2023年6月30日金曜日

中央区立郷土資料館「最近話題の江戸絵画 饒舌館長ベストテン」

 現在、中央区立郷土資料館(本の森ちゅうおう2階)で「本の森美術館名画展2023『読む絵画展 明治座の名画から深まる日本のハレ』」<7月2日まで>が開かれています。明日7月1日(土)午後1時から、饒舌館長が「最近話題の江戸絵画 饒舌館長ベストテン」という口演をやることになりました。もう締切は過ぎていますが、受付で「饒舌館長ブログを見た」と言えば、入場できることになっています。ただし、20名までのようです。いつもの饒舌だろうなんて言わずにぜひご来駕のほどをーー何しろ無料なんですから(笑)
 

出光美術館「琳派のやきもの」4

 

この竹田画に焦点をしぼりながら、担当キューレーターの廣海伸彦さんが、「文人画家に愛された兄弟」というコラムを本展カタログに執筆しています。そこには僕の拙論も、参考文献としてあげられているじゃ~ありませんか!!

僕は廣海さんからいろいろなことを教えてもらいながら、僕の試論が正しかったことを確信したのでした。詳細は廣海さんのコラムをお読みいただくことにして、ここでは「乾山作陶図」に加えられた竹田の長い七言詩を紹介させてもらうことにしましょう。もちろんマイ戯訳での紹介となりますが、天下の竹田が乾山は文人なりとお墨付きを与えてくれているわけですから、もうヤッターといった感じです!!



2023年6月29日木曜日

出光美術館「琳派のやきもの」3


会場に足を踏み入れると、田能村竹田の「乾山作陶図」が出ているじゃ~ありませんか。文化14年(1817)、竹田41歳のときの掛幅画です。もちろんこの年のことでしょう、竹田は乾山作の「獅子香炉」を手に入れたのです。感激のあまり、竹田はものすごく長い七言詩を詠みました。そして楽しそうに作陶する乾山の像を描き、その上に賛として加えたのです。『大分県先哲叢書』に収められる「竹田遺稿」では、「乾山翁造る獅炉を得て喜びて作る」と題されています。

これについては、相見香雨先生に「乾山獅子香炉と竹田」というすぐれた論文があり、『相見香雨集』1(青裳堂 1985)にも収められています。ところが、拙論を書いたときは完全に忘れていて、その後あるエッセーを書くとき『相見香雨集』を紐解いて「シマッタ」と思いましたが、もう後の祭りでした。

2023年6月28日水曜日

出光美術館「琳派のやきもの」2

モチーフは尾形乾山ですが、文人画の性格といった点に重心がかかっていたので、『琳派 響きあう美』ではなく、『文人画 往還する美』の方に収めました。ブッチャケをいえば、前者には間に合わなかったんです() 

 それはともかく、いつもの独断と偏見ばかりで忸怩たるものがありました。何といっても『國華』ですから、結構ていねいに論じたつもりですが、実証性は薄弱でした。ところがこの出光美術館特別展「琳派のやきもの 響きあう陶画の美」が、拙論「乾山文人画試論」の正しさを実証してくれることになったんです!!

2023年6月27日火曜日

出光美術館「琳派のやきもの」1

 

出光美術館「尾形乾山生誕360年 琳派のやきもの 響きあう陶画の美」<723日まで>

 10年ほど前「乾山文人画試論」という拙文を『國華』1419号に寄稿したことがあります。一般的に琳派の芸術家とされる尾形乾山は、むしろ文人画の芸術家であったことを証明しようとしたものでした。もちろん乾山にこのような傾向があることはすでに指摘されていましたが、これを僕なりに整理してみようと思ったんです。

まず乾山の禁欲的性格が、広い意味で文人的志向と結びつきやすいものであったとして、これをイントロダクションとしました。つぎに僕は3点の代表的な乾山水墨画を取り上げ、広義狭義いずれにおいても文人画の定義に齟齬しないことを指摘しました。その画風が理念的観点から、文人画と見なしてよいことも付け加えました。それらの根底をなすのは、乾山が文人であった事実にほかならない――これをもって結論としました。


2023年6月26日月曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」13

それは今すごい人気を誇る川瀬巴水とはチョット毛色のちがう、風景新版画になったのではないでしょうか。「あめあがり、ヤップ島」をはじめ、背景の風景にとても魅力的な数点があったからです。しかしこれは毎度お馴染み、饒舌館長のナイモノネダリというヤツかな()

 ジャクレーは浮世絵芸術社版『浮世絵芸術』19346月号に、「浮世絵に関する感想」というエッセーを寄せているそうです。またこの号には、僕が浮世絵史を教えていただいた楢崎宗重先生がジャクレーの作品を紹介し推薦しているそうです。

 ヤジ「そうです――ということは、まだ読んでいないんだな!!

 

2023年6月25日日曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」12

これを見ているうちに、今年の鹿島美術財団優秀賞を受賞した江戸東京博物館・春木晶子さんの「蠣崎波響筆《夷酋列像》の研究」が思い出されてきました。先日その発表が行なわれたとき、コメンテーターの役をやらせてもらったので、蠣崎波響筆《夷酋列像》のイメージが脳裏にはっきりと残っていたからです。僕のみるところ、アイヌに対する眼差しがかなり異なっているようです。両者を比較してみるのも、きっとおもしろいことでしょう。

「アイヌの古老、北海道近文ちかぶみ」に象徴されるように、ジャクレーはもっぱら人間に興味があったようです。しかし、同じ手法で風景版画にチャレンジすれば、これまたすばらしい作品が生まれたにちがいないと思いつつ、僕は会場を巡っていました。

 

2023年6月24日土曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」11


もう究極のジャポニスムと呼ばざるを得ないじゃ~ありませんか。あるいはジャポニザンではなく、コスモポリタンといった方がよいかもしれませんが……。そのうち「ポール・ジャクレー ジャポニスム私論」を書きたいなぁと思い初めているところです。

「僕の一点」は「アイヌの古老、北海道近文ちかぶみ」ですね。ジャポニスムやエキゾチシズムを超越しているからです。ジャクレーは究極のジャポニスムだといいながら、それを超越しているなどといえば自家撞着ですが……()

ジャクレーは浮世絵師のなかでもっとも喜多川歌麿に惹かれたようです。しかし「僕の一点」をみると、東洲斎写楽からも強いインスピレーションを受けているように思われます。

 

2023年6月23日金曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」10

彫師たちは私自身よりも偉大な芸術家であり、画家と同じように、技術の伝統を受け継いだ家系の出身である。……多色木版画は音楽のようなものだ。画家、彫師、摺師の間のハーモニーがなければ、すばらしい絵を作り出すことができない。

僕がジャクレーを究極のジャポニスムというのは、以上の意味なんです。箇条書きにすれば、①日本を含めた外国に強いあこがれをもっていた、②実際に日本で創作しそこで一生を終えた、③浮世絵の伝統的な彫り、摺りの技法を直接的に摂取したという3か条になります。

 

2023年6月22日木曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」9

しかしジャクレーは日本に止まり創作を続けました。日本が好きでたまらなかったんです。モネもドガもゴッホも、フランスから日本をあこがれただけであって、日本へやって来たわけじゃ~ありませんでした() ジャクレーは単なるあこがれを越えていたといってもよいでしょう。筋金入りのジャポニザンになっていたんです。

またジャクレーは、彫師や摺師の仕事を大変高く評価し、みずからの作品に彫師・前田謙太郎や摺師・藤井周之助などの名前を刷り込みました。そして次のように述べているんです。

昨日をもって、静嘉堂文庫・静嘉堂文庫美術館を退職いたしました。これからは「河野元昭の酒場放浪記」をやろうかな( ´艸`) 「麻雀放浪記」も悪くないかな(⁉) 肩書はかつて使ったことがある「美術史家」を復活させようかな。しかし「饒舌館長ブログ」はそのまま使い続けようかな。静嘉堂文庫美術館は館長じゃ~なくなりましたが、秋田県立近代美術館は名誉館長ですので、「饒舌名誉館長ブログ」ーー略して「饒舌館長ブログ」とするというイクスキューズは許されるかな。「饒舌館長」を名乗ってから10年以上、もう分かちがたく本人と結びついちゃっている感じだし( ´艸`) というわけで、これからも「饒舌館長ブログ」をよろしくお願い申し上げます。

 

2023年6月21日水曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」8

多くのジャポニザンが我が国へやってきましたが、日本へ骨を埋めた人はけっして多くありません。ジャクレーが3歳のときお母さんと一緒に日本へやってきたのは、お父さんが東京高等商業学校と、その付属外国語学校のフランス語教官になったという偶然の賜物でした。ジャクレーみずからの意思で日本へやってきたわけではありませんでしたが、やがて日本が大好きになっていったんです。

太平洋戦争が起こると、外国人であるジャクレーは憲兵に監視され、不自由な生活を強いられました。1945年、自分にけっしてやさしくはなかった日本が連合軍に敗北を喫したとき、フランスに帰ろうとすれば容易にそうすることができたでしょう。

 

2023年6月20日火曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」7

 

かつて「饒舌館長」にアップしたことがあるようにも思いますが、この考えはいまも変わっていません。もしもそうだとすると、ポール・ジャクレーもジャポニスムの画家だったことになります。彼には最初から最後まで、日本に対する強いあこがれ――異国趣味がありました。

日本だけじゃ~ありません。あこがれたのはミクロネシアの島々であり、朝鮮であり、中国でした。ポール・ジャクレーにとって、すべて外国であり、異国でした。それはエキゾチシズムでした。しかも彼は日本へやって来て、そこで生活し、そこで没したんです。日本だけではなく、ミクロネシアや朝鮮にも住みました。それらは理想の土地であるとともに、生活した土地でした。


2023年6月19日月曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」6

実は僕も「ジャポニスムの起因と原動力」という拙文を書いたことがあるんです。監修者の小林忠さんから求められて、『秘蔵日本美術大観3 大英博物館Ⅲ』(講談社 1993年)のためにまとめたものです。僕の独断と偏見は、ジャポニスムといっても結局それは異国趣味であったというものでした。

つまり先の④は日本美術の本質的理解、さらに限定していえば浮世絵の本質的理解ということになりますが、その根底にはジャポネズリーと同じエキゾチシズムがあったんだと思います。④の場合も、外国の風物をあこがれ好む趣向があり、外国の人物事象を描いて芸術的効果を高めようとするベクトルがあったんです。これを無視してジャポニスムを考察することは、やはり間違いだろうと主張したのです。

 

2023年6月18日日曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」5

 

4つのカテゴリーとは、①折衷主義のレパートリーの中に日本のモチーフを導入すること、②日本のエキゾティックで自然主義的なモティーフを好んで模倣したもの、③日本の洗練された技法の模倣、④日本の美術に見られる原理と方法の分析とその応用です。

ラカンブルはこれをフランスにみられる現象で、①②のジャポネズリーから③④のジャポニスムへ段階的に発展したものとしているようです。馬渕さんはジャポニスムにジャポネズリーも含め、これをフランスだけでなく西欧全般に広げて考えることが可能だとしていますが、おおむね①②から③④へ段階的に発展したことは認めているようです。


2023年6月17日土曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」4

『ジャポニスム 幻想の日本』(ブリュッケ 1997年)を著わした馬渕明子さんは、ジャポニスム研究に先鞭をつけたフランスの美術史研究者ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルの定義にならって、ジャポニスムを4つのカテゴリーに分類しています。

僕が『日本の美術367 北斎と葛飾派』(至文堂 1996年)を書いたとき、馬渕さんにお願いして「葛飾北斎とジャポニスム」という論文を巻末に寄稿してもらいました。もちろんこのすばらしい論文も、『ジャポニスム 幻想の日本』に収められています。あとがきには僕への謝辞も捧げられています(!?)

 

2023年6月16日金曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」3

今回その淡交社版カタログ・ブックを引っ張りでしてくると、「黒い蓮華、中国」にポストイットが貼ってあるじゃ~ありませんか。まるで白旗みたいに()

 ポール・ジャクレーとは究極のジャポニスムである――これが饒舌館長の独断と偏見ですね。言うまでもなく、「ジャポニスム」とは19世紀後半にヨーロッパやアメリカの美術に与えた日本美術の影響を一まとめにしていう美術用語です。

相似た言葉に「ジャポネズリー」がありますが、これと区別する場合と、これを含めてジャポニスムという場合があるようです。いずれにしろ、20世紀の日本で活躍したジャクレーが、ジャポニスムであるはずはそもそもないんですが……()

 

2023年6月15日木曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」2

 はじめて僕がポール・ジャクレーの作品に触れたのは、ちょうど20年まえ横浜美術館で開催された「ポール・ジャクレー展 虹色の夢をつむいだフランス人浮世絵師」でした。こんなおもしろいフランス人の画家がいたのかという驚きとともに、そのシンプリシティーにとても心惹かれる美がありました。というわけで、翌年の年賀状に「黒い蓮華、中国」をパクってやろうと、その会場で思いついたんです。

しかしやってみるとむずかしく、結局その年のサバティカルを利用してはじめて訪ね、さすがにすごいなぁと感じ入ったストーン・ヘンジに変えてしまったのですが……。

 

2023年6月14日水曜日

太田記念美術館「ポール・ジャクレー」1

 


太田記念美術館「ポール・ジャクレー フランス人が挑んだ新版画」<726日まで>

 ポール・ジャクレー? 知ってる人は知ってるし、知らない人は知らないフラン人浮世絵師です() まずはチラシの一部を引いておくことにしましょう。

フランス・パリに生まれたポール・ジャクレー(18961960)は、3歳の時に来日し、64歳で亡くなるまで日本で暮らしました。昭和9年(1934)、38歳の頃から、南洋やアジアで暮らす人々を描いた木版画を続々と刊行します。昭和前期は、絵師、彫師、摺師の共同作業による「新版画」が盛んとなった時期でしたが、さまざまな国の老若男女が暮らす姿を鮮やかな色彩で描いたジャクレーの作品は、当時の新版画の中でも異彩を放っています。本展覧会では、ジャクレーが挑んだ新版画の全貌をご紹介いたします。

2023年6月13日火曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞8

 

「寒食」という盛唐の詩人・孟雲卿もううんけいのすばらしい七言絶句を、渡部英喜氏の『漢詩歳時記』(新潮選書)が思い起こさせてくれるが、もちろんここにも介子推が登場する。よく人口に膾炙した逸話であったのだろう。

この介子推については、『諸橋大漢和辞典』だけだと専門家以外チョットむずかしいかなとも感じられましたので、初稿の段階で『漢詩歳時記』から渡辺英喜さんの説明を加筆しました。しかし『諸橋大漢和辞典』がなければ、拙文をこんな風にうまくまとめることはとてもできなかったでしょう。『諸橋大漢和辞典』を引用することによって、僕のニューアイディアに、いや、いつもの妄想と暴走に諸橋轍次博士のお墨付きを頂戴することができたんです()


2023年6月12日月曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞7

 

我が国のおせち料理は寒食の伝統を引くという説もあるそうだが、ここで重要なのは介子推の伝説である。

この記述だけではよく分からないので、さらに「介子推」を見れば、「春秋、晋の人。又、介之推に作る。……晋の文公に従って出亡すること十九年、還るに及んで文公に疎んぜられ、遂に其の母と緜山めんざんに隠棲した。公は之を索し求めたが得ることが出来ず、之を出そうとして山を焚いたが、竟に出でないで焚死した。故に、緜山を一に介山という」と書かれている。


2023年6月11日日曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞6

 

私がこのように考える理由はもう一つある。この墓誌銘がちょうど百五字になっていることである。『諸橋大漢和辞典』に「百五」を求めれば、「春三月の寒食の節。冬至の後一百五日に当るからいう」とある。

また「寒食」を引けば、「此の日は疾風甚雨のある節として、前後三日間、火を焚くを禁じ、予め調え置いた食物を食し、大麦粥を作り、闘鶏・鞦韆等の遊戯を行う。……伝え言う、晋の文公、林を焚いて介子推を求め、子推が木を抱いて死するを見て、之を哀しむ余り、国人の火を挙げるのを禁じたので、後世之に因って寒色の俗を生ずと」とある。


2023年6月10日土曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞5

 

 先に「先日紹介した拙稿『識字陶工木米と竹田・山陽・雲華・小竹』もチャッカリ忍び込ませました」と書きました。これはサントリー美術館で開催された特別展『木米』のカタログに寄せた巻頭エッセーです。今回とくにこれを取り上げたのは、『諸橋大漢和辞典』を引用させてもらった多くの拙文のうちで、一番新しい、直近のものだったからです。

木米がなくなったとき、親しかった篠崎小竹が墓碑銘を草しましたが、その字数は105字でした。105といえばすぐに思い出されるのは、中国の古い年中行事ともいうべき寒食ですから、早速僕は『諸橋大漢和辞典』を引いて、つぎのように書いたのです。


2023年6月9日金曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞4

 


 諸橋轍次博士の詩は、真面目なお人柄そのものです。漢詩集『止軒詩艸』には、つぎのお屠蘇を詠んだ「庚戌元旦」を除いて、賛酒詩を見出すことができないようです。ましてや閨怨詩や艶詩などは……()

  暦 変われば新年だ!! 曙あけぼのの色 清々し

  眼まなこを照らす窓の梅 屠蘇の盃 影 映す

  今年も一つ年を取る――なんどと君よ言うなかれ!!

  老化も止まって蘇よみがえる 逆に赤子の純心が……

2023年6月8日木曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞3

 

諸橋轍次博士における学問の原点は、生地である新潟県の下田村しただむら(現在の三条市)にありました。それは66歳のとき詠んだ「郷思」に象徴されています。その戯訳を講演で披露したかったのですが、時間がなかったので……。

 新潟よいとこどの県も 肩を並べること出来ず

 四季折々に花と月 競うがごとき美しさ

 五十嵐川の清流は 老松の影 浮かべてる

 緑にかすむ八木ヶ鼻 水面みなもに影を落としてる

 奥畑先生この地にて 教えてくれた人の道

 その後 亡父も同地にて 老荘の学 修めたり

 東京生活 長すぎた 帰りたいなぁ故郷ふるさと!!

 それを夢みて陶淵明 みたいないい詩を詠みたいな


2023年6月7日水曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞2

館長さんをはじめ、ご迷惑をおかけした皆様方には改めてお詫びする次第でございます。

講演では『大漢和辞典』のほか、とくに心を動かされる諸橋博士の著作『遊支雑筆』と『対談 東洋の心』、それから漢詩集『止軒詩艸』を取り上げました。さらに博士の三男で、三菱商事の社長・会長をつとめた晋六さんの私家版『不将不逆』をトピックの一つとし、静嘉堂@丸の内の案内も加えました。

先日紹介した拙稿「識字陶工木米と竹田・山陽・雲華・小竹」もチャッカリ忍び込ませました() お陰で何とかリモート講演だけは果たすことができましたが、やはり本調子じゃ~なく、普通なら終了後あるべきプレミアム・モルツからの誘惑が、まったく感じられないのでした()

 

2023年6月6日火曜日

諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞1

 

諸橋轍次記念館特別講演会「諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞」

 今年はかの『大漢和辞典』を完成させた偉大な漢学者にして、何度も「饒舌館長」に登場していただいている諸橋轍次博士が誕生してから、ちょうど140年の節目の年に当たっています。その誕生日である64日に、生誕の地・新潟県三条市にある諸橋轍次記念館で、「諸橋轍次博士から受けた学恩感謝の辞」と題し、講演を行なう予定になっていました。

諸橋博士が35年間おつとめになった静嘉堂文庫長のあとを継ぐものとして――というよりも、博士を尊敬して止まない一学徒としてこの機会にオマージュを捧げたいと思い、けっこう早くから準備をしてきました。

しかし先々週ゼッ不調に陥ったあと、体調が思うように回復せず、急遽金曜日に嘉代館長にお願いして、リモート講演に変えていただくことにしました。


2023年6月5日月曜日

『國華』池大雅特輯号18

 

 この七絶は万暦25年(1597)、董其昌が燕山(北京?)ではじめて霜の景と雲煙の景との違いを悟ったときに詠んだ詩のようです。意味はよく分かりませんが、このように8首のタイトルが判明すると、おもしろいことに気がつきます。つまり、すべて画と関係の深い詩が選ばれているわけです。詩と画の結びつきは、想像以上に強かったんです。

今回の戯訳はチョット苦労しましたし、間違いもあると思いますが、そのうちチャットGPTに「池大雅筆『東山清音帖』に引用された漢詩の戯訳を作ってください」とお願いすると、ソク模範解答が出てくるようになるのかな()

 


2023年6月4日日曜日

『國華』池大雅特輯号17

江天暮雪

 (董其昌「画家霜景与烟景淆乱 余未有以易也 丁酉冬燕山道上乃始悟之題詩駅楼云」)

  夜明けの角笛つのぶえ流れてく 柳の堤に寒々と

  広がる林は真っ白で 枝垂しだれる枝もまばらなり

  そこをトボトボ旅の人 かの邯鄲かんたんには行き着けぬ

  霞かすみと霜のせいだろう 誰でも迷ってしまうはず

 

2023年6月3日土曜日

『國華』池大雅特輯号16

平沙落雁(党懐英「漁村詩話図」)

  水辺の村の暁は 画の最高のモチーフだ

  詩歌の抒情を画のなかに 盛り込むことができるから

  漁夫ひとりでに醒めたけど またひとりでに酔っている

  自分自身が画のなかに いることさえも知らぬげに……

 この詩は「中華詩詞網」にみつからず、五山詩アンソロジー『錦嚢風月』に「漁村詩話図」として載っていることが判りました。これまたネットのお陰です。

 体調不良のため1週間休ませてもらいましたが、今日から再開いたします。よろしくお願い申し上げます。