器形は龍首壷、万年壷や盤、盌などのほか、さまざまな姿態の男女の人物像、神像、鎮墓獣(魌頭きとう)、馬、駱駝らくだなど各種の明器めいきで、唐代貴族の趣味、生活の様相をよくあらわしており、また当時流行した西アジア風の意匠や服飾がしばしばみられる。およそ則天武后の頃から出現し、厚葬の風習の高まりとともに大いに流行したが、安禄山の乱ののちは作られなくなった。しかしその影響によって渤海ぼっかい三彩、遼三彩、宋三彩や、日本の奈良三彩などが生まれ、ペルシアの三彩にもその影響が見られるとする説がある。
器形は龍首壷、万年壷や盤、盌などのほか、さまざまな姿態の男女の人物像、神像、鎮墓獣(魌頭きとう)、馬、駱駝らくだなど各種の明器めいきで、唐代貴族の趣味、生活の様相をよくあらわしており、また当時流行した西アジア風の意匠や服飾がしばしばみられる。およそ則天武后の頃から出現し、厚葬の風習の高まりとともに大いに流行したが、安禄山の乱ののちは作られなくなった。しかしその影響によって渤海ぼっかい三彩、遼三彩、宋三彩や、日本の奈良三彩などが生まれ、ペルシアの三彩にもその影響が見られるとする説がある。
唐三彩――饒舌館長がもっとも好きな陶器の一つです。好きといっても専門じゃ~ないので、若いころチョット編集をお手伝いし、今も愛用している『新潮世界美術辞典』(1985年)から、「唐三彩」の項を引用しておきましょう。『新潮世界美術辞典』は無署名なので、どなたの執筆か分からないのですが……。
中国、唐代の三彩。主として長安・洛陽の貴族たちの葬礼のために作られ、墓陵に副葬された。陶質の素地に化粧掛けした上に、緑・褐・黄・白の鉛釉えんゆうで鮮やかに彩り、またコバルトの藍釉らんゆうを加えたものもある。
応挙筆「睡猫図」に加えられた国井応陽の紙中極め「祖応挙翁之真蹟 保可以 無疑矣」について、二人の方からご意見が寄せられました。一つは「疑い無きを以て保つべきなり」と読むべきだろうという佐藤康宏さんからのメッセージです。趣旨は僕の第一案「保つべし 以て疑い無し」と似ていますが、グッとなめらかな読み下しになっています。
もう一つは、かつて中村賞でお世話になり、お名前もアップしたことがある中村まり子さんからで、「保可以」を中国語風に読むものです。「保パオ」は保証の意味にとり、「可以」はそのまま中国語の「可以カーイー」、つまりOKとするもので、合わせて「保証することができる」となります。
何と愉快じゃ~ありませんか!! これぞ漢字のおもしろさです!! 読み下し説、中国語説、万葉仮名説――正解がいくつあったって構いませんよ!! 僕が大学や大学院の入試で苦労した漢文のテストじゃ~ないんですから(笑)
その9年後、ロンギさんは”Forty-five Years in Asian Art”という豪華図録を私家版として出版されました。応挙の「睡猫図」がカラーで収められたことは、言うまでもありません。現在はラリー・エリソンという方のプライベート・コレクションになっているようですが、いつか『國華』にチャンと紹介したいなぁと思っています。
在正の「猫図」を応挙の原本と比べてみると、応挙はネコの柔らかさに、在正はそのフォルムにもっとも強い関心を向けているような感じがします。「美をつくし」展の会場でこの「猫図」にはじめて触れながら、饒舌館長は改めて原在正という画家に興味を掻き立てられたのでした。老躯に鞭打って調べ始めてみるかな(笑)
いずれにせよ出来栄えがとてもすぐれ、卒業論文で応挙を取り上げたときから、国井応陽の鑑定は間違いなきものと思ってきました。実際に見てみたいなぁとは思いましたが、戦前の図録『応挙名画譜』に載っているだけですから、まったくあきらめていました。
ところが2010年5月25日、ネコ好き館長積年の夢が実現したんです!! ニューヨークの有名なアート・ディーラーであるレイトン・ロンギさんが、これを持って國華社に現れたんです。図版から予想していたとおり、感動的なネコ絵でした。『応挙名画譜』のモノクロ・コロタイプ図版より、ずっと明るい感じの絵で、眠っているネコがより一層引き立って見えました。
もっとも、応挙の「眠猫図」には落款がなく、画面右下に「祖応挙翁之真蹟 保可以 無疑矣 応陽鑑」とあるだけです。つまり、近代の円山派画家・国井応陽が応挙の真蹟であるという鑑定を画面のなかに書き込んでいるんです。こういうのを「紙中極め」といいます。はじめ「保可以」を「保つべし 以って」と読んでいましたが、チョット不自然な感じがします。
「保可以」は「ほがい」と読んでことほぐことやいわうこと、漢字で書けば「寿い」「祝い」となりますが、この方がよいかもしれません。そうだとすれば、「ことほぐべきことに真蹟疑いなし!!」となりますが、これもチョットおかしいかな(笑)
しかし原在正は、これを写生によって仕上げたのではありませんでした。父の原在中が大きな影響を受けたという円山応挙のネコ絵をパクッたんです。恩賜京都博物館編『応挙名画譜』(1936年)という古い図録に、応挙の「眠猫図」がモノクロ・コロタイプで載っています。
それを見ると、ネコの恰好から模様までソックリですから、在正がこれをもとにして描いたことは疑いありません。応挙はネコの脇にユキノシタを添えていますが、在正はこれをレンゲ草に変えただけなんです。
去年『國華』1514号に、静嘉堂文庫美術館が所蔵する原在明筆「朝顔に双猫図」を紹介し、今年に入ってから「饒舌館長」にもアップしました。これも素晴らしいネコ絵ですが、兄の在正もこんなすぐれたネコ絵を描いているとなると、これは原派が得意とするモチーフ、一科の芸だったのかもしれません。お公家さんの四辻公説よつつじきんことが漢詩の賛を寄せていますので、またまた戯訳で……。
ネズミが稲の苗を食う ネコはソイツを追っ払う
無駄飯ばかりを食う人間 ネコに対して恥ずかしい!!
ネコ好き館長でもある饒舌館長が選ぶ「僕の一点」は、原在正の「猫図」ですね。1980年?に寄贈された田万清臣たまんきよおみ・明子あけこ夫妻コレクションの一点です。ちょっとハチワレ風のネコが、春の暖かな昼中、レンゲ草の咲くくさむらで気持ちよさそうに眠っています。その可愛らしさ、毛書きのすばらしさ、ネコ好きにはたまらない一幅です!!
画面右下に落款があって、原在正はらざいしょうの筆になる作品であることが分かります。在正は原派を開いた原在中の長男に生まれましたが、なぜか父の勘気に触れて別居させられ、数え年の33歳で亡くなってしまいました。原派は次男の在明が継ぐことになるのですが、在正には特異な才能が宿っていたように思われてなりません。
現在、美術館の建物は、戦前の大型美術館の貴重な例として登録有形文化財(建造物)に指定されていますが、2026年に開館90周年を迎えるのを前に大規模な改修工事が行われることになりました。この長期休館の機会に、各分野から厳選された優品をご紹介する展覧会を開催いたします。所蔵する大阪市立美術館においてもそろって展示されることが滅多にない名品を、館外で一堂にご覧いただける初めての展覧会です。
展覧会の「美をつくし」は、大阪市章にもかたどられる「澪標」になぞらえたものです。難波津の航路の安全のために設けられた標識「澪標」のように、美の限りをつくしたコレクションの世界へ、身をつくしてご案内いたします。
大阪市立美術館は、東京・京都に次ぐ日本で三番目の公立美術館として、昭和11年(1936)5月に開館しました。
多くの人々の支援によって築かれた約8500件のコレクションは、日本・中国の絵画、書蹟、彫刻、工芸など多岐にわたり、時代も紀元前から近代までと実に多彩です。また、関西を中心に活躍した財界人たちのコレクションをまとめて所蔵する点にも特徴があります。美術館の建つ天王寺区茶臼山の地も元は住友家本邸があった場所で、庭園(慶沢園)とともに大阪市に寄贈されました。
その大阪市立美術館が誇るコレクションから、さらにすぐれた作品を選び抜き、いまサントリー美術館で開催されているのが「美をつくし 大坂私立美術館コレクション」展です。キャッチコピーは「なにわのアートコレクション、紀元前から近代まで東京大集合」――はしょって「なにコレ」です❣❣❣
大阪を拠点に活躍した日本画家に、再興院展を中心としてすぐれた作品を発表した北野恒富がいます。その代表作「星」が表紙を飾る立派なカタログから、「ごあいさつ」を引用しておきましょう。
もっとも強く印象に残っているのは、昭和60年(1985)初夏開かれた「海を渡った日本の美 心遠館コレクション」展ですね。当時、学芸員をつとめていた畏友・脇坂淳さん、現在の隣華院住職・脇坂玄淳師が企画した特別展でした。
そのちょうど10年前、アメリカ・オクラホマ州バートレスヴィルにあるジョー・D・プライスさんの私邸・心遠館で拝見した、伊藤若冲を中心とするすぐれた江戸絵画コレクションがそのまま里帰りしたようなワクワクする特別展でした。
饒舌館長が名古屋から東京に移って、最初に触れた大規模な江戸絵画展であったことも、鮮やかな思い出となっている理由かもしれません。もっともそのころは、まだ饒舌でも、饒舌館長でもありませんでしたが(笑) 脇坂淳さんの趣味を反映しているにちがいない、洗練された表紙のカタログを書架から引っ張り出してきて、今ながめているところです。
サントリー美術館「美をつくし 大阪市立美術館コレクション」<11月13日まで>
大阪市立美術館――青空カラオケ・天王寺高等遊民・ワンカップ酒とともに思い出される美術館です(笑) かつてはその三者が、ほかの美術館には求めがたい独特の雰囲気を醸しだしていた南側の公園も、いつのころか鉄柵で囲われ、入園料が必要となり、したがって天王寺高等遊民はいなくなり、それとともにワンカップ酒も姿を消してしまいました。しかし青空カラオケだけは元気そのもの、鉄柵の外でずっと頑張っていましたが……。
天王寺駅からこの公園を通り抜けて、何様式というのでしょうか、堂々としていてしかも洒落ている建物の正面に立ったあと、15段ほどの階段を上って館内に足を踏み入れると、吹き抜けの壮麗なホワイエが出迎えてくれるのでした。ここで開催された日本や東洋の美術展から、いかに多くのことを学んだことでしょうか。
稲垣真美さんは、「全国に手造りを謳う酒蔵は少なくないが、『白糸』の田中家は、酒を搾るのも銀杏の木槽ふねに跳木はねぎという石の重しをつけたものを使う」と書いています。『日本の銘酒』の出版から40年経ちますが、今も続けられているのでしょうか?
グーグルマップで調べると、白糸酒造は糸島市でも芥屋ではないことが分かって、チョット残念でした。しかし「芥屋杜氏」とたたえられる杜氏がいるんです!! 芥屋杜氏――じつに響きの美しい名前じゃ~ありませんか!! きっと長い伝統を誇る杜氏なのでしょう。「田中六五」も銘酒にちがいありません。そのうちこの芥屋杜氏が醸した銘酒を試飲しようと思っていたら、仙厓の「芥屋大門画賛」がいよいよ素晴らしく見えてきたことでした(笑)
こんな絶景の地には、必ずうまい酒があるはずだと思ってネット検索をかけたところ、「芥屋杜氏が醸す酒 唯一残る<田中六五>」がヒットしました。「田中六五たなかろくじゅうご」は福岡県糸島市にある白糸酒造の8代蔵元・田中克典さんが創り出した純米酒だそうです。「吉田類の酒場放浪記」で見たことがあるような気もしますが……。
白糸酒造の「白糸」は、愛読する稲垣真美さんの『日本の銘酒』(新潮選書 1983年)にリストアップされている銘酒で、かつて僕も一杯やったことがあります。その本ではまだ「田中酒造場」となっていますが……。
仙厓「芥屋大門画賛」
芥屋けやの大門おおとを舟遊す ファースト・チョイスは岩の美だ
石柱 垂木たるきはみな光り 静寂――大門おおとを閉めたよう
阿修羅守護神 住み給う 聖なる岩屋にちがいない
舌なめらかに真言マントラを 唱えるために停めた舟
それにも関わらず、仙厓が「戯筆」と款記している点は、とてもおもしろいと思います。仙厓にとって、このような写生的描写は「戯筆」であり、例えばカタログの表紙になっている「指月布袋画賛」こそ「正筆」だったのでしょう。
その自賛を最後にマイ戯訳で紹介することにしますが、「仙厓のすべて」展には一巻の「書画巻(草稿)」が出品されています。文政年間から天保年間にわたる手控えで、そのなかに「芥屋大門けやのおおと画賛」の賛だけが書かれています。一、二字異なっていますが、その地で詠んだにちがいありません。おそらく別にスケッチがあって、仙厓はそれを座右に置きながら、「芥屋大門画賛」を完成させたのでしょう。
「僕の一点」は「芥屋大門けやのおおと画賛」ですね。芥屋は福岡県の北西、糸島半島の西側にある町です。そこに絶景として知られる玄武岩の海食洞――海流や波浪の侵食作用によってできた巨大な洞穴があります。芥屋けやの大門おおとと呼ばれ、観光人気スポットとなっているそうですが、饒舌館長はまだお訪ねしたことがありません。
仙厓はこの絶景に興味を引かれたらしく、一生懸命、写生的に描こうとしています。真景図だといってもいいでしょう。いわゆる禅画調の仙厓画に馴染んだ眼には、仙厓と見抜けないのではないでしょうか。
出光美術館「仙厓のすべて」<10月16日まで>
仙厓研究をライフワークにしてきた八波浩一さんが、その集大成として世に問う「仙厓のすべて」展です。4年前に拝見した「仙厓礼讃」は、「老後の達人」仙厓にスポットライトを当てて、じつに愉快な企画展に仕上げられていました。そのときも「○△□」を中心に、独断と偏見をアップしたように思います。
しかし今回の「仙厓のすべて」を見なければ、仙厓を語ることはできなくなるでしょう。「ごあいさつ」のなかに、「日本最大の質と量を有する出光美術館のコレクションでたどる仙厓展の決定版」とありますが、ウソじゃ~ありません。
つまり詩→画であって、画→詩ではなかったんだと思います。いずれにせよ、椿山は『御定佩文斎群芳譜』という、饒舌館長も持っていない漢籍を座右に備えていたんです。
ヤジ「天下の椿椿山とオマエを比べたりするんじゃない!!」
会場を一巡して、ソクこれを「僕の一点」に選びましたが、キャプションをみると、「桂一郎は和亭に強く引かれていたらしく、作家別で最多となる計8点の和亭作品を購入した」と書いてあるじゃ~ありませんか!! 久米桂一郎と饒舌館長の美意識と嗜好は、ズバリ一致するものだったんです(笑)
マイ戯訳では「凜とした艶」としましたが、もともとの詩は「冷艶」ですから、まず白菊がイメージされたにちがいなく、鬢に差す黄菊もなければ話になりません。服部嵐雪の「黄菊白菊その外の名はなくもがな」みたいな漢詩ですから、やはり今回は戯訳だけじゃ~、それこそ話になりません(笑)
冷艶 疎枝そし 素秋に擢ぬきんず
結びし茅ぼうに相対すれば清幽に転ず
摘み来り自みずから喜んで蓬髩ほうびんに簪かざす
只恐る黄菊 白頭を笑うを
椿椿山が思いのままに仕上げたあとで、『御定佩文斎群芳譜』を引っ張り出し、画にふさわしい申時行の詩を見つけ出したといった可能性は少ないのではないでしょうか?
この七言絶句は、瀧和亭がみずから詠んだものではありません。明時代の書家にして詩人であった申時行しんじこうという士大夫の詩で、『御定佩文斎群芳譜』に載っているのを、和亭がパクッたんです。今やネット検索をかけると、簡単にばれちゃうんです(笑) いや、この詩も師・椿椿山の「旧本」に着賛されていたにちがいありません。
改めて画面をよく見ると、白菊のなかに淡い黄色の菊が花を開かせています。菊を描こうと思い立った椿山は、『御定佩文斎群芳譜』で申時行の七言絶句を知って――あるいはすでに知っていたのかもしれませんが、それからインスピレーションを得てこの作品に取り掛かったのでしょう。
画面右上に款記があって、瀧和亭の先生であった椿椿山が北宋画家の筆意にならって描いた「旧本」を、臨模した作品であることがわかります。後期高齢者の身にしみるような七言絶句が一緒に書かれえていますから、お馴染みの戯訳で掲げておきましょう。
凛りんとした艶つや 枝まばら 秋の光に擢ぬきんでる
茅屋ぼうおくに座し眺めれば 俗なき幽趣に昇華する
摘んでモジャモジャした鬢びんに 簪かんざしみたいに差してみた
白髪頭しらがあたまをその黄菊 笑っているのか――恥ずかしや!!
白楽天「殷協律いんけいりつに寄す」
五歳優游同過日 君と過ごした歳月は 楽しき日々の五年間
一朝消散似浮雲 ある日 突然 浮雲の ごとくに雲散霧消せり
琴詩酒伴皆抛我 琴弾き詩を詠み酒酌んだ 友だちはみな去って行き
雪月花時最憶君 降る雪 照る月 咲く花に 誰より君を思い出す
幾度聴鶏歌白日 幾度も鶏鳴 聞きながら ともに歌った流行り歌
亦曾騎馬詠紅裙 騎乗の紅いスカートの 美人を見初めて詩に詠んだ
呉娘暮雨蕭蕭雨 呉の美妓 歌った「暮の雨 蕭々と降る」――江南で
自別江南更不聞 別れた後はこの曲を 一度も聞いておりません
しかしその主題「雪月花」自体は、やはり中国に誕生した美の寓意であり、文学的表現であり、宇宙的観念でした。それを初めて詩歌に昇華させた白楽天の七言律詩「殷協律いんけいりつに寄す」を、マイ戯訳とともに紹介しながらカタログ巻頭エッセーの筆を擱くことにしました。もっともカタログなので、もとの詩も一緒に載せましたが……。
ちなみにこの殷協律とは、中唐の詩人・殷尭藩のこと、かつてその絶唱「端午の日」を紹介したことがあるように思います。
これらのうちからさらに選りすぐり、静嘉堂@丸の内新ギャラリー開館を記念するために企画したのが、この「響きあう名宝――曜変・琳派のかがやき――」にほかならない。本特別展に出陳される日本東洋絵画を中心に、その魅力と美術のおもしろさを改めて味わっていただこうとするのが、本稿の目論見である。
明治十八年、彌太郎が没すると、弟彌之助が跡を継いで三菱の主宰者となった。そして全社員に向けた告示に、「今後諸君と共に一意我が海運の事業を拡張するの精神」を高らかに謳い上げた。「静嘉堂@丸の内 日本東洋画の海へ!」と銘打ったのは、彌之助の大海に向けた眼差しに思いを馳せたゆえである。
しかし大正五年(一九一六)、当時を代表する学者に委嘱して父彌之助コレクションの調査を開始、やがてこれまた父の遺産である静嘉堂文庫の経営保存公開に積極的に乗り出した。かくして英国紳士であったともいうべき小彌太が、東洋古典文化の深遠なる思想に興味を覚えるようになったという。
オープニング展「響きあう名宝――窯変・琳派のかがやき――」のカタログに、巻頭エッセー「静嘉堂@丸の内 日本東洋画の海へ!」を寄稿しました。巻頭エッセーというより、巻頭独断というべきシロモノかな( ´艸`) そのイントロダクションの一節を掲げておくことにしましょう。
明治十年(一八七七)から蒐集を始めた刀剣はともかく、書画の場合、はじめ岩﨑彌之助はしっかりとした鑑識眼をもっていなかったらしい。美術商が持ってきたものを十把一絡げに買い取ったので、玉石混交であったが、やがて優れた作品も集まるようになり、おのずと眼も肥えていったという。いずれにせよ、その根底に国の宝を海外流出から防がなければならないという日本人としての大志と矜持があったのである。
関係者向け内覧会では、文化庁長官の都倉俊一さんからご祝辞を賜りました。静嘉堂@丸の内に期待を込めた、とても有難いお言葉でした。もっとも饒舌館長にとっては、我が女神・山口百恵が放った初期ヒット曲の作曲家として、深く心に刻まれているアーティスです。デビュー曲「としごろ」のヒットや、「ひと夏の経験」の大ヒットがなかったら、その後の山口百恵は存在しなかったでしょう。
この「としごろ」を含むファーストアルバム「としごろ」を持っているというのが、饒舌館長の自慢です。もっとも、かつてヤフーオークションで検索したら、最低入札価格300円、入札ゼロというので、ガックリきたことがありました( ´艸`)
静嘉堂@丸の内「響きあう名宝――窯変・琳派のかがやき――」<12月18日まで>
10月1日――いよいよ静嘉堂@丸の内のオープンです!! 「静嘉堂@丸の内」というのは、静嘉堂文庫美術館が新しく開いた明治生命館ギャラリーのコミュニケーション・ネームです。世田谷岡本の旧館では大変お世話になりましたが、静嘉堂@丸の内もこれまで同様、あるいはこれまで以上によろしくお願い申し上げます。
昨日は午前中メディア内覧会、午後、関係者向け内覧会が行われました。メディア内覧会のあと、岩﨑家にゆかりある高知放送の取材をうけました。「窯変天目」の魅力を一言でお話しくださいというので、「筆舌に尽くしがたき美しさ」といってケムに巻きました。あとで「千変万化」という魅力的なワンフレーズを思いつきましたが、後の祭りでした( ´艸`)