2019年8月16日金曜日

松浦武四郎と「永遠のニシパ」


松浦武四郎と松本潤・深田恭子主演「永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎」(NHK)<715日>
 以下は一度アップしましたが、イメージ上の問題が起こったので、全部削除しました。しかし、やはり「饒舌館長」にテキストだけでも残しておきたかったので、再度エントリーすることにしました。すでにお読みになった方は、スルーしてくださいませ。

 去年、わが静嘉堂文庫美術館では「松浦武四郎展」を開いて、とくに歴史ファンの方々に楽しんでいただいたことについては、すでに「饒舌館長」にエントリーしました。北海道命名150年・武四郎生誕200年を記念して開催した企画展でした。

この武四郎を主人公にしたNHKテレビ特別番組「永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎」が、先日放映されました。これに合わせて開催すれば、もっとたくさんの入館者に恵まれたかな( ´艸`)

武四郎役は「嵐」の松本潤、彼に思いを寄せるアイヌの娘・リセに深田恭子という豪華キャストです。もっとも、<深キョン>のことはよく知らなかったので、ネット検索したところ、僕が大好きな筒井康隆の原作にかかる朝日放送テレビドラマ「富豪刑事」の神戸美和子役が当たり役とのこと、急にファンになっちゃいました( ´艸`)

 「永遠のニシパ」は、テレビドラマとしてとてもよく出来ており、僕が絵画の評価で使っているランクにしたがえば「上品上生」、いや、厳しく採点すれば「上品中生」かな( ´艸`) ときどきウルウルになりながら見ていました。何といってもテレビドラマですから、武四郎とリセのメロドラマに仕立てられています。しかし、松阪・松浦武四郎記念館の山本命さんが著わした『幕末の探検家 松浦武四郎 入門』(月兎社 2018年)には、次のように書かれています。

この年(1859年)、武四郎は42歳で結婚している。いつまで蝦夷地のことばかりに没頭しているのを見かねた周囲が、いい加減結婚したらと勧めたのだろう。女性関係のエピソードが一切なく、硬派な志士としての一面しかなかった武四郎に嫁いだのは、旗本福田氏の娘<とう>。初めは儒学者の尾藤水竹に嫁いだが、水竹の没後は寡婦となっていた。

 つまり、武四郎とリセのラブロマンスは、視聴率をかせぐための完全なストーリーだったのでしょう()

 今回エントリーするにあたり、まだ手にとっていなかったドナルド・キーン先生の『続 百代の過客』を逗子市立図書館から借りてきて、「松浦武四郎北方日誌」を読んでみました。僕は『百代の過客』の正編しか持っていなかったので……。読者を引き込むその取捨選択と筆の妙、さすがキーン先生と感を深くしましたが、先生が取りあげた武四郎の漢詩を、またまたマイ戯訳で紹介することにしましょう。

  はるかに遠く行く道は 雲と霞に消えてゆき
  食糧尽きた山の中 気持ちは萎えて元気出ず
  千島の熊のてのひらは 絶品と聞いたことがある
  雪の崖下 熊の穴…… 自然とヨダレが垂れてくる

 山本命さん著書の巻末に、「北海道の武四郎碑めぐり」が特集されていて、その中に「ボッケ/釧路市阿寒町」の漢詩碑が紹介されています。写真だけでよく読めないので、ネットで検索したところ、やはり出てきました。

それは武四郎の『久摺日誌』に載っているそうですが、阿寒湖の美しい自然を詠んで、とても印象的な七言詩です。何よりも、10年ほどまえ登った阿寒岳とその下に碧き水をたたえる阿寒湖を思い出させてくれました。もっとも僕が登ったのは、武四郎と異なり雌阿寒岳の方ですが……。そこでまたまたマイ戯訳です。

 風は止んだり夕日影 水面[みなも]も静か波立たず
 小舟に掉さし湖の 崖に沿いつつ帰り行く
 真白き雄阿寒 千尋の 雄姿をパッと映す水
 これこそ昨日この俺が 登った山だ!あの山だ!

 わが展覧会のあと、武四郎への関心はいよいよ高まり、美術雑誌『聚美』に連載している「聚美季題」に取り上げることにしました。「饒舌館長」にエントリーしたものをバージョンアップしたものですが、ここに再録することをお許しください。

松浦武四郎――幕末の北方探検家にして北海道の名付け親である。私が尊敬して止まない日本人である。しかし一般的には、あまり知られていない。幕末の北方探検家といえば、必ず伊能忠敬や間宮林蔵の名があがるが、松浦武四郎はまず出てこない。もっとも大きな理由は、教科書に登場することが少ないためのように思われるが、それには訳がある。

一言でいえば、武四郎が「敗者」だったからである。山口昌男氏は、名著『「敗者」の精神史』の最終章「幕臣の静岡――明治初頭の知的陰影」において、大きく武四郎を取り上げ、続く「結びに替えて」のすべてを武四郎に捧げている。確かに武四郎は社会的敗者であったが、しかし人生の勝者であったと思う。武四郎のことを知れば知るほど、尊敬の念は深まっていく。

松浦武四郎は文政元年(一八一八)、現在の松阪市小野江町で生まれた。松浦家は代々和歌山藩の郷士をつとめる家柄で、父時春の四男坊であった。十六歳の時、手紙を残し突然家出したが、江戸で見つかり連れ戻される。伊勢街道を行き来する、お伊勢詣りの人々を見て育った武四郎には、おのずと異国へのあこがれが育っていたのであろう。

翌年諸国をめぐる旅に出ると、長崎へ向かって僧侶となるも、ロシア南下の脅威を聞き知ると、二十八歳の時、最初の蝦夷地探検を試みる。四十一歳までにこれを六回敢行することになったが、後半の三回は、幕府の蝦夷地御用雇としての公的調査であった。

かくして五十二歳の時、開拓判官に任じられ、従五位に叙せられた。しかし明治政府のアイヌ政策に賛同できなかった武四郎は、翌年辞職し、位階も返上してしまう。そして明治二十一年(一八八八)七十一歳で没するまで、旅と古物蒐集に適意の晩年を送ったのだった。

今年は武四郎が誕生してから、ちょうど二百年の節目の年にあたっている。武四郎の提案が採用され、太政官布告をもって「蝦夷地」が「北海道」と改称されてから百五十年目でもある。なお、武四郎が最初に選んだ「北加伊道」には、北の人々が暮らす大地という意味が込められていた。

これを記念して、静嘉堂文庫美術館では、企画展「松浦武四郎 幕末の北方探検家」展を開くことにした。静嘉堂文庫は、千点に近い武四郎関係の資料を収蔵している。

文庫創立者の岩崎弥之助が、その重要性をいち早く見抜き、これを譲り受けたわけだが、弥之助の深川別邸を建てた大工棟梁の柏木貨一郎がすぐれた古物蒐集家であり、武四郎と懇意であったというネットワークも与って力あったものと思われる。担当した学芸員・成澤麻子氏は、北方探検家であるとともに、また古物の大コレクターであった武四郎に照明をあて、ただ一枚残るポートレートの武四郎が首にかける「大首飾り」に、それをまず語らしめようとしている。


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