2024年8月31日土曜日

大木康『山歌の研究』8

 

  おしゃべりずきな奥さんに 男ができたが先手うち

  人がうわさをする前に 近所の悪口まき散らす

  しもやけの瘡かさ六月に 心配するバカいないはず

  借金取りも名人は 暴力ふるって取り立てる

 これは中国語の音通を教えてもらわないと、喩えがチョット分かりにくいようですが、浮気を隠すために、「攻撃は最大の防御なり」を実践する奥さんをからかっているんです。情事を隠すために、周りにこまごまと気を使う純情な女性の一首と一対になっていて可笑しいんです!!


2024年8月30日金曜日

大木康『山歌の研究』7

 

 さらに僕がおもしろいと思ったのは、明代になると散曲(歌曲)が文人たちによって妓楼で作られ、歌われていたことです。それだけではありません。明末になると、俗曲、はては山歌までも戯作しようとする文人が出現したというのです。唐時代にはやった擬古楽府ぎこがふとチョッと似ているじゃ~ありませんか。文人たちがそれを意識していた可能性もあるんじゃ~ないでしょうか。先にあげた『潮来絶句集』なども、これと無関係ではないでしょう。

『山歌』にも注記によって、明らかに文人の作と分かるものがあるそうです。たとえば巻1「捉奸」第1首の後評に収められた2首は、『山歌』の編者である馮夢龍の作だそうです。そのうちの1首は……。


2024年8月29日木曜日

大木康『山歌の研究』6

 

    春画

娘が部屋でぼんやりと…… 視線は宙を泳いでる

 たまたま春画を見つけたら 身はメロメロになっちゃって

 「こんなすてきなやり方を すっかり覚えてあの人が  

来たらなんとかこのとおり 活きた春画を描きたい!!


2024年8月28日水曜日

大木康『山歌の研究』5

 

    笑み

 巽たつみの方から春風が 吹いてきました斜交はすかいに

 みずみずしい花 一輪が 葉っぱの上に咲きだした

 若い娘よにっこりと 愛想笑いはするじゃない!!

 どれだけ多くの色恋が 始まったやら?微笑から


2024年8月27日火曜日

大木康『山歌の研究』4

 

ここでいつもの戯訳といきましょう。近体詩、つまり普通の漢詩のように字数が決まっているわけではありませんが、やはり七五調にしてみました。大木さんのすぐれた現代語訳を利用させてもらいながら、序章に引用されるきわめて印象的な二首「偸ぬすむ」と「笑み」、それから明代春画(春宮画)研究の資料としても使えそうな「春画」の3首を……。

 もしも男を作るなら オドオドなんかするんじゃない!!

 現場を見つけられたなら 私が罪をかぶります

 いっそお上の前に出て 両膝ついて正直に

言ってやりたい手を出した――のは私です!!まず初め


2024年8月26日月曜日

大木康『山歌の研究』3

 

当時の情況を考えれば、妓院娼楼と関係する歌が基本なのかもしれませんが、普通の女性を歌った、あるいはそれに仮託した歌謡の割合も拮抗しているように思われます。そこには唐代閨怨詩の伝統も受け継がれているのではないでしょうか?

儒教の影響で相聞歌が非常に少ないといわれる漢詩に対して、こんなに豊饒な、そして開けっぴろげともいうべき恋歌や艶歌の世界が、民衆庶民のあいだには広がっていたのです。これを知って、僕は中国の詩歌がますます好きになってしまいました。葛飾北斎『潮来絶句集』のもとになった潮来節と共鳴するエロティシズムが、明らかに感じられるじゃ~ありませんか!! この点にもすごく興味を惹かれたのでした。


2024年8月25日日曜日

大木康『山歌の研究』2

 

中国では労働人民の歌であるといわれ、また妓院娼楼の歌であるともいわれ、見解は大きく二つに分かれるそうですが、大木さんは『山歌』の一部だけを取り上げて論じるからそうなるのだと、批判的に指摘しています。

こういうむずかしい点になると、僕の出る幕はありませんが、男女の愛情や恋情を直截に、赤裸々に、ちょっとエロティックに、あるいはコミカルに歌ったものが多いことはだれでも分かります。いや、この『馮夢龍<山歌>の研究』をみる限り、すべてロマンティックな恋歌、あるいはセクシーな艶歌であるように思われます。しかも「饒舌館長ブログ」には、チョット引用が憚られるような猥歌さえあるんです( ´艸`) 

2024年8月24日土曜日

大木康『山歌の研究』1

 

大木康『馮夢龍<山歌>の研究 中国明代の通俗歌謡』(勁草書房 2003年)

今年の春エントリーした「岩波ホール『山の郵便配達』」で、大木康さんのお名前をあげました。その大木さんに『馮夢龍<山歌>の研究』というすごいお仕事があります。東大同僚時代にプレゼントされた808ページの大著を、いま書庫から引っ張り出してきたところです。いつだったか、NHKのテレビ番組「英雄たちの選択」でしばらくぶりに大木さんのお元気な姿を拝見し、懐かしさがこみ上げてきたことでした。

山歌は明時代、蘇州地方で歌われた民間歌謡です。「通俗文芸の旗手」と評された明末の著述家・馮夢龍ふうぼうりょうがこれを380首あまり収集し、10巻の『山歌』にまとめました。これをもとに大木さんも「山歌」を6種ほどに分類し、代表的な歌謡に訳注をほどこしつつ、論考を加えたのです。

2024年8月23日金曜日

酩スコッチ「キルホーマン」5

 

僕は玉川大学の金子悦子さんと一緒に、10年以上にわったてその美術史部門の編集作業を行いましたが、中村さんの協力がなければ、絶対に不可能だったことでしょう。

ところで中村さんのご主人・健さんは停年になったとき、節子さんとともにスコットランドのウィスキー蒸留所めぐりをされました。もちろん、健さんがウィスキー・マニアだったからです。ちなみに節子さんは、日本酒マニアです!!

きっとそれ以前に、僕がアイル・オブ・スカイの銘酒「タリスカー」のことをしゃべったことがあり、それを覚えていてくださったのでしょう、スコットランド蒸留所めぐりのおみやげに、お二人から「タリスカー」をいただいたのです。一瞬、何とお礼を言ってよいか、言葉が見つかりませんでした。

その後中村さんご夫妻は2回目のスコットランド・ウィスキー蒸留所めぐりに出かけ、3回目を計画していたらコロナがはやり出してしまったそうです。じつは僕だってスコットランドで何千本ものスコッチを見ているんです――エディンバラのスコッチウィスキー・エクスペリアンスにおいてですけど()


2024年8月22日木曜日

酩スコッチ「キルホーマン」4

 美術史業界で中村節子さんを知らないのはモグリですが、業界外の方のために、かつて秋田県立近代美術館HP「おしゃべり館長」にアップしたところを一部再録しておきましょう。

中村節子さんは、東京国立文化財研究所、現在の独立行政法人文化財研究所東京研究所のライブラリアンとして、長い間、資料収集整理という美術史の根幹をなす重要な仕事を続けられました。

僕の東京国立文化財研究所時代、資料室で一緒に仕事を行なった同僚ですが、僕が<とらばーゆ>してからは、資料閲覧のたびに、どれほどお世話になったことでしょうか。たとえば国際交流基金ジャパンファンデーションから、かつて出版されていた英文の日本美術研究目録 An Introductory Bibliography for Japanese Studies が思い出されます。

 

2024年8月21日水曜日

酩スコッチ「キルホーマン」3

ヘビーピートは苦手だけれども、やはりスコットランド・アイラ島の磯の香りを楽しみたいという方は、まずキルホーマンからトライするのがいいかな? 健さんマニュアルにあるように、大麦栽培から瓶詰めまで「100%アイラ」というのも、じつに素晴らしい!!

創業は2005年、まだ20年と経っていない若い蒸留所とのこと、ラフロイグの創業は1815年だそうですから、それに比べればまだ可愛らしい小学生だといってよいでしょう。普通だとこれからの成長が楽しみだというところですが、僕は今の初々しさをいつまでも失わないようにして欲しいと思いつつ、堪能したことでした。

スコッチ文化研究所を主宰する土屋守さんの『<改訂版>モルトウィスキー大全』(小学館 2002年)には載らず、『<完全版>シングルモルトスコッチ大全』(小学館 2021年)に初めて登場するのも、2005年創業と聞けば腑に落ちます。

中村健・節子さんご夫妻、福田幸枝さん、心からありがとう!!

 

2024年8月20日火曜日

酩スコッチ「キルホーマン」2

それぞれ得もいわれぬ銘酒でしたが、今回はとくに個性ゆたかにして初体験の「キルホーマン」を「僕の一点」に選びました。健さんマニュアルには、「Kilchoman Distillery 2005年創業  所在地Rinns ゲール語でKil=「聖人」 蒸留所近くにある教会Kilchoman Churchから採った? ヘビーピート バーボン樽で熟成 まだ若い蒸留所。大麦栽培から瓶詰めまでモルトウイスキーの全てを行なっている」とあります。

 そうなんです!! ヘビーピートもヘビーピート、すごいヘビーピートです。ヘビーピートといえば、日本ではアイラの「ラフロイグ」が有名ですが、ピート香の強さにおいて甲乙つけ難い感じがします。敢えていえば、キルホーマンの方がややマイルドかもしれませんが……。

しかしウィスキー色は、キルホーマンの方がチョッと薄めで、透明感に富んでいるので、なんとなく初々しい感じがします。もっともボディはしっかりしていますから、むしろ加水した方が美味しいように思われました。

 

2024年8月19日月曜日

酩スコッチ「キルホーマン」1

 中村健・節子さんご夫妻から、静嘉堂文庫美術館ディレクター8年間の労をねぎらい(!?)、飲み会の席で「スコッチウィスキー試飲ボトルセット 2024」をプレゼントされました。スペイサイドの「グレンファークラス パッション 46度」、サウスハイランドの「エドラダワー 12年 カレドニア アンチルフィルタード 46度」、アイラの「キルホーマン マキヤーベイ 46度」および「ブルックラディ アイラバーレイ 50度」の4種です。

健さん作成のイメージ入りマニュアルも一緒です。こんな心こもるプレゼントはありません。節子さんの親友で、僕も静嘉堂文庫美術館でともに仕事をした福田幸枝さんから一緒にいただいた、スコッチのためのクッキーを肴に、ソク4種ともみんなやらせてもらいました。

「強い酒ほどストレートがうまい」ともいわれますが、コチトラは80を越え、最近ひどく弱くなったところに46度と50!! 一口だけストレートで、あとは水割りで堪能させてもらいました。

2024年8月18日日曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」9

出口さんは「個というのは類の対立項というより、むしろ類の極限的な一形態なのである」というのです。これにしたがえば、北斎は江戸後期浮世絵師の極限的な一形態ということになります。これも一面の真理を突いているように思ったので、「伝統と革新」の章に引用させてもらうことにしました。

柄谷さんの固有名論からみれば、北斎は時代を超越した天才となり、出口さんの個類論にしたがえば、北斎は時代が生んだ天才ということになるのではないでしょうか。北斎にこの両面があったことは否定できない事実で、どちらかに決めなければならない二者択一の問題ではないと思います。

今年の春、出口さんは『朝日新聞』の「耕論 『自分の名前』とは」に登場されました。ずっと偽名で生きてきて、死の直前に本名を明かしたある犯人について、示唆的な分析をされていましたが、いよいよ元気で活躍されていることを知りました。そして30年前を思い出し、何か懐かしいような感覚にとらわれました。

 

2024年8月17日土曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」8

その第1部第2章にある「固有名は、個体の個体性を一挙に指し示すのであって、それを集合のなかの一員として見出すのではない」という一節に逢着したとき、これこそ「北斎」じゃないかと直感し、ソク引用させてもらったんです。その柄谷さんが、一昨年、哲学のノーベル賞といわれるバーグルエン哲学・文化賞を受賞されました。こんなうれしいことはありません。

柄谷さんの『探求Ⅱ』と一緒に、もう1冊読んだ本があります。それは出口顕さんの『名前のアルケオロジー』(紀伊国屋書店 1995年)という出版されたばかりの本でした。出口さんの結論は、柄谷さんとむしろマギャクのようでしたが、これまた北斎によく当てはまるところがあるように感じられました。

 

2024年8月16日金曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」7

 

 先に挙げた拙著『北斎と葛飾派』といえば、尊敬する哲学者・柄谷行人さんも忘れることが出来ません。若いころ柄谷さんの『隠喩としての建築』を読み、これはすごいことをいっている本だと思いました。しかしきわめて難解で、よく分りませんでした() でも柄谷ファンになりました。

最近柄谷さんは、『朝日新聞』に「柄谷行人回想録 私の謎」を長期連載していますが、毎回「なるほど、そういうことだったのか」と思いながら拝読しています。

その柄谷さんの『探求Ⅱ』<講談社学術文庫>(1989年)を読んだのは、『北斎と葛飾派』を準備している最中でした。その第1部が「固有名をめぐって」だったので、改名30回説さえある北斎を考えるとき、何か参考になるんじゃないかとも思ったのです。

2024年8月15日木曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」6

 

我ながらうまい思い付きだと内心自負していたのですが、狩野探幽の「隠現効果」や円山応挙の「迫央構図」、あるいは与謝蕪村や酒井抱一の「微光感覚」のように誰も使ってくれませんでした。ガックリきて、もうあきらめていました。

ところが奥田敦子さんによって、この「伸暢感覚」が蘇生したんです。しかも空前絶後の「北斎グレートウェーブ・インパクト」展においてですよ!! 会場のキャプションにも「伸暢感覚」と書かれていたので、「皆さん、この命名者は僕ですよ」と叫びたいような気持ちになりました(!?)

秀逸なる構成の展示を見終わって、北斎が琳派や洋風画や南蘋派から影響を受け、自己増殖を繰り返しながら、グレートウェーブというハイブリッド絵画を創り出した秘密をよく理解することができました。しかし一言でいえば、北斎が天才だったからです!!

 ヤジ「それを言っちゃ~おしまいよ」

2024年8月14日水曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」5

 


「賀奈川沖本杢の図」や「おしおくりはとうつうせんのづ」などの文化年間の初期から中期にかけて発表されたと推定される洋風風景版画群には、高まる波涛やせり上がる崖、伸び行く松や樹林などに立ち上がる躍動的なムーブメントがあらわされており、上方へ伸びゆく「伸暢感覚」が北斎の構成感覚の根底に根付いているとする見方がある。

確かに、「芥子」などの花鳥画や「百物語」といった妖怪絵など、風景を描いた名所絵ではないジャンルにもその「伸暢感覚」が垣間見えており、「伸暢感覚」が北斎の感覚の根底にあったという主張もうなずける。

2024年8月13日火曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」4

 

そのなかで奥田さんは、北斎の「伸暢感覚」という僕の持論に賛意を示してくれています。30年ほどまえ、至文堂版「日本の美術」の1冊として、小林忠さんから『北斎と葛飾派』を依頼されたとき、北斎にはモチーフを上へ上へと引き伸ばしていこうとする、もって生まれた独自の形態感覚があったという妄想と暴走を書いたんです。

これを「伸暢感覚」と名づけたのですが、グレートウェーブをはじめ、北斎風景版画の独特なフォルムに関する諸問題が、これを補助線に使えばたちどころに解決しちゃうんです。奥田さんはさらに僕の思いつかなかった花鳥画や妖怪絵まで、つまり風景版画以外にも発展させて、次のように指摘しています。

2024年8月12日月曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」3


事実、展示されていた「日本銀行 改刷のお知らせ」というポスターをみると、メインイメージに選ばれたのはグレートウェーブで、東京駅は月にぼんやりと浮かんだ月宮殿(!?)と、浪のかなたの蜃気楼として使われているだけです。

 「僕の一点」はもちろんグレートウェーブ、すみだ北斎美術館が誇る初摺り――空に薄い茜色の雲がはっきりと見える初摺りのゼッピンが劈頭を飾ります。世界でもっとも多くの人が知っている名画は、グレートウェーブと「モナ・リザ」だそうですが、どうしてこんな傑作が葛飾北斎という一人の浮世絵師により、19世紀、極東の江戸で創り出されたのでしょうか?

 その秘密は、チーフキューレーターをつとめた奥田敦子さんのカタログ巻頭論文「葛飾北斎『神奈川沖浪裏』の成立と影響について――その波はどこから来て、どこへ行くのか」が解き明かしてくれます。グレートウェーブからも影響を受けたにちがいない、ポール・ゴーガンの傑作をパクッたタイトルも洒落ています。 

2024年8月11日日曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」2

 

昨日掲げた開催趣旨は、この特別展カタログから「ごあいさつ」の一部を引用したものです。そこにあるように、本展は「新1000円札グレートウェーブ採用記念特別展」だといっても過言ではありません。

しかし独断と偏見をいえば、「グレートウェーブ」は当然10000円札の図柄にするべきだったと思います。10000円札の裏面は東京駅で、これも辰野金吾の名建築だとは思いますが、これからの日本が頼るべきインバウンド効果の点では、絶対グレートウェーブでしょう。

10000円札の裏面が東京駅になったのは、美術ヒエラルキーの頂点に建築を位置づける西欧的観念によるところかもしれませんが、去年グレートウェーブがニューヨーク・クリスティーズにおいて36千万円で落札されたそうですから、「日本資本主義の父」とたたえられる渋沢栄一と一番相性がよいということになります( ´艸`) 

2024年8月10日土曜日

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト」1

すみだ北斎美術館「北斎グレートウェーブ・インパクト 神奈川沖浪裏の誕生と軌跡」<825日まで>

 今もっとも人気のある浮世絵師が葛飾北斎です。これまで日本で、いや世界で、無数の「葛飾北斎展」「北斎冨嶽三十六景展」「北斎肉筆展」が開かれてきました。しかし「冨嶽三十六景」シリーズの「神奈川沖浪裏=グレートウェーブ」ただ一点に的を絞った特別展は、空前にして絶後です。

いや「グレートウェーブ」の圧倒的人気を考えると、絶後とはいえないかもしれませんが、本展を凌駕するようなキューレーションはきわめて難しいでしょう。本展開催の趣旨はつぎのとおりです。

202473日、20年ぶりに新紙幣が発行されます。そのうち千円札の裏面に北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が図柄として採用されます。本展は新紙幣採用を記念して、「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」がどのような背景で誕生したか、またその図柄がさまざまに利用されてきた軌跡をたどり、海外で「グレートウェーブ」の通称で親しまれる影響、広がりを紹介します。

2024年8月9日金曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」7

 

全体をながめると、大きな花から3本の茎が伸びて花をつけているように見えますが、そうではなく、葛飾北斎の花鳥版画を代表する「芥子」のように、大きな花の向こう側に3本が伸びてきているのだと考えれば、モンゴルのキクとみてよいかもしれません。

しかし、八重と一重という点が決定的に違っています。ネット画像による限り、モンゴルに八重のキクはないようです。仕方がないので、「コパイロット」に写真を貼り付けて訊いてみました。答えは「セリ科の植物であろう」とのことでした。今はやりの生成AIにより、出光美術館所蔵「白地緑彩草花文長頸瓶」に描かれたモチーフが遂に判明せり( ´艸`) セリといえば、以前「朝日歌壇」に載った高井勝巳さんという方の忘れがたき一首がありました。

  田に水の満ちゐし夕べ芹の香と蛙の声をあてに呑む酒

2024年8月8日木曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」6

 


主任学芸員・福留大輔さんが中心になって編集したカタログ解説によると、近代の日本ではこの長頸瓶に描かれる植物を葱の花に見立て、親しみを込めて「葱坊主ねぎぼうず」と呼び愛玩したそうです。三上次男先生も葱科の植物であろうとされています。

しかし、子供のころの思い出に残っている葱坊主とはかなり違っているので、ネット画像に「モンゴル 草花」と入れて検索をかけてみました。その結果一番近かったのは、黄色いキクでした。

それはブログ「還暦からのネイチャーフォト」<モンゴル砂漠旅植物編>に「ミズギクに似た花 ウランバートル郊外に多かった」としてアップされています。とくに長頸瓶正面の一番高く伸びた1本は、そのツボミによく似ているように感じられました。

2024年8月7日水曜日

古原宏伸先生を偲ぶ6

 

僕はお祝いの言葉とともに、2019年冬、中国美術学院で開かれた国際フォーラム「歴史と絵画」についてレポートした「饒舌館長ブログ」のハードコピーをお送りしました。先生の大著を翻訳出版したのと同じ中国美術学院で開かれた、忘れられない国際フォーラムだったからです。

ハードコピーは結構な枚数になりましたから、朋子さんにとってはご迷惑だったにちがいありませんが、先生が親しくされたジェームズ・ケーヒル先生も登場するそのエントリー記事を、お送りせずにはいられなかったのです。

さらに朋子さんからのお手紙は、古原先生の遺された多くの手沢本が、韓国学中央研究院図書館に寄贈され、先生のお名前を付した特別コーナーが設置されたことも教えてくれました。しかもこれは、先生が台湾大学大学院で指導した韓国の学生の手を通して実現したとのこと、これまた天上にて、先生は大きな喜びに包まれていらっしゃることでしょう。


2024年8月6日火曜日

古原宏伸先生を偲ぶ5

 

その後は年賀状の交換だけになっていましたが、2009年古原先生は研究の集大成となる大著『米芾「画史」註解』を上梓されました。北宋を代表する書家にして画家であった米芾の『画史』はきわめて難解、それまで誰も全巻の注釈や訳読などチャレンジしていなかったのです。この大著には翌年第22回「國華賞」が贈られましたが、当然のことでした。國華主幹を預かっていた僕も、心をこめて祝辞を捧げたのでした。

先日、古原先生のお嬢様である朋子さんから鄭重なるお手紙をいただきました。『米芾「画史」註解』が、このたび中国美術学院から『米芾画史校箋』と題し、中国語に翻訳されて出版されたという、うれしいニュースのお知らせでした。朋子さんをはじめご遺族の深い感動に触れ、僕も胸が一杯になりました。天上の古原先生も、どんなにかお喜びになっていらっしゃることでしょう。

2024年8月5日月曜日

古原宏伸先生を偲ぶ4

 

すると先生は、二つのセンテンスだけ暗記しておけば、まったく心配無用である、一つは「トゥオシャオチェン」で、もう一つは「タイクゥイラ」だと教えてくださいました。中国旅行で必要なのは「トゥオシャオチェン」と「タイクゥイラ」のたった二つだけだというのです。

どういう意味ですかと尋ねると、「トゥオシャオチェン」は「値段はいくら?」という意味で、相手がなにか答えたら、分からなくてもすかさず「タイクゥイラ」――つまり「高すぎる!」と言い返せばよろしいとおっしゃるのです。そして僕の手帳に、「多少銭?」と「太貴了!」と漢字で書いてくださいました。

超真面目人間だと思っていた古原先生が、意外や意外、ユーモアを内に秘め諧謔を愛されることを知って、失礼ながらいよいよ親愛の情が深まったのでした。

2024年8月4日日曜日

古原宏伸先生を偲ぶ3

 

ちょうどその日、国際交流基金ジャパンファンデーションの招待旅行でハイデルベルクに到着した不言堂・坂本五郎さんの歓迎と、これまたちょうどその日40歳になった僕の誕生日を祝して、先生が準備してくださったのです。

こちらに着いてから10日間ほどのドイツ料理で、重くなっていた胃袋をやさしく癒してくれた日本食と、惑いの少なくない不惑を異国の地で迎えた僕を元気づけてくれた♪ハッピー・バースデー♪!! それをお膳立てしてくださった、古原先生の温かい思いやりが改めて思い出されるのです。

その前後のことです。大学食堂メンザで一緒にランチをとったとき、僕が一度中国を旅行してみたいと思っているけれども、中国会話が全然できないので踏ん切りがつかないんですと、先生に申し上げたことがありました。

2024年8月3日土曜日

古原宏伸先生を偲ぶ2

 

その2年ほど前、東京国立文化財研究所につとめ出していた僕は、早速書架に『画論』収めましたが、その後どれほど本書のお世話になったことでしょうか。

それから10年後の昭和58(1983)、先生ととても親しくさせていただく機会がやってきました。この年先生は、西ドイツ・ハイデルベルク大学のゲスト・プロフェッサーをつとめていらっしゃいましたが、僕も夏休みを利用して、エルウィン・フォン・ベルツ博士日本絵画コレクションの悉皆調査に、ハイデルベルク大学へおもむいたからです。先生も僕もローター・レダローゼ先生からのお招きでした。

今その時の旅日記を、書架から引っ張り出してきたところです。古原先生とはほとんど毎日のように大学研究所などでお会いしていましたが、とくに忘れられないのは720日、先生がご自分の宿舎で開いてくださった日本食パーティです。

2024年8月2日金曜日

古原宏伸先生を偲ぶ1


  尊敬してやまない中国絵画史研究者の古原宏伸先生が、202082日、91歳でお亡くなりになってから早くも4年が経ちました。先生とはじめてお会いしたのは昭和40年春、60年前のことです。僕が駒場から本郷に進学してしばらくしたある日、研究室に古原先生がいらっしゃったのです。先生は京大から東大の東洋文化研究所へ国内留学され、米澤嘉圃先生のもとで研究を続けていらっしゃいました。

すでに大人の風格があり、美術史をかじり始めたばかりの僕からは、別世界に住む研究者のように思われました。しかもそのころ僕は、西洋美術史をやろうと思っていたので、とくにお付き合いすることも、教えを乞うこともありませんでした。

昭和48(1973)先生は「<明徳出版社>中国古典新書」の1冊として『画論』を出版されました。224ページのうちに中国画論のエッセンスをさらに凝縮させた名著です。

2024年8月1日木曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」5

 

線刻+緑釉というのが黄瀬戸と基本的に同じだ――そう直感されたのです。影響関係があったかどうかは分かりませんでしたが、よく似ていることは疑いありません。その図版解説をお書きになったのは、編集担当の三上次男先生です。東部内モンゴルでの体験を〆にされた解説も実にすばらしく、感動的美しさに2度も訪ねた内モンゴル希拉穆仁シラムレンの風景を思い出しながら、早速使わせてもらうことにしたんです。

しかし『世界陶磁全集』13には、所蔵者が書いてありませんでした。実際に見てみたいなぁと憧れ続けて23年――ついに邂逅のチャンスに恵まれたんです。しかもお手伝いしている出光美術館で開かれた「出光美術館の軌跡 ここから、さきへⅢ 日本・東洋陶磁の精華――コレクションの深まり」の内覧会においてですよ!! その瞬間残りの陳列を見ることなく、「僕の一点」はこれだ!!と決めたのでした。