゆく

  あとには砂がうずたかく 雪のごとくに残ってる

2019年8月3日土曜日

銭塘潮1


 

 葉月8月を迎えました。いよいよ夏本番、暑い日が続きますが、やっぱり夏は暑い方がいいですね。先月はちょっと涼しい日が多く、早く暑くなれと思っていました。もちろんビールのためです(笑) 去年の7月は猛暑の毎日、もういい加減にしてほしいと思っていたのですから、人間なんて勝手なものです。その夏が終わったころ、朝日歌壇に載った一首――ちょっと「番外地」風なので、よく記憶に残っています。

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去年の酷暑が忘れられないのには、もう一つ理由があります。というのは、朝からテレビで「不要不急の外出は控えるように……」などとやっているので、我が静嘉堂文庫美術館で開催中の「明治150年記念展 明治からの贈り物」がまったく振るわなかったからです。ディレクターとして、度し難い激暑がことさら恨めしく思われたことでした。美術館というのは、基本的に不要不急ですから……(笑)

2019年8月2日金曜日

松浦武四郎13


山本命氏の『幕末の探検家 松浦武四郎入門』(月兎舎)は、松阪市の松浦武四郎記念館につとめる著者が、生誕二百年を機に書き下ろした一書で、実証的でありながら、「入門」とあるごとく読みやすい。山本氏には今回講演もお願いしたが、多くを学ぶことができた。

やはりうまいなぁと感じ入ったのは、『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅』二(中央公論新社)に収められる「武四郎と馬小屋」という一文だった。文末には<『新潮45+』19827月号>と、天下の話題となった雑誌に載ったものであることが注記されている(!?)

2019年8月1日木曜日

松浦武四郎12


経世済民を旨とすべき政治的立場から、これを敗北と見なした吉澤忠先生は、かつて「田能村竹田の敗北」という名論文を『國華』に寄稿された。しかし一人の人間の生き方としてみれば、結局竹田は正しかったのだと考える私は、それに答えるアンサー・エッセーのような形で、先の論文を書いた。その竹田と同じ意味において、松浦武四郎も正しい選択を行なったのであり、人生における真の勝利者だったのではないだろうか。

企画展を開くにあたり、何冊か武四郎関係の本を読んだ。吉田武三氏の『松浦武四郎』(人物叢書)は、いまも定本の地位を失っていない。今回、お嬢さんの吉田安希さんと知り合えて、実にうれしかった。花崎皋平氏の『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波現代文庫)は、著者みずからの行き方と武四郎を重ね合わせて、読む人に猛省を促がし沈思黙考へと誘う。