「闔家全慶こうかぜんけい」は「慶」と「鶏」の字音が同じであるところから生まれた画題である――しかし落ち着いて考えるとチョットおかしいじゃ~ありませんか。これは中国で考え出された画題にちがいありませんが、現在の中国語である普通話によれば、「慶」は「チン」、「鶏」は「ジー」で、まったく異なる発音だからです。
しかし、おかしくないんです。「慶」と「鶏」を「ケイ」と読むのは漢音、つまり唐時代の長安で使われていた標準的な発音を写した発音だからです。漢音によれば、確かに同じ字音になります。
「闔家全慶こうかぜんけい」は「慶」と「鶏」の字音が同じであるところから生まれた画題である――しかし落ち着いて考えるとチョットおかしいじゃ~ありませんか。これは中国で考え出された画題にちがいありませんが、現在の中国語である普通話によれば、「慶」は「チン」、「鶏」は「ジー」で、まったく異なる発音だからです。
しかし、おかしくないんです。「慶」と「鶏」を「ケイ」と読むのは漢音、つまり唐時代の長安で使われていた標準的な発音を写した発音だからです。漢音によれば、確かに同じ字音になります。
あくまで文人画家であった師・椿椿山の花鳥画様式を、新時代にふさわしい展覧芸術へバージョンアップしようとする幽谷の表現意欲が、画面の外へとあふれ出ているといった感じです。こういう場合、よく「会場芸術」という言葉が使われますが、チョット「催場芸術」みたいな響きが感じられます(笑) 饒舌館長は「展覧芸術」と呼んだ方がいいんじゃ~ないかなぁと思っています。
雌雄の鶏に雛を添えるのは、「闔家全慶こうかぜんけい」という迷語画題――ナゾナゾみたいな画題です。金井紫雲の『東洋画題綜覧』に「慶は鶏と字音が同じなので、一家の和楽を意味し、祝賀の画題として図せらるるもの多い」とある通りです。一家の平和安寧、家内安全を寓意する画題です。
はじめ14名の画家名が報道されましたが、実際に出品したのは東京から6名、京都から5名、つまり11双の屏風が展示されたわけです。このうちの8双が、いま静嘉堂文庫美術館のコレクションに収まっています。詳しくはカタログの「コラム② 第四回内国勧業博覧会の美術展示」をご覧ください。
大工の家に生まれた野口幽谷は、先に板橋区立美術館で特別展が開かれ、改めて注目を集めた文人画家・椿椿山に就いて画技を学びました。そして色感豊かな花鳥画で一世を風靡、ついには帝室技芸員を拝命するまでになりました。静嘉堂文庫美術館の「菊鶏図屏風」は、東京国立博物館の「菊花激潭図」と並ぶ幽谷の傑作です。力作という観点に立てば、凌駕しているかもしれません。
明治28年(1895)4月から7月にかけ、京都の岡崎で第4回内国勧業博覧会が開催されました。これにあわせて、東京と京都を代表する日本画家に屏風を揮毫してもらい、競演を楽しもうという企画が立ち上がりました。
その経済的後援者になったのが岩﨑彌之助でした。今でいえばスポンサーですが、むしろ古めかしい「施主」という言葉を使いたい誘惑に駆られます。このビッグプロジェクトに対する深い共感が彌之助にあったことは、改めて指摘するまでもありません。東京の画家は、彌之助がみずから選定したというんですから……。
このたび開催する特別展「明治美術狂想曲」では、明治時代の美術を取り巻く時代の変化、作品の変容を、「狂想曲」と見立て、静嘉堂所蔵の明治美術を中心に展観します。彌之助の援助のもと制作された橋本雅邦《龍虎図屏風》、岩﨑家の邸宅を飾った黒田清輝《裸体婦人像》など約50件を紹介しています。現代でも色あせない明治美術の魅力をお楽しみください。
先に板橋区立美術館の「椿椿山展」をアップしました。そのさい椿山に学んだ画家・野口幽谷の名も挙げましたので、「僕の一点」は幽谷の「菊鶏図屏風」といきましょう。
まずは黒田清輝の傑作「裸体婦人像」が表紙を飾るカタログから、「ごあいさつ」の一部を引用することにしましょう。
江戸幕府が倒れ、西洋文明が流入した明治時代は「美術」が産声を上げた時代でした。「美術」という言葉が誕生し、西洋風の建築やファッション、油彩画が普及、博覧会が開催され、美術館が初めて開館したのもこの時代でした。一方で、社会の急激な変化は、「廃仏毀釈」といった伝統文化軽視の風潮も生み出しました。
三菱を創業した岩崎彌太郎の弟で、三菱二代社長岩崎彌之助は、明治10年代から刀剣を蒐集し、大名道具を購入するなど文化財の保護に努めます。明治25年(1892)、静嘉堂文庫を創設し、現在、その蒐集品は静嘉堂に引き継がれています。
すでにアップしたように、4月9日まで三菱一号館美術館で「芳幾・芳年――国芳門下の2大ライバル」展が開かれていました。これにあわせて、担当した三菱一号館美術館の野口玲一さんとおしゃべりをし、これをライブ配信することになりました。
何といっても芳幾・芳年展ですから、派手な緑のシャツを着て颯爽と出掛けました。ところが残念無念!! ライブといっても音声だけ、ラジオみたいな配信だったんです(笑) というわけで、「明治美術狂想曲」の挨拶では、その同じ派手なシャツを着てリベンジをはかったというわけなんです(笑)
静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」<6月4日まで>
去年10月1日に産声をあげた静嘉堂@丸の内の開館記念展第3部「お雛さま 岩崎小彌太邸へようこそ」展も無事終了、いよいよ特別展「明治美術狂想曲」が始まりました。学芸員の浦木賢治さんによる素晴らしいキューレーションをお楽しみください!!
4月7日にはメディア内覧会が行なわれました。もちろん、たくさんの関係者にお集まりいただきました。皆さまに挨拶をすることになった饒舌館長は、狂想曲カプリチオという内容に合わせ派手な緑のシャツでマイクを握りました。じつはチョットしたリベンジだったんです。
というわけで、江山漁楽という画題は脇に置いておくことにして、両者を見比べてみると、椿山が師の崋山から大きなインスピレーションを得た可能性も考えられるように思います。椿山の師崋山に対する尊敬の念を考えれば、当然のことですが……。それはともかく、さすが崋山先生、椿山のように他人の詩をパクッタリするようなことは致しません。しかもこの9・7・9・7言という詩は、崋山における制作過程の一端を教えてくれる点で、とてもおもしろいと思います。またまたマイ戯訳で……。
天保三年 春の日に 「江山漁楽図」描いたが
満足できずそのあとは 葛籠つづらにしまっておきました
是非……と欲しがる人があり そこから出して彩色を
加えたけれど拙劣な ブラッシュワークは隠せません
その後オークション・カタログ『i ART』78<春季特別オークション in Spiral@表参道>を見ていたら、渡辺崋山筆「江山漁楽図」が出ていました。かの『渡辺崋山先生錦心図譜』(1941年)には北海道の小熊幸一郎という方の所蔵として登載されていますが、それから80年以上世に隠れていたことになります。
先日アップした椿椿山の「僕の一点」と同じタイトルという点で、興味をそそられました。図様も賛詩も異なるのですが、椿山がこの崋山画を知っていたことは疑いないでしょう。もっとも「江山漁楽図」というのは、箱書きをした渡辺崋石の命名らしく、崋山自身は「山樹屋艇」と書いているのです。どうも「江山漁楽」という画題は、饒舌館長がよく知らなかっただけで、広く流布していたようです。
喜八郎人形にヘンシンした周瑜はキリリとして迫力満点、江東の碧眼児・孫権のつぎに登場するんです。杜牧の詩だけではイメージのわかなかったイケメン周瑜が、眼前に颯爽と現われたんです。
しかも巻末の「飯田市川本喜八郎人形美術館 収蔵作品一覧」を見ると、周瑜の妻になった小喬も、孫策の妻になった大喬もいます。一覧ですので、小さなモノクロ写真ですが、虫眼鏡でみると確かにものすごい美人です(笑) また一覧にある「喬国老」とは、大喬・小喬姉妹のお父さんである喬玄のことのようです。
飯田市川本喜八郎人形美術館の名前は知っていましたが、まだ訪問の機会は得られず、そのうち是非……と思ったことでした。お訪ねした夜はもちろん飯田の銘酒「喜久水」――「美術品は所蔵館で!! 地酒はその土地で!!」の実践ということになるでしょう(笑)
そのときもアップしたように、結句の二喬というのは呉の喬玄が授かった二人の娘で、ともに絶世の美人であったそうです。ですから、もしも魏の曹操(武帝)が呉の周瑜や喬玄を打ちやぶっていたら、その美人姉妹は曹操の愛妾にされていただろう――というわけです。
実際は曹操が周瑜に大敗を喫してしまったので、のちに姉(大喬)は孫権の兄・孫策に嫁し、妹(小喬)は周瑜と結ばれたそうです。そこで愛妾を現代っぽく「愛人」にしながら戯訳を考えていたら、起承転結結みたいになっちゃいました(笑)
何か懐かしい感じで別冊太陽『川本喜八郎』のページを繰っていると、周瑜公瑾しゅうゆこうきんの凛々しい姿が目に飛び込んできました。先日、出光美術館「江戸絵画の華 第2部」をアップしたとき、ジョー・プライスさんが愛して止まなかった円山応挙筆「赤壁図」を「僕の一点」に選んで思い出をおしゃべりしました。そのついでに杜牧の七言絶句「赤壁」を、お馴染みの戯訳で紹介しましたが、そこに登場する周瑜です。
埋もれていた戟ほこ砂の中 掘り出されたが錆びてない
みずから洗って研といでみりゃ 三国時代の遺物なり
呉の周瑜しゅうゆのため運よくも あの東風ひがしかぜ吹かずんば
魏の曹操は喬公の 美人姉妹を春深き
銅雀台どうじゃくだいに閉じ込めて 我が愛人にしちゃったろう
山王小学校のとき同級生だった菅原洽子さんから、別冊太陽『川本喜八郎 人形――この命あるもの』(平凡社 2007)を贈られました。菅原さんは衣裳を中心に、人形アーティスト川本喜八郎さんのお手伝いを16年間も続けられたそうです。
僕も名古屋時代、喜八郎人形によるNHKの人気番組「三国志」を、子どもと一緒によく見ていました。岩波文庫版『完訳 三国志』全8冊は書架にありますが、必要があるときにチョット開くだけですから、三国志のアウトラインはこの番組で学んだといった方がよいでしょう。
木こりなどあこがれるのはお止めなさい 雲の山中 木を伐きるだけだ
大蛇棲すむ洞穴ほらあな抜けたり狼の 飢えたる群れを通り過ぎたり
おのが身に苦労をかけても半日の 食事がようやく稼げるだけだ
それよりも酒をやるのが一番だ 寝ながら酔ってほろ酔い気分に……
話は大窪詩仏の賛酒詩まで行っちゃいましたが( ´艸`)、こんな素晴らしい椿椿山展、そして東京では最初の椿椿山展をキューレーションして見せてくれたのは、板橋区立美術館の印田由貴子さんでした。心からのオマージュを!!
長生きの法を学ぶのお止めなさい 長生きすれば悩みが増える
仙鶴になっても人は見抜けない 五百年まえ知るとも無意味
仙術で木犀もくせい伐きっても果てしなく 蹯桃ばんとう盗むの困難だった
それよりも酒をやるのが一番だ 何もしないでただのんびりと……
これはチョット分かりにくいですね。「仙鶴になっても人は見抜けない」は丁令威、「五百年まえ知るとも無意味」は蘇子訓、「仙術で木犀伐っても果てしなく」は呉剛、「蹯桃盗むの困難だった」は東方朔という仙人の逸話だそうです。つまり延命長寿の法を学んで仙人になり、仙術が使えるようになってみたところで、所詮役立たず徒労に終る――そんなことを苦労して学ぶよりもまず一杯!!と茶化しているんです。
学者などあこがれるのはお止めなさい 貧乏神に付きまとわれる
家はただ壁があるだけ何もなく 飯はわずかに一個のわりご
詩や賦などうまかったって儲からず 天下国家を論じても無駄
それよりも酒をやるのが一番だ 世俗の人と酔いふらふらと……
漁夫ぎょふなどにあこがれるのはお止めなさい 一家をあげて身を寄す小舟
釣り糸を夜明けの雨に垂れながら 蓑みのと笠かさとで風波をしのぐ
満タンに魚籠びくをするのはむずかしく 棹さおをあやつる苦労は知れず
それよりも酒をやるのが一番だ のんびり座って飲めば陶然と……
先にアップしたごとく、士大夫のように管理されたり忖度したりすることなく、自由気ままに生きる漁師に対するあこがれを描いた作品が漁楽図です。しかし実際のところ、漁師の生活が大変シンドイものであったことは、改めていうまでもありません。
このあいだ揖斐高さん校註の『江戸詩人選集』5によって、大好きな大窪詩仏に戯訳をつけて遊んでいたら、「来りて酒を飲むに如かず。楽天の体に倣う」という愉快な五言律詩4首に逢着しました。清新性霊派のユーモアとでも言ったらいいのかな? そのうちに漁師を取り上げた一首がありましたので、4首全部をまたまた戯訳で……。これは和歌風に五七五七七で読んでくださいね。
しかし、椿山が謝応芳の賛を有する「江山漁楽図」を目にしていた可能性も考えられるでしょう。もちろん原本であるはずもなく、模本を含めての話ですが……。もしそうなら、図様もそれによった可能性が浮上してきます。そうなると、もうほとんどパクリということになっちゃうかな(笑)
いずれにせよ、ネットほど便利なものはありません。しかし今や、チャットGTPなる化物みたいなAI機器が登場しているそうですね。そのうち僕たち美術史家は、枕を並べて失職することになるんじゃないかな(笑)
結句の「欵乃」は正しく書けば「欸乃あいない」で、八代亜紀の名とともに思い出される舟歌のことだそうです。いや、八代亜紀は「舟唄」だったかな?
椿山は「元人の詩を録す」と書いているので、さっそく中国の「詩詞検索」「中華詩詞網」で検索をかけてみました。すると今や、この七言絶句は謝応芳という人の詩であることが、たちどころに分かっちゃうんです‼ 謝応芳が元末明初に活躍した文人詩人であることも、彼の詩集『亀巣稿』に「江山漁楽図」と題して載っていることも……。
おそらく謝応芳が「江山漁楽図」を見て、この七絶を詠んだのでしょう。あるいは着賛したのかも? 画家の名はわかりませんが、たとえば元末四大家の一人・呉鎮にはこの画題の作例があったようです。椿山は『亀巣稿』を見てインスピレーションを得たのでしょう。
大雅の「漁楽図」が傑作であることは改めて言うまでもありませんが、椿山の「江山漁楽図」もすぐるとも劣らぬ出来映えを示しているのではないでしょうか。椿山はこの「江山漁楽図」に七言絶句の賛を加えています。またまたマイ戯訳で……。
女房にょうぼと子どもの数家族 でも使える網イッチョだけ
舟が彼らの家となり 川が彼らの敷地なり
江南 江北 山並みは 墨絵のように美しい!!
その舟歌に送られて 夕日が静かに沈んでく
この大雅作品と比較してみると、椿山画はかなり写実的というか、現実主義的です。それは様式においても、生活態度においても現実主義的であった関東文人画の特徴を、分かりやすく教えてくれるように思われます。
款記には呂廷振、つまり明代最高の花鳥画家・呂紀りょきにならったとありますが、普通僕たちがイメージする呂紀画とはずいぶん異なっています。呂紀の代表作に、東京国立博物館が所蔵する「四季花鳥図」四幅対があります。静嘉堂文庫美術館にも、伝称作品ですが、とてもすぐれた「花鳥図」があります。しかし、これらと共通する要素は多くありません。むしろ、先にあげた「涼月蒲柳図」のもとになった陳淳を想定すべきだと思います。
ヤジ「本人が呂紀にならったと言っているのに、オマエが勝手に変えたりするんじゃない!!」
調査カードには「昭和12年伊東家入札目録(東京美術倶楽部・開華楼)に野口幽谷の似た作品あり。詳しく比較すべし」とあります。K氏からこの入札目録を見せてもらい書き込んだような気がしますが、その後「詳しく比較」なんかしていないんです(笑) 恥ずかしながら上のイメージはその時のマイスケッチですが、あの名幅はいまどこにあるのでしょうか?
今回の板橋区立美術館「椿椿山展」から選ぶ「僕の一点」は、何といっても「夏雨宿鷺図」(白澤庵蔵)ですね。まず驟雨にゆれる柳の描写に目を奪われます。驟雨を避けるがごとく葉陰に2羽の白鷺が羽を休め、1羽は風にさからって幹にしがみついています。緑柳×白鷺の色彩対比、静と動のバランスも絶妙です。けっこう大きな掛幅にもかかわらず、椿山のウィークポイントになりかねない構成にも破綻がありません。
その後、さらに椿山に魅入られるようになったのは、昭和53年(1978)9月21日、個人コレクターK氏のもとで「涼月蒲柳図」を拝見したときでした。
このK氏とは先日アップしたK氏とは別のK氏です。このときは源豊宗先生も一緒でしたが、お話を聞きながら作品を鑑賞するという、空前にして絶後のすばらしい体験でした。この「涼月蒲柳図」は蓮と柳を大きくとらえ、その向こうに満月を望むという情趣纏綿たる絹本着色掛幅画でした。七言二句の自賛に続いて「法白陽山人意」とありますから、明代後期の文人画家・陳淳にならった作品であることが分かります。
しかし8年後に、「春江遊魚図」の解説を書くことになるとは夢にも思いませんでした。昭和51年、吉澤忠先生は『水墨美術大系』シリーズの別巻1として、『日本の南画』を編集されました。そして関東南画を、僕に担当させてくれたんです。
椿山画3点のうちに、この作品を含めたことは言うまでもありません。僕の調査カードには「春江遊魚図」となっていますが、その後モチーフに即し「蓮池遊魚図」と呼ばれるようになっていたので、『水墨美術大系』ではそれを採用しました。
いま読み返してみると、「崋山も惲南田を尊敬しており、『蟲魚帖』などはその影響を受けた作品であるが、繊細で温雅な南田の画風は、椿山にこそ適していたということができよう」などと、生意気なことを書いています――すっかり忘れていましたが(笑)
板橋区立美術館「椿椿山展 軽妙淡麗な色彩と筆あと」<4月16日まで>
椿椿山つばきちんざん――大好きな文人画家の一人です。この特別展のカタログによると、鑑定家の浅野梅堂は「抱一の画才、文晁の画学、応挙の画趣、崋山の画格みな曠世の絶芸なり。これを集大成して韻致の玅(妙)を得たるものは椿山翁なり」と激賞したそうです。チョット贔屓の引き倒しみたいですが、椿山が梅堂にとって先生だったからかな(笑)
僕がはじめて「椿山っていい画家だなぁ」と感じ入ったのは、昭和43年(1968)4月16日、東京藝術大学資料館で開催された「新収品展」で「春江遊魚図」を見たときでした。
嘉永3年(1850)椿山50歳のとき描かれた作品で、惲南田に倣ったと思われる没骨のニュアンスが「何と申しましょうか……」という感じだったんです(笑)
家蔵する青木正児・入矢義高先生の『芥子園画伝』を開いてみると、李龍眠より「子久(黄公望)画泉法」の方が似ているような気もしましたが、応挙が『芥子園画伝』を見ていたことは疑いありません。
あんなに写生の重要性を説き粉本を否定しながら、応挙は『芥子園画伝』も参考にしていたんです。そもそも見たこともない蘇東坡を主題にしていること自体、応挙の写生主義がギュスタブ・クールベの写実主義とは別物であることを物語っています。天使を描き加えて欲しいと頼まれたクールベは、「やぶさかではないが、その天使とやらをここに連れて来てくれ」と言ったというんですから……。
先ほどこの『故宮書画簡輯 唐寅』をネットで検索したところ、露天市集というサイトに200ドルで出ていました。しかし、こういうサイトにクレジット番号を打ち込んで大丈夫なものかどうか心配になり、今回はスルーすることにしました(笑) 余談はともかく、確かに唐寅画にはこのような皴法――斧劈皴みたいな皴法が見出されるのです。
一方『江戸絵画の華』カタログ解説では、『芥子園画伝』初集に収められる李龍眠画、とくに瀧周辺の表現をアレンジした可能性が指摘されています。