これらに対し、日比野さんは2001年から刊行が始まった古河歴史博物館編『鷹見泉石日記』(吉川弘文館)や大槻磐渓の手紙などを詳細に読み解いたのです。そして、崋山が泉石像のスケッチを開始したのは天保7年3月ごろであり、3年後の同10年3月ごろピークに達し、天保12年4月15日に完成したと推定したのです。
言うまでもなく、崋山が田原に幽閉されていたときであり、年記は遡及させたものとなります。これによって崋山の画歴における田原蟄居時代の意義は、さらに高まったといって不可なく、この日比野説が定説となっていくことでしょう。
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