将軍・家治が没し、意次が収賄の疑いで罷免されたとき、栄之の浮世絵師になろうという気持ちは決定的になったにちがいありません。意次一派と見なされていた栄之にとって、田沼一掃後も幕府御用をつとめるのが狩野派だったとしても、その画家になることは、きわめて難しかったしょう。なれたとしても、意次一派と見なされれば将来は暗かったはずです。
翌天明7年には、松平定信が老中になって寛政の改革が本格的に始まりますが、社会の大きな変化を栄之も感じ取っていたことでしょう。事実、定信は意次との関係が深かった木挽町狩野を嫌ったためか、谷文晁という手垢のついていない新進気鋭の画家を、御用絵師として採用したのです。
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