栄之の「栄」は栄川院典信から一字を拝領したものですが、じつはこの栄川院が、かの田沼意次たぬまおきつぐと昵懇じっこんの仲だったんです。また当時の将軍・家治いえはるは、意次の政治経済手法を高く評価し、老中に抜擢し、ほとんど仕事を丸投げしていました(笑)。栄川院やその弟子栄之は、家治・意次グループの一員だったことになります。
もっとも、栄之は旗本ながら政治にほとんど興味がなかったらしく、カタログの「鳥文斎栄之関連年表」をみると、天明3年(1783)の条に「2月、栄之、西の丸勤務となるが10月には職を辞し寄合となる」と書かれています。
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