2025年7月31日木曜日

三井記念美術館「花と鳥」5

 

本展のキューレーションを行なったのは、主任学芸員の海老澤るりはさんです。その海老澤さんが、先日『朝日新聞』夕刊の「私の<イチオシ>コレクション」に「商家率いた活力と発想 大作に」と題して、三井高福たかよしの「海辺群鶴図屏風」を紹介していらっしゃいました。

高幅は幕末から明治にかけて活躍、三井財閥の基礎を築いた実業人でしたが、応挙の弟子に画を学んでこれを趣味としました。この「海辺群鶴図屏風」は応挙作品の模写だそうですが、画技の高さには驚かざるを得ません。かつて「応挙と三井家」という拙文を書いて、創業者・三井高利の思想とその後の三井家について考えたことがあります。その時この作品を知っていれば、是非使いたかったなぁと思いながら眺め入ったことでした。

2025年7月30日水曜日

三井記念美術館「花と鳥」4

 

「鳥類真写図巻」にも、この掛幅にも、三井記念美術館学芸部長の清水実さんが撮影したリアルなカケスの写真が添えられています。比べてみると、始興の写生はやや太目で、完成画の掛幅ではさらに太目になっているように感じられました。

始興の師である尾形光琳の「鳥獣写生図巻」(京都国立博物館蔵)にもカケスが登場しますが、こちらは写真と同じように細めです。あるいは始興の場合、写生の段階で絵画化へのベクトルがすでに働いていたのかもしれません。

始興の「鳥類真写図巻」については、先の清水実さんが『三井美術文化論集』11号(2018)に、詳細な「資料紹介」を寄稿しています。会場では細かい字の留書が読めませんでしたが、清水さんはそれをすべて翻刻し、片仮名を漢字に改めて詠み易くしています。

カケスの留書は「羽裏薄墨/はね裏のむくげ朱墨/朱墨隈/白」――始興の息づかいが伝わってくるようではありませんか!! 写生の重要性を主張して江戸時代絵画を革新し、多くの弟子を養育して円山派を開いた円山応挙は、このような始興の写生から決定的影響を受けたのでした。

2025年7月29日火曜日

三井記念美術館「花と鳥」3

 

やや横長の画面に、ラフな水墨調で樹木を描き、そこにカケスを一羽止まらせています。下には渓流が涼しげな音を響かせています。明らかに「鳥類真写図巻」のカケスをもとに仕上げた一幅です。その巧みな描写だけで始興だと分かりますが、画面左下に「渡辺始興」<始興之印>という、まがう方なき落款が入っています。

はじめて見る始興の佳品です。なによりも「鳥類真写図巻」と直接的に結ばれる作品であることが、とてもうれしく感じられました。水墨+写生という相似たアイディアによる始興の傑作に、「梅に小禽図屏風」がありますが、その掛幅バージョンだといってもよいでしょう。

この屏風は始興が61双金地の「山水図屏風」を描き、その裏にみずからこれを添えたものでした。あくまで「山水図」が表で、「梅に小禽図」は僕のいう「裏面屏風」でしたが、こっちの方が断然おもしろいのです。若いころ大変お世話になった組田昌平さんのお宅で拝見した逸品でしたが、その後ロサンジェルス・カウンティ美術館のコレクションになりました。


2025年7月28日月曜日

三井記念美術館「花と鳥」2

三井記念美術館のメインルームに入ると、いの一番にこの「鳥類真写図巻」へと直行しました。入って左側のケースに、巻頭から延々と――といった感じで陳列されていますが、それでも全部は展示できず、巻末の方は捲かれたままになっています。それほど長い図巻なんです。17メートル以上あるんです。写真師の橋本弘次さんと一緒に調査した日のことを思い出しながら、巻頭から順々に見て行きました。

ヤジ「またまた後期高齢者のセンチメンタルジャーニーみたいな話だな!!

 ところが見終わって振り向くと、反対側のケースに、この「鳥類真写図巻」から抜け出てきたようなカケス(カシドリ)の掛幅が展示されているじゃ~ありませんか。不思議なことがあるものだと思って近づくと、これが同じ渡辺始興の作品だったんです。 

2025年7月27日日曜日

三井記念美術館「花と鳥」1

 

三井記念美術館「美術の遊びとこころⅨ 花と鳥」<97日まで>

 先月618日、NHK青山文化センター講座で取り上げた「魅惑の日本美術展」です。清水真澄館長から、渡辺始興の「鳥類真写図巻」が出陳されるとお聞きしたので、ぜひ受講者に見てほしいと思ったのです。半世紀前の東京国立文化財研究所時代、そのころの所蔵者であった三井高遂たかなるさんのお許しを得て、ご自宅にうかがって調査させていただき、その結果を機関誌『美術研究』に発表した、僕にとって青春の思い出(!?)みたいな作品なんです。

高遂さんを紹介してくれたのは、辻惟雄さんでした。高遂さんはニワトリの研究家としても有名でしたので、ニワトリの画家伊藤若冲を研究していた辻さんは、早くから親しくされていたんです。僕が江戸時代の写生に興味をもっていることを辻さんは知っていて、高遂さんがすばらしい始興の写生図巻をお持ちだと教えてくれたのでした。

2025年7月26日土曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」9

 書幅のなかにもゼッピンがありました。明末の有名な書家にして画家であった張瑞図の書風を真似して書いた「五言詩書」(個人蔵)です。静嘉堂文庫美術館には張瑞図のみごとな「山水図」がありますが、この重文本については、かつて私見をアップしたことがあるように思います。

もちろん南海も大の酒好きでした。その南海が賛酒詩を張瑞図スタイルで書いたのは、張瑞図も大の酒好きだったからです。いや、「大の酒好き」は「酒仙」と訂正することにしましょう( ´艸`)

  この濁酒どぶろくのすばらしさ!! 知っているのは俺だけだ!!

  酔って夢見ん花の下 狂って月下に詩を吟ぜん

  眺める天地 晴れ渡り 万物 完璧 俺 無力

  眺めるだけじゃ~哀れゆえ 朝から醨うすざけ浴びるのだ

 

2025年7月25日金曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」8

竹図

  淇水の竹林 緑なり 瀟湘 一片ひとひら 雲 浮かぶ

  楽しみたいのだ自みずからが 贈るわけにはいきません

 南海はつぎの中国梁・陶弘景のよく知られた詩を引用しているようです。

陶弘景「山中何の有る所ぞと詔問せられ、詩を賦して以て答う」

   皇帝様から下問あり 「山中 何があるのだ?」と

   「峰の上にはたくさんの 白雲 浮かんでおりまする

   けれどもこれは私奴わたしめが ながめて楽しむだけでして

   折角ですが皇帝に 差し上ぐわけにはまいりません」

 

2025年7月24日木曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」7

墨竹図

  まばらなところも密もある 緑さやけき竹林は

  霞がかかり雨に濡れ 降りる白露 冷たいが

  詩人の詩魂は年取れば 一層 熱く燃えるもの

  酔いが醒めれば詩を吐いて 彫りつけるのだ竹幹に……

 

2025年7月23日水曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」6

紅梅図

  かつて西湖の水際に 住んでいたのが林和靖りんなせい

  しかし今では遥はるけくも 千里 隔てた故人なり

  手紙を飛脚に頼むにも いかに書くかが浮かばずに

  已む無く梅の一枝を 贈る川辺の今は春

 

2025年7月22日火曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」5

美人石上読書図

  桐の木の下うす暗く 岩に生えてる苔こけまばら

  人影もなき真昼中 庭は静まり返ってる

  美人 静かに錦織にしごりの 回文 練るのは誰がため?

  兵書 愛読した喬家きょうけ――姉妹に興味はありません 

2025年7月21日月曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」4

新竹図巻

四月になって夏が来て 初めて雨が晴れました 

龍と化す竹 玉の肌 みないっせいに出現す 

南風なんぷう一夜で筍たけのこの 皮をすっかり剥ぎました 

大きな竹の孫たちに 不要だ!! きれいな負ぶい紐 

十日も経てば雲を突き グングン天まで伸びていく 

葉擦れサヤサヤ風吹けば 鸞鳥らんちょう鳳凰 鳴くようだ 

項橐こうたく・甘羅かんらは早熟の 天才――君も知るとおり 

三歳みっつの獣けものは人間と 同じだけれど名を継がず 

かの顔回がんかいも若く死に 子孫はこの世におりません 

天帝 万物 育成に もちろん力を注いでる 

李賀長吉の天賦の才 摘み取るなんて出来ません 

さと・昌谷の新竹は 露に濡れつつ青々と……

 

2025年7月20日日曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」3

現在では紀州の三大文人画家の一人として知られる南海ですが、それは中国文化学習の過程で後半生に派生したものであり、南海の本質はあくまで漢詩人であったものと考えられます。

 言われてみると確かにそのとおりですが、「詩画補完思想と日本文人画」を執筆中の僕としては、南海において漢詩と絵画は、補完関係に結ばれていたのだと――主張しないわけにはいきません() 「漢詩と絵画」のコーナーには、5点の絵画作品が展示されていましたが、すべてに詩賛が加えられていることは、改めていうまでもありません。例のごとく独断と偏見による戯訳を披露して、展覧会レポートに代えることにしましょう。

 

2025年7月19日土曜日

和歌山県立博物館「祇園南海」2

朝早く家を出てJR和歌山駅に着き、ランチは駅前近鉄デパート食堂街の和歌山ラーメンです。残念ながら天下の井出商店ではありませんでしたが、これは帰りに駅の売店で袋入りのインスタントをゲットすることができました。タクシーを降りるのももどかしくチケット売り場に向かうと、係の女性が僕の顔を見て、親切にも65歳以上は無料ですが……と教えてくれるじゃ~ありませんか!! いや、一目瞭然だったというべきかな?(´艸`)

マイナカードは持っていませんでしたが、生年月日を言ったらOKしてくれました。ありがとう❣❣❣ 和歌山県人はやさしいのだ❣❣❣

所蔵品を中心としたすばらしい企画展で、堪能することができました。しっかりとした研究を基にした展覧会――僕の言う研究展だったからです。展覧会の趣旨は明瞭で、館長さんの「ごあいさつ」にはつぎのようにありました。予算の関係かカタログがないので、パネルを筆写してきましたが……。


 

2025年7月18日金曜日

和歌山県立美術館「祇園南海」1


 和歌山県立博物館「祇園南海の詩と書――教養・芸術・心情――」<721日まで>

 猛暑のなか、南国和歌山まで出かけてきました。和歌山県立博物館で開かれている企画展「祇園南海の詩と書――教養・芸術・心情――」を観るためです。けっして「美術品は所蔵館で、地酒はその土地で」をラーメンでも実行しようと思ったからじゃ~ありません(´艸`) 

いま「詩画補完思想と日本文人画」なる拙文を書いているところなのですが、重要な作品の一つとして、南海の「新竹図巻」を取り上げたんです。このすばらしい作品が、本企画展に出品されているというじゃ~ありませんか。これは出かけて観ざるを得ません。

これまで和歌山県立博物館では2回大規模な「祇園南海展」が開かれており、そのときも拝見したように思いますが、後期高齢者の記憶はもはやオボロです。ここでまたまた後期高齢者を持ち出したのにはわけがあります。

2025年7月17日木曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」17

そうなれば挿絵画家は――あくまで挿絵画家ですから挿絵を描く必要も、目的もなくなってしまいます。たとえ描いたとしても、発表の場はなかったでしょう。おそらく英朋も、このような挿絵画家の宿命に抗することは不可能だったと思います。

ところが展覧会画家――このような言葉があるかどうか知りませんが――の場合、大衆の人気とはほとんど無関係です。展覧会画家にも人気作家と不人気作家――これまたこんな言葉はないでしょうが――がいますが、たとえ不人気作家でも展覧会に出品し続ければよいのです。そうすれば死ぬまで創作を続けたことになり、年譜も空欄なく埋まるでしょう。

このような大衆の人気を最大のアテにした、あるいはアテにしなければならなかった点でも、英朋は日野原健司さんが指摘するように「最後の浮世絵師」でした。かの東洲斎写楽も寛政8(1796)以後、寡作に、いや、無作になりましたよね。もし写楽が斎藤十郎兵衛だったとすれば、文政3(1820)まで生きていたはずなのに!!

 

2025年7月16日水曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」16

 

 「饒舌館長ブログ」ファン(?)の牧啓介さんが、このエントリーにコメントを寄せてくれました。英朋が晩年どうして寡作になったのか不思議だというのです。

確かにカタログの「鰭崎英朋略年譜」をみると、昭和2(1927)47歳のとき、もっともつながりの深かった『娯楽世界』の最終号に表紙と口絵を描いてから、昭和43(1968)88歳で亡くなるまでの41年間が空欄になっているんです。牧さんの疑問に対して、饒舌館長はつぎのようにコメントしました。

口絵に創造の場を求め、会場芸術に色目を使わないという英朋の生き方は素晴らしいと思います。これから私見をアップするところです。しかしこの生き方には、当然のことながら「死角」がありました。つまり「大衆」の人気がほとんど唯一のよりどころですから、大衆の美的趣味が変化して人気がなくなれば、すぐに注文が来なくなります。

2025年7月15日火曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」15

 

ところが『続風流線』は297ページ、前編の『風流線』と合わすと実に627ページもあるんです。短編しか読んだことのない僕は、鏡花にこんな長篇があるなんて、チョッと信じられませんでした。『鏡花全集』第8巻には解説がないので、ネットで調べると新聞の連載小説であることが分かりました。それでさすがの鏡花も、サッと切り上げることができなかったのでしょう。あるいは読者からの反響に鼓舞されたのでしょうか。

しかも長いだけじゃ~なく、話の内容がきわめて錯綜しており、登場人物も多いので、メモを取りながら読みました。『源氏物語』や『カラマーゾフの兄弟』には登場人物リストがありますが、『続風流線』にそんなものはないんです。

しかも鏡花特有の省略や飛躍、洒落や象徴的表現の連続で、よく理解できない箇所が次々に出てくるんです。「超訳」がほしいなぁと思いながら、丸3日かけて正続を何とか読了しましたが、英朋に献杯するどころの話じゃ~なくなってしまいました(´艸`)

2025年7月14日月曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」14

 

確かに鰭崎英朋は今それほど有名じゃ~ないかもしれません。しかしそれがどうしたというのでしょう。この感動的な泉鏡花『続風流線』の口絵1枚を遺しただけでも、英朋が生きた証しはたしかにあるのだと思います。ましてやかくも充実した「鰭崎英朋展」が、日本を代表する浮世絵美術館の太田記念美術館で開かれているんです。英朋は昭和43年(196888歳で亡くなりましたが、以て瞑すべしです。

逗子市立図書館には「逗子ゆかりの作家」というコーナーがあります。数年間ですが、逗子に住んでいた泉鏡花の『鏡花全集』(岩波書店)はここに収められています。『続風流線』を含む第8巻を借りてきた僕は、その夜カタログの口絵をながめながら『続風流線』をざっと読んで、英朋に杯を献じるつもりでした。

2025年7月13日日曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」13

 

ところで英朋の真なる画力を見抜き、ともに烏合会で切磋琢磨した清方は、繊細でやさしく、雅号が示すように清らかな方でした。『こしかたの記』を読めばよく分かります。

だからこそ清方は、「世人に認められる機の乏しかったのが私には惜しくてならない」と感じたのでしょう。けっして上から目線ではありません。しかし英朋自身がそう感じていたかどうかは、誰にも分かりません。葛藤がまったくなかったとはいえないかもしれませんが、みずからの境地を心から楽しみつつ日々を生きていたのではないでしょうか。

それは会場を巡りながら、僕が心に強く感じた印象でした。とくに挿絵美人250図を小唄とともに集めた画集『うた姿』(1916年)によく現われているように思われました。冒頭の口絵には泉鏡花が「闇には迷ひ月みては……結ぼれとけぬ柳髪」という小唄を書き寄せていますが、これまた絶品です!! 今回はとくにガラスに顔をくっつけるようにしながら――くっつけ過ぎて係の女性からチョッと注意されてしまいましたが(´艸`)、僕はそんな風に思ったのでした。

2025年7月12日土曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」12

しかも展覧会場に足を運ぶ美術ファンの何倍、いや、何十倍何百倍もが全国津々浦々にいたことでしょう。それは「大衆」であったかもしれませんが、身銭を切って雑誌を求める人たちでした。

もちろん口絵や挿絵を矮小な空間だとしてそこを脱出し、大作や屏風絵を描き、展覧会に出品して画名を高めるべく、さらに褒章を獲得するべく精魂こめて誠心誠意努力する――これもすぐれた画家の生き方、人間のあり方です。そのように生きた清方、わが故郷秋田から出た寺崎広業、そして現代の横尾忠則――みな僕が尊敬して止まないアーティストです。

しかし生き方は人それぞれ、どちらが正しくどちらが間違っているということはないでしょう。どちらが美しく、どちらが見苦しいということもないと思います。どちらが幸せで、どちらが不幸せということもあるはずがありません。英朋の一生は正しく、美しく、十分に幸せだったと思います。


2025年7月11日金曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」11

もっとも明治40年(1907)第1回文展には応募していますから、このころまでは会場芸術への色気というか、意欲もあったのでしょう。しかし突きつけられた「落選」という結果が、英朋に引導を渡すことになったにちがいありません。このようなサッパリとした江戸っ子気質も、「最後の浮世絵師」と呼ばれるにふさわしいように思います。

あるいは7人の子宝に恵まれた英朋にとって、口絵や挿絵は生活のためであったかもしれません。しかし、家族を養うために絵筆を揮いながら口絵芸術の極致を目指す――これも偉大な創造です。

 これはこれで素晴らしい生き方だったと思います。たしかに文展や帝展や院展の作家のごとく、一般的な意味での栄誉、少し意地の悪い言い方をすれば世俗的栄誉は得られなかったかもしれませんが、熱烈な英朋ファンに囲まれていたのです。 

2025年7月10日木曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」10

英朋の才能を燃え立たせたのは、泉鏡花の華麗な文筆が創り出した幻想的世界だったでしょう。また落款の「芳桐印」に象徴されるように、歌川派の系譜に連なる絵師としての自負と矜持もあったでしょう。さらに僕は、ラファエル前派を先導したジョン・エヴァレット・ミレイの傑作「オフェリア」(1852年)を、英朋が写真や図版を通して知っていた可能性も考えてみたいのです。

しかし清方が「鳥合会の後公開の会への出品がない」と書いているように、英朋は口絵や挿絵の小さいけれど濃密な絵画空間にみずからの創造世界を限定して、近代が生み出した人工的装置である展覧会への出品にはきわめて冷淡でした。川端龍子の言葉を借りれば、「会場芸術」を嫌ったのです。


2025年7月9日水曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」9

 

 美樹を救った色の白い勇侠な奴がだれか、ここでは分からないのですが、170ページもあとになって、水泳が得意で「河童」と呼ばれている垂井という学校の教員であることが判るのです。今度は静かな夜の船上、「六尺の褌雪の如く、白身鶴に似たる一漢子」である垂井が、「え、えゝ、竜巻の時は扶たすけられた、飛んでもねえ、何、お前様まえさん、夫人おくさま。……」と美樹に語りかけているからです。

英朋が口絵に描いたのは正にこのドラマチックなシーン、英朋が『続風流線』を全部読んだとは思われず、おそらく鏡花から指定されたのでしょう。それに応えて英朋は何度も下絵を描きなおし、作者の期待を超えたであろうロマンティシズムに満ちた口絵を創り出したのです。鏡花の文にある「乳房のあたり」も、英朋は抜かりなく取り入れて描いているようです。

2025年7月8日火曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」8

 「姉(実際は叔母ですが、竪川昇は年が近いので姉と呼んでいます)の運命、死ではない。裾が浪間に流れながら、乳房のあたり浮いて出た。浮き上がったばかりか、其のどしゃ降りの雨に打たれても、沈みはせんで、手足の動くも見えんぢゃが、凡そ水練の達者が行っても、それだけには行くまいと思ふほど、墨のやうな湖の上へ、姉の姿唯一ッ。衣服の色も美しく、楽に、ゆらゆらと岸へ着いた。……」

 「屈強な野郎の腕よ。するとな、仰向あおむけになった姉の姿が、くるりと俯向うつむけ。帯も髪も、ずるずると下がったが、こりゃ宙に抱かれて居たんで。むッくりと水から出た、素裸すっぱだかの半身を、蘆の中に顕あらわいたは、助けに行った船頭ではない、色の白い勇侠いさみな奴だ。……」

 

2025年7月7日月曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」7

 

 「僕の一点」は、泉鏡花の小説『続風流線』(1905年)の口絵ですね。27.8×22.1センチという小さな画面の口絵が発するエナジー、ムーブマン、エロティシズム――みんな片仮名になっちゃいましたが、英朋の才能に舌を捲かない人はいないでしょう。しかも「蚊帳の前の幽霊」よりもさらに若く、25歳の作品なんです。

舞台は石川県にあるという芙蓉潟――そこを竜巻が襲い、極悪非道なる慈善家・巨山おおやま五太夫の妻である美樹の乗った船が、水柱に雲をまぜた浪に捲かれて転覆し、みな真っ暗な湖に投げ出されたシーンです。それは竪川昇という憲兵少尉によって語られていますが、彼は1町も離れた別の船に乗っていたというのですから、想像をまじえた伝聞なのでしょう。

2025年7月6日日曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」6

 


鰭崎英朋 は明治後期から昭和にかけて活躍した絵師です。浮世絵師・月岡芳年の門人である右田年英に入門し、明治35(1902)から文芸雑誌や小説の単行本の口絵の制作に取り組み始めました。明治末から大正にかけて文学界を彩った英明の妖艶な美人画は、広く大衆の心をつかんで大いに話題となります。

英朋が手掛けた口絵や挿絵は、歴史の終わりを迎えようとする浮世絵版画 (木版画) と、徐々に技術が進歩していく石版画やオフセット印刷によって制作されています。英朋は浮世絵と石版画という、二つの異なる大衆向けメディアに専心した稀有な絵師であり、浮世絵版画の終焉を看取ったという意味で、真の 「最後の浮世絵師」 と言えるでしょう。

本展覧会は、英明が手掛けた木版画や石版画、オフセット印刷による口絵や挿絵、さらには肉筆画や下絵を含めた187点の作品を紹介いたします。 出版メディアが移り変わる時代の狭間に漂う、英明の妖艶な美人画をお楽しみください。

2025年7月5日土曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」5

のちに辻惟雄さん監修のもと、ぺりかん社から『幽霊名画集 全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション』が出版された際、この「蚊帳の前の幽霊」が収録されたことは言うまでもありません。解説を担当した安村敏信さんは、「真夏にたち現われた雪女のような幻想を抱かせる」とたたえています。僕も辻さんから求められるまま、「応挙の幽霊――円山四条派を含めて」という拙文を寄せたのですが、あれからもう30年が経ったとは(!?)

 例のごとくコチトラの思い出ばかり書いちゃいましたが、鰭崎英朋とはどんな画家だったのでしょうか? 詳しくは日野原健司さんのカタログ巻頭論文「鰭崎英朋の画業――『最後の浮世絵師』として」をお読みいただくとして、ここでは巻頭の「ごあいさつ」により、英朋のあらましを知っていただくことにしましょう。  

2025年7月4日金曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」4


 もう一つ英朋で忘れられないのは、その筆になる「蚊帳の前の幽霊」です。若いころつとめていた東京国立文化財研究所の近くに、三遊亭円朝の幽霊画コレクションで有名な全生庵がありました。毎年お盆のころ、全生庵で陳列公開されるこの幽霊画を見に行き、谷中のお蕎麦屋さんでお昼を取ってまた研究所に戻るのが、夏の楽しみの一つでした。

このなかに英朋の素晴らしい「蚊帳の前の幽霊」があったのです。その清楚なること、画品賎しからざること、そして艶やかなること、よく知られた円山応挙の幽霊をしのぐものがありました。気味の悪い、あるいは恐ろしい、また風格乏しき幽霊が多いなかにあって、一頭地を抜く幽霊でした。これを描いたとき、英朋は弱冠26歳、前年12月に杉本菊と結婚したばかりでした。新婚ホヤホヤにして、こんな女性の本質を突くような幽霊が描けるとは!!()

 



2025年7月3日木曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」3

 鰭崎君(英朋)が画いたのは、この増補の「恵の花」英泉挿絵入の分で、まだ北廓に内芸者でいた米八が、向島の田舎家で、恋中の丹次郎との媾曳あいびきに、障子を開けて庭先の梅の莟を口に含む。よく人の知る婀娜たる画面をよく格を保って写し得た。(略)

 今、こうして時を隔てて烏合会のことを回想すると、(大野)静方と英朋の存在が鮮明に泛うかんでくる。 英朋の師の右田年英は、私の師年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健康に、おおどかな筆致を有っていた。それに就いて想い起すのは歌川流の始祖豊春が豊後の臼杵の出で、右田氏と同郷である。

そこに相通じる郷土性のゆたかさを見るが、英朋はよくそれを享けて、年齢の若さはそれに情味を加えた。出生は明治14825日京橋入船町8丁目。 師年英に就いたのは明治30317歳の時で、縁故を辿たどり祖父に連れられて入門したのだと云う。 静方も、英朋も、鳥合会の後公開の会への出品がないので、世人に認められる機の乏しかったのが私には惜しくてならない。

 

2025年7月2日水曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」2

 第3回、(明治)354月には、(山中)古洞が、(幸田)露伴の「二日物語」を、私(清方)が、(尾崎)紅葉の「金色夜叉」を、これは二人が申合せて製作出品した他に、江戸時代文学を全員の課題に撰んだ。英朋の「梅ごよみの米八」、(河合)英忠の「浮世風呂」、(福永)耕美の「膝栗毛」、(池田)輝方「曲三味線」、(高田)鶴僊「弓張月」、(須藤)宗方「女房気質」、清方「田舎源氏の黄昏」その他であるが、特に英朋の「梅ごよみ」は、仲間の批評会でも、見物側の評判にも一致した好評であった。

為永春水の「梅暦」は小本又は人情本の名で呼ばれた類での代表作と見られているが、天保3年に出版されてから50余の巻を重ねて一旦大尾になっても、読者これを承知せず、作者も是非なく初編以前に溯って「梅暦発端、恵の花」6冊を追補したのを見ても、いかに読者に迎えられたかが解る。(略)

 

2025年7月1日火曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」1

 

太田記念美術館「鰭崎英朋」<721日まで>

 鰭崎英朋? 知っている方は多くないでしょう。「ひれざきえいほう」と読みます。僕の持っている『広辞苑』電子辞書で「ひれざきえいほう」と入れると、「鰭酒」と出てきて「鰭崎英朋」は出てきません(!?) この「饒舌館長ブログ」でお馴染みの『新潮世界美術辞典』にも出ていません。僕もチョッとお手伝いした大修館版『原色浮世絵大事典』にも国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』でも無視されています。

最初に僕が鰭崎英朋の名を知ったのは、鏑木清方の『こしかたの記』を読んだときでした。僕のまったく知らない画家を、清方がとても褒めているので印象に残ったのです。清方は「烏合会」の章に、つぎのごとく英朋の思い出を書いています。なお読みやすいように、漢数字はアラビア数字に直しましたのでお許しください。