福井における又兵衛および又兵衛工房の活躍からみて、寛永6年ごろこのような又兵衛追随者が、江戸で町絵師として生計を立てていた可能性は充分に考えられます。又兵衛派を拡大させて、これを広又兵衛派と呼んでみたいと思います。
ヤジ「おこがましくも、辻プレ又兵衛派の向こうを張ろうとでもいうのか!?」
京都や福井から遠く離れた江戸の町絵師となれば、又兵衛や正規又兵衛工房の画家に比べて又兵衛様式から距離をおくことは避けられませんでした。しかし江戸の地理や風俗、起こった事件をよく知っていたことは論をまちません。
そもそもこの屏風の主題や画面の形式が、今や又兵衛その人の作品と認められて国宝にも指定された先の舟木本「洛中洛外図屏風」(東京国立博物館蔵)と共通する事実は、30年も前に指摘されていたことなのです。
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