鰭崎君(英朋)が画いたのは、この増補の「恵の花」英泉挿絵入の分で、まだ北廓に内芸者でいた米八が、向島の田舎家で、恋中の丹次郎との媾曳あいびきに、障子を開けて庭先の梅の莟を口に含む。よく人の知る婀娜たる画面をよく格を保って写し得た。(略)
今、こうして時を隔てて烏合会のことを回想すると、(大野)静方と英朋の存在が鮮明に泛うかんでくる。 英朋の師の右田年英は、私の師年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健康に、おおどかな筆致を有っていた。それに就いて想い起すのは歌川流の始祖豊春が豊後の臼杵の出で、右田氏と同郷である。
そこに相通じる郷土性のゆたかさを見るが、英朋はよくそれを享うけて、年齢の若さはそれに情味を加えた。出生は明治14年8月25日京橋入船町8丁目。 師年英に就いたのは明治30年3月17歳の時で、縁故を辿たどり祖父に連れられて入門したのだと云う。 静方も、英朋も、鳥合会の後公開の会への出品がないので、世人に認められる機の乏しかったのが私には惜しくてならない。
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