2021年12月31日金曜日

高適「除夜の作」

 

 

 除夜となれば盛唐詩人・高適 の「除夜の作」をおいて他になし、かつてアップしたことがあるような気もしますが……。舞い出した風花を見ながら昼酒をやれば、とくに心に沁みます。この絶唱には古来二つの解釈があり、戯訳も二つアップすることにしますが、どちらがお好きかご一報を……。

   ①旅館のともし火 寒々と していて独り眠られず

  旅の悲しみわけもなく いよいよもって深くなる

  千里のかなたふるさとで 年越し祝う人を恋う

  白髪頭にまた一つ 歳を重ねる明日の朝

 ②旅館のともし火 寒々と していて独り眠られず

  旅の悲しみわけもなく いよいよもって深くなる

  千里のかなたふるさとじゃ 思っているだろこの俺を

  白髪頭にまた一つ 歳を重ねる明日の朝

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」11

「窟室蕭然図」の賛

   みぎわの家はものさびて 絶えて聞こえず外の音

   調弦しながら客を待つ 陰翳礼賛――そんな気分

   仲秋の月 照らす山 鳥も驚く明るさで

   葉擦れの音に人語なく 琴の音[]夜半[よわ]に冴えわたる

   素焼きの猪口にマツヤニで 醸[かも]した酒は辛口で

   竹の琴柱[ことじ]も琴線も ずっと使ってきたものだ

   嘆いちゃならぬ!! 世の中に 真の友だち少なきを

   好悪[こうお]が強いもともとの 俺の性格ゆえだから

 

2021年12月30日木曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」10

「墨石図」の賛

   天然自然――そのなかに 存在しません 人工美

   ひねもす晴れたり曇ったり するけど巧んだものじゃない

   しかし人にはそれぞれに 香りと色の嗜好あり

   愛憎あれば花の美を チャンとは鑑賞できません

  チョット哲学的でむずかしい詩ですが、こんな感じでいいのかなぁ~?

 

2021年12月29日水曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」9

「仙山鳴鶴図」の賛

   大きな松はこんもりと…… つがいの鶴が鳴いている

   朝日が昇る水平線 五色の雲がお出迎え

   年は取ったがこの俺が 呉絹に描いて贈りたい

   うやうやしくも新しく 延命長寿をことほいで

 

2021年12月28日火曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」8

「圜中書画」の詩

   俺は独り身 七十と 五歳になった一老人

   体も心も痩せに痩せ 春風さえも身にしみる

   か細い腕[かいな]を心配し 助けてくれる人もあり

   だが窓は破[]れ明け方は ただ北風を恐れてる

 

2021年12月27日月曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」7

チョット中断していまいましたが、東京黎明アートルームで開催された特別展「浦上玉堂 画法は知らずただ天地あめつちの声を聴き筆を揮う」に出品された作品から、玉堂の詩を書き写してきたので、それもマイ戯訳で……。

「秋山晩晴図」の賛

雨が上がれば峰々が 緑を増して輝けり

荻・蘆[おぎ・あし]茂る入り江には 釣り舟一艘もやってる

たくさんいた鳥 飛び去って さざなみ立つ面[おも]静かなり

上の方だけ落日に 照らされる山 眺めてた

 

2021年12月26日日曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」12

この野口其一展を堪能した師走半ばの十四日は、かの赤穂義士吉良邸討入りの日でした。帰宅途中、泉岳寺駅で降りた僕は、「義士祭」のノボリが涙雨に濡れる萬松山泉岳寺に向かい、四十七士の墓前に線香を手向けましたが、あまりに若い大石主税のまえではチョット涙ぐんでしまいました。涙雨に誘われたのでしょうか。いや、後期高齢者になって、涙腺がゆるくなっているんでしょう() 

そのあと赤穂義士記念館と義士木像館にもお参りし、門前で赤穂名物「塩味饅頭」を求めて帰宅した一日でした。義士祭は半世紀ぶりのことでしたが、何を隠そう、あのころは僕も矢田助武のように若かったんです!!

ヤジ「何も隠さなくたって、半世紀まえなら、当たり前田のクラッカー!!

訂正 浅草寺本堂修復成就の件、『武江年表』天保12年10月13日の条にあると書きましたが、天保11年10月13日の間違いでした。すでに訂正いたしましたが、お詫び申し上げます。

 

 

2021年12月25日土曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」11

 

僕に漢文を教えてくださった竹谷長二郎先生と、ご友人の北野克先生が編集した『鈴木其一書状』<日本書誌学体系38>(青裳堂書店 1984年)は、141通の其一書状を翻刻したもので、其一研究のもっとも重要な資料の一つです。

其一の書状はすべて松沢石居あるいは金三郎に宛てて書かれたもので、二人は同一人と思われますが、なかに「大孫 御見世中様」宛てがあります。これは当主大坂屋孫八の通称ですので、松沢石居(金三郎)とは大坂屋孫八のことと見なして間違いないでしょう。現代まで150通近い書状が遺るほど、其一と大坂屋孫八の関係は深かったんです。

浅草寺本堂修復にも多額の寄進をしたにちがいない大坂屋孫八が、その記念として其一にこの「夏秋渓流図屏風」を描いてもらったのではないでしょうか。当然のことながら、其一にもリキが入ったことでしょう。残念ながら、其一の書状にこの屏風のことは出てこないようですが……。

2021年12月24日金曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」10

  

 それはともかく翌天保12年の3月には、其一の描いた「迦陵頻図」の大絵馬が、吉原の佐野槌屋によって浅草寺へ奉納されています。このように其一と浅草寺には深いえにしがあったのですが、もちろんそれはもっと早く生まれていたにちがいありません。

しかしすでに述べたように、其一といえども画料を提供してくれるパトロンがいなければ、どうにもならないでしょう。そのパトロンこそ、大坂屋を屋号とする江戸日本橋の大きな蝋油問屋・松沢家だったのです。この屏風は、其一最高傑作の双璧をなす「朝顔図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)とともに、東京美術倶楽部編『松沢家売立目録』(1918年)に載っているからです。

2021年12月23日木曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」9

しかも檜は、山林にあって風のため枝がこすれあって熱を起こし、火を発するところから<火の木>と呼ばれるようになったといいます。あるいは<日の木>に由来するという説もあるようですが、いずれにしても古くから神聖視されてきました。浅草寺の本堂修復にも、檜が用いられたことは言うまでもありません。

浅草寺本堂修復成就を記念して制作されたと仮定すれば、これほどふさわしいモチーフはほかにないでしょう。この檜は閻浮樹とダブルイメージになっているとか、渓流は閻浮檀金が採れる河のメタファーだとか、さらには江戸の華の火難除けになっているなどといったら、いよいよ妄想と暴走になっちゃうかな() 

 

2021年12月22日水曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」8

 

すると、閻浮檀金[えんぶだごん]でできた小さな聖観音の立像を引き上げたんです。閻浮檀金というのは、インドの閻浮樹が茂る森林を流れる河から採れるという砂金で、もっとも高貴とされている金のことです。やがてこの兄弟に、自宅を聖観音のための寺に変えた戸長の土師直中知[はじのあたえなかとも]を加えた三人が、浅草観音の草創者として崇拝されるようになったというのです。

この三人が土地の氏神様として、寺の東脇にまつられたのが浅草神社です。この三社大権現の祭礼である三社祭りを知らない日本人はいないでしょう。僕も友人の和田泰昌さんのお招きで、一杯やりながら堪能したことがあります。「檜前」は「檜隈」と書かれることもありますが、いずれにせよ、檜は浅草寺にゆかりの深い樹木だったのです。

2021年12月21日火曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」7

これについては、またまた妄想と暴走があります() 落款およびその書体や画風の観点から、この屏風は天保の終りごろに描かれたものと推定されます。そこで興味深いのは、斎藤月岑が編纂した『武江年表』の天保12(1841)1013日の記事です。

浅草寺本堂修復成就にて、今夜酉下刻、本尊念仏堂<本堂普請中本尊は此堂に安置し奉る>より遷座あり、<遷仏の間は惣門を閉じ、講中の外入る事をゆるさず> 終て暫時開帳あり、道俗群集す、

ここで僕はなぜか唐突に浅草寺の縁起を思い出すんです() 寺伝によれば、推古天皇の36(628)318日、この地の漁師である檜前[ひのくま]浜成[はまなり]と竹成[たけなり]の兄弟が、宮戸川、つまり隅田川の駒形のあたりで網を打っていたといいます。

 

2021年12月20日月曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」6

そもそも其一は応挙に強い関心を向けていたらしく、かつて『國華』に紹介した応挙の大津絵風「美人図」には、其一の極め書きが付いていました。応挙の「寿老・大黒・恵比寿図」三幅対に倣った其一作品も、この特別展に出陳されています。

様式問題は野口さんが3つのレイヤーによって解決してくれていますが、それではなぜこんなすごい屏風が制作されることになったのでしょうか? 其一が文人画家のようにみずからの楽しみのために、あるいは自己表現として描いたはずはありません。そこに其一の個性や独自の美意識が表現されていることは紛れもない事実ですが、特別な制作目的や、制作費を出してくれたパトロンがいたにちがいありません。

 六曲一双の金地本間屏風であることや上質な絵具の発色、そして何より其一の全身全霊を捧げた打ち込みぶりを考えると、並みの屏風じゃ~ないように疑われるのです。 

2021年12月19日日曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屏風」5


 かつて応挙に関する拙論を書いたとき、このような構図を「迫央構図」と呼んだことがあります。中央に迫ってくる構図です。応挙の「雨竹風竹図屏風」(円光寺蔵)も「雪松図屏風」(三井記念美術館蔵)も、基本的に迫央構図になっているのが興味深く感じられます。「迫央構図」とは我ながらうまい命名だと悦に入っているんですが、野口さんをはじめとして誰も使ってくれないんです()

 しかし「保津川図屏風」が迫央構図なら、「夏秋渓流図屏風」も立派な迫央構図です!! 其一は応挙の迫央構図を知る機会があり、これからインスピレーションを得たにちがいありません。 

2021年12月18日土曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屛風」4

 

僕が言うところの「研究展覧会」、略して「研究展」ですが、並みの研究展じゃ~ありません。研究展にして名品展になっているんですから!! 

野口さんはカタログに、「鈴木其一・夏秋渓流図屏風――造形が内包する三つのレイヤー」という力作論文を寄せていますので、ぜひ一読をお勧めしたいと思います。決して僕の名前が出てくるからじゃ~ありませんよ() 

野口さんはレイヤー(層)の一つとして、円山応挙の「保津川図屏風」(千總蔵)をとくに重視しています。「夏秋渓流図屏風」も「保津川図屏風」も、一双の両端から中央に渓流が集まり流れてくるような構図になっているからです。

2021年12月17日金曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屏風」3

山根有三先生が主宰する近世絵画研究会が、『琳派絵画全集』編集のため根津美術館の琳派コレクションを調査させてもらい、この屏風を<発見>して驚いたのは1974年夏のことでした。

僕もその末席に連なり、一瞬にして暑さを忘れたことはよく覚えていますが、生きている間に国の重要文化財に指定されようとは、夢にも思いませんでした。この間における急激な其一再評価の高まりを物語るものにほかなりません。

今回の特別展をコーディネートしたのは、すでに登場してもらったことがある野口剛さんです。これは野口其一展だといっても過言ではないでしょう。つまり、野口さんの研究がまずあって初めて出来上がった展覧会なのです。

 

2021年12月16日木曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屏風」2

 

しかし、もしさしたる感動を覚えない人がいたら、縁がなかったとあきらめてすぐ美術史から足を洗い、ほかの途へ進むことをお勧めします。世の中には、美術史以外にもおもしろいことがたくさんありますよ!! 

今や鈴木其一の評価や人気は、師の酒井抱一をしのぐものがあります。いや、人気だけに限れば、強い影響を受けた尾形光琳や、その光琳が私淑した俵屋宗達を凌駕しているかもしれません。この「饒舌館長」にも、たびたび登場する人気絵師です。

国内にある其一最大の傑作が、根津美術館所蔵の「夏秋渓流図屏風」です。この六曲一双屏風が、2020年、ついに重要文化財に指定されたんです。其一最初の重文です❣❣❣


2021年12月15日水曜日

根津美術館「鈴木其一・夏秋渓流図屏風」1

根津美術館「重要文化財指定記念特別展 鈴木其一・夏秋渓流図屏風」<1219日まで>

 今年最後にして最高の「饒舌館長オススメ展」です。まったく異なる流派の最高傑作でありながら、きわめて密接な関係に結ばれている二つの重要文化財を同時に堪能することができるんです。人生100年時代からみれば、わずか二人まえに、江戸時代というこんなすごい時代があったことに驚嘆させられます。日本美術史の研究が、かくのごとくおもしろくスリリングな知的遊戯であることを教えてもらえます。

西洋でもいい、東洋でも構わない、もちろん日本なら言うまでもない――美術史を学んでいる学生は絶対見てほしい。美術史をやってみようと思っている若い人も必ず足を運んでほしい。自分の選択が間違っていなかったことを確信し、これから歩むべき旅路へのエネルギーをチャージすることができるでしょう。

2021年12月14日火曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」6

たとえば入矢義高先生は、この転句――第三句が宋時代の詩人、柳永の詞「雨霖鈴」から「今宵酒醒何処 楊柳岸 暁風残月」を借りたものであると指摘しています。

もっとも僕は、この七言絶句を詠む玉堂の胸底にイメージされていたのは、むしろ有名な杜甫の「曲江」ではなかったかと疑っているんです。お酒を中心に、春、水辺、蝶々と、両者のモチーフがとてもよく重なり合うからです――というようなことを、マイエッセー「玉堂と酒」には書いたんです。

  ヤジ「かの吉川幸次郎先生が、その学殖をたたえて止まなかった入矢義高先生の説に異を立てるなんて、オマエも酔払いながら書いたんだろう!!

 

2021年12月13日月曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」5

 

    酒に酔って眠り、目覚めたときのアンニュイと、春という季節の物憂い雰囲気が、とても美しく綯い交ぜになって詠まれています。それにもかかわらず、玉堂の嗅覚だけは冴えていて、かすかなイラクサの香りにも鋭敏に反応するんです。

富士川英郎先生が、名著『江戸後期の詩人たち』を著わしてから、江戸時代の漢詩にたいする興味が掻き立てられ、そのソフィストケイトされた文学世界に熱いまなざしが注がれています。玉堂の漢詩は、そのような江戸漢詩の鬱蒼とした森を生み出す、緑豊かな大木の一本であったと思います。

そしてこの場合にも、基底に文字通りの漢詩――中国の詩に対する豊かな教養と深い尊敬があったことは、改めて言うまでもありません。

2021年12月12日日曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」4

  花咲く林でチョット酔い 池の堤で一眠り

  花の香りに酔うごとく 乱れ飛んでる揚羽蝶

  あかつき迎え酔い醒めりゃ どっかに消えてる春だけど

  蝋で仕上げた下駄の歯に 残るイラクサ香ってる

 

2021年12月11日土曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」3

 この書き出しに続いて、田能村竹田が著わした画論『山中人饒舌』の玉堂に関する一節が出てくるわけです。この引用には、恩師である竹谷長次郎先生の現代語訳を使わせてもらいました。もう30年近く前に書いたものですが、この見方は今も変わっていません――というより、さらに強い確信に変わっています() 

玉堂の詩集『玉堂琴士集』<前集><後集>には、お酒をたたえた詩がたくさん収められています。そのなかで、僕がもっとも好きなのは、<前集>の「山行」と題される15首のなかの1首です。「玉堂と酒」では、原詩と書き下しだけでしたので、ここではマイ戯訳を……。

 

2021年12月10日金曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」2

 


 いつか玉堂についても妄想と暴走を書きたいなぁと思いつつ、その機会がなく、ただ「玉堂と酒」というエッセーが1編あるだけです。これは小林忠さんに求められて、『江戸名作画帖全集』Ⅱ<文人画2 玉堂・竹洞・米山人>のために書いたものですが、自分としてはケッコウうまくできていると思い()、駄文集『文人画 往還する美』(思文閣出版)にも再録しちゃいました。その書き出しは……

酒、これなくして玉堂芸術は存在しなかった。両者はほとんど表裏一体の関係に結ばれていた。私は浦上玉堂を酒仙画家と呼びたい。玉堂と肝胆相照らす仲であった田能村竹田は、その著『山中人饒舌』のなかで、次のように述べている。

2021年12月9日木曜日

東京黎明アートルーム「浦上玉堂」1


 東京黎明アートルーム「浦上玉堂 画法は知らずただ天地あめつちの声を聴き筆を揮う」

 素晴らしい展覧会でした。「展覧会でした」と過去形になっているのは、先月1113日に終っちゃっているからです。

  ヤジ「なぜやってる時にアップしないんだ! 美術ブログの意味がないじゃないか? だから『青い日記帳』の足元にも及ばないんだ!!

 『青い日記帳』の足元にも及ばないのは認めるにやぶさかじゃ~ありませんが、浦上玉堂は僕がもっとも好きな文人画家です。

  又々ヤジ「蕪村のときも、大雅のときも、もっとも好きな文人画家と言ってたじゃないか? 節操がなさすぎる!!

 申し訳ございません。お詫びして訂正いたします。浦上玉堂は僕がもっとも好きな文人画家の一人です()

2021年12月8日水曜日

追悼 武田光一さん6

 

お手紙を読みながら、武田さんに対する尊敬の念が改めて高まるとともに、目頭が熱くなるのを禁じえませんでした。

蘭さんはこの授賞式に武田さんの代わりに、いや、武田さんの魂魄とともに臨まれました。それを事前に聞いていた僕は、どうしても鹿島美術財団美術講演会のあと駆けつけて、蘭さんに心からお悔やみの言葉と、生前受けた学恩への真率なる感謝を直接捧げたかったのです。しかし遺影をいだく蘭さんを前にすると、言葉が詰まってしまい、気持ちの半分もうまく伝えることができませんでした。


2021年12月7日火曜日

追悼 武田光一さん5

 

今年の7月、ご夫人の蘭さんから武田さんの逝去を知らせる、鄭重なお手紙をいただきました。

武田さんは入院されたあとも、五十嵐浚明の資料を病室に持ち込み、お世話になった越後への恩返しという熱い気持ちを込めつつ、カタログの巻頭論文と作品解説をついに完成させたそうです。しかし武田さんは、実際の作品を直視することに専心し、パソコンも携帯電話もあえてお持ちになりませんでした。

病室での執筆がどれほど大変であったことか、いかほどの苦行――すべてを抑制しなければならない宗教的意味における精神修行――であったことか、ワードで簡単に語句や文章を打ち出してしまう僕には、想像を絶するものがあります。

2021年12月6日月曜日

追悼 武田光一さん4

 



武田さんから解説を受けたあと、雪に埋もれた越後湯沢の旅籠屋[はたごや]で、白瀧酒造の絶品「湊屋藤助」を酌み交わしたことも、昨日のことのようによみがえってきますが、その後、年賀状の交換だけになっていたことが、今となっては心底悔やまれます。

京都からふるさと越後へ帰る画家・五十嵐浚明のため、ハナムケの一図を描くことになった22歳の池大雅は、盛唐・王維が詠んだ送別詩の傑作七言絶句「元二の安西に使いするを送る」をライトモチーフにすることを思いつき、それに勝るとも劣らなぬ視覚的傑作を生みだしたのでした。中国語の暗唱に続けてマイ戯訳を、天上の武田さんに捧げたいと思います。

  渭城そぼ降る朝の雨 濡れて立たない土ぼこり

旅籠屋あたりも清く澄み 柳の緑は生き返る

「遠慮しないでもう一杯 さぁ武田君やってくれ!!

陽関 越えて西ゆけば 飲み友達もいないから」


2021年12月5日日曜日

追悼 武田光一さん3

 

このあいだアップした佐々木剛三先生主宰の「画譜・絵手本研究会」に、武田さんも参加されましたが、そのカタログに寄稿した「中国画譜と日本南画の関係」は、この問題を総体的にとらえるとともに、多くの新知見を打ち出した実に意欲的な論考でした。

上にアップしている書影は、武田さんが書いた「新潮<日本>美術文庫」の『池大雅』です。このシリーズの企画編集を、僕もチョット手伝わせてもらったのですが、大雅をお願いしたいと思う研究者は、武田さんをおいて他にありませんでした。

かつて新潟市の敦井[つるい]美術館で展示中の池大雅筆「渭城柳色図」を、「読画連」の仲間と見に行ったことがあります。

2021年12月4日土曜日

追悼 武田光一さん2

武田さんは東京藝術大学で日本美術史を講じた吉澤忠先生の直弟子です。以前アップしたように、僕は吉澤先生の講義をモグリで拝聴しましたから、武田さんとは兄弟弟子ということになります。

武田さんは恩師の日本南画説を発展させましたが、日本文人画説の僕も、武田さんの研究から多くを学び、しばしば拙論に引用させてもらってきました。とくに『國華』1059号に発表された「池大雅筆『富士十二景図』について」は、大雅山水画の研究に新しい地平を拓く、すごい論文でした。

 

2021年12月3日金曜日

追悼 武田光一さん1

先にアップした今年の第33回國華賞の展覧会カタログ賞は、新潟市歴史博物館で開催された「生誕320年記念特別展 五十嵐浚明――越後絵画のあけぼの」の図録に対して差し上げることになりました。この特別展は、五十嵐浚明展準備会による長年の研究成果を発表するという、きわめて充実した内容を誇るものでした。

こういう展覧会を、僕は「研究展覧会」と呼んでいるんです。ただ指定品や名品を集めて、入場者数を競うような展覧会とは、類を異にしています。

 その先頭に立ってリードしてきたのは畏友・武田光一さんでした。武田さんがいなかったら、とても研究は進まず、開催には到らなかったと思います。しかし武田さんは、この命の結晶を見ることもなく、74歳の若さで天国へ旅立っていきました。本来なら國華賞の賞状と副賞は、武田さんが五十嵐浚明展準備会を代表して受け取ったことでしょう。 

2021年12月2日木曜日

第33回國華賞2

とてもうれしかったのは、2005年に辻惟雄さんの古希を祝って企画した「辻惟雄先生と行く敦煌・龍門・鞏県の旅」に、仲町さんと一緒に参加してくれたお嬢さんの美穂さんに、ふたたびお会いできたことでした。

1週間のスケジュールで――両端の移動日を除けば、実際は5日間で敦煌→龍門→鞏県と移動しながら石窟を見学するという、無謀ともいうべき強行軍の旅行でした。その10年前、辻さんの還暦をことほいで立ち上げた「辻先生と行く江南の旅」も印象深い旅でしたが、それにすぐるとも劣らぬ思い出をたくさん残してくれました。その思い出話で、美穂さんと盛り上がったんです。

 もちろん、この國華賞授賞式もレセプション抜きでした。朝日新聞社新館のレセプションルームで行なわれたというのに(!? 

2021年12月1日水曜日

第33回國華賞1

 


33回國華賞――仲町啓子さん

いつもならば、鹿島美術財団講演会が終ったあと、必ずレセプションがあるのですが、今回はコロナ禍のため取りやめとなり、酒仙館長としてはチョット残念でした() しかしこのお影で――いや、お陰で、朝日新聞社新館で行なわれた國華賞授賞式に、終了後すぐタクシーで駆けつけることができたんです。

今回は、山根有三先生に導かれつつ、長い間一緒に琳派研究をやってきた仲町啓子さんが、大著『光琳論』をもって國華賞正賞を受賞しました。峻厳なる研究者の佐藤康宏さんが激賞して止むことなき祝辞を捧げたのですから折り紙つき、もう饒舌館長が屋上屋を重ねる必要などないでしょう。