2024年5月19日日曜日

世田谷美術館「民藝」4

 

 その後、憧れの水尾氏に会い、一緒に仕事をする機会が与えられた。伝統ある東洋古美術雑誌『國華』の編集を手伝うことになったからである。そのころ氏は編集の実務をほとんど一人でこなしていた。それは著作から想像していた才人のまったく異なる一面だった。そして十何年か振りに、ふたたび國華社で毎週お会いするようになったころ贈られたのが『評伝 柳宗悦』である。若き日、氏は日本民藝館の館務を手伝い、晩年の柳宗悦に親炙した。柳に関し、すでに多くの著作がある水尾氏であったが、柳宗悦全集の編集を通して全容再考の必要を感じて成ったのが本書である。思想に対する尊敬以上に、人間に対する仰望があふれていて、読むものに嫉妬の情さえ起こさせる。

 水尾氏の美学はうらやましいほどに高踏的であり、文章は流麗であり、行動はお洒落である。デビュー詩集『汎神論』に、水尾賛を寄せた川崎洋の「君はいつも澄ましている」にそれは象徴されている。


2024年5月18日土曜日

世田谷美術館「民藝」3

 

学生時代に最も愛読した――というより最も愛用した水尾氏の著作が『古都の障壁画』である。真珠庵から養源院まで京都の十五カ寺が取り上げられ、障壁画の筆者問題が意欲的に論じられている。それは足と眼で書いた本だった。近世の日本絵画に興味を感じ始め、障壁画を見て回っていた私にとって、最良の案内書であった。水尾氏初期の著作としては、毎日出版文化賞を受賞した『デザイナー誕生』を挙げるべきかもしれないが、カバーも擦り切れている『古都の障壁画』の方が思い出深い一書なのだ。

水尾氏はみずからを美術史家と規定しているが、美術批評家としても個性的だ。この方面で最も強く印象に残るのは『美の終焉』である。「美は速やかに失われつつある」という認識に、以前は反発も覚えたものだが、最近では腑に落ちるところが少なくない。氏は再生のための指針も示して、将来に希望を託している。


2024年5月17日金曜日

世田谷美術館「民藝」2

 

 民藝――それは僕にとって、水尾比呂志先生と分かちがたく結びついています。原始美術から現代美術まで、これが本当に一人の仕事なのかと疑わしめる水尾先生ですが、もっとも重要なジャンルの一つに民藝があります。これにも膨大な著作がありますが、「僕の一点」をあげるとすれば『評伝 柳宗悦』ですね。最初単行本として出されましたが、間もなく「ちくま学芸文庫」に収められて手に取りやすくなりました。

これを含めて水尾先生のマイ・ベストスリーを、毎日新聞(20061224日)の「この人・この3冊」というコラムに書いたことがあります。丸谷才一先生から求められたものですが、ここに再録し、202213日、享年91をもって白玉楼中の人となられた水尾先生のご冥福を改めて祈りたいと思います。

2024年5月16日木曜日

世田谷美術館「民藝」1

 

世田谷美術館「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」<630日まで>

 大阪中之島美術館→いわき市立美術館→東広島市立美術館と巡回してきた特別展が、いよいよ世田谷美術館へやってきました。最近の展覧会としては、チョッと渋い表紙のカタログから、まずは「ごあいさつ」の一部を紹介することにしましょう。

1926年に思想家・柳宗悦らが提唱した民藝は、生活文化運動として発展するとともに、この100年の間に、時代ごとの社会背景と共鳴し、度々取り上げられ、注目を集めてきました。とりわけ近年、エシカル消費に対する意識や、日々の生活を見直す需要が高まったこともあり、暮らしのなかにある美を慈しみ、素材や作り手に思いを寄せる、この民藝のまなざしは、私たちの生活に身近なものとして再認識されています。本展では、民藝について「衣・食・住」をテーマにひも解き、国内のみならず世界各地で柳らが集めた美しい品々役150件を展示します。改めてその源流を知り、民藝が提示する美の基準を知ることで、私たちの生活を豊かにするヒントにつながる機会となれば幸いです。また、柳没後の民藝運動のひろがりとともに、今に続く民藝の産地を訪ね、そこで働く作り手と、受け継がれている手仕事を紹介します。

2024年5月15日水曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」12

 

琉球塗板屏風「山水図」

  青葉 繁れる喬木が 千本 万本 描かれてる

  その青い峰さえいつか 白髪頭しらがあたまになるのだろう

  麓ふもとを故老が笠かぶり どこかへ帰って行くらしい

  その行路には太鼓橋たいこばし ごときアップとダウンとが……

2024年5月14日火曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」11

 

もう一つ「僕の一点」に「琉球塗板屏風」を挙げて、妄想と暴走を披露したかったのですが、それはまたの機会にゆずり、今回は裏面一扇の上下に描かれる「騎驢図」と「山水図」を取り上げ、賛の戯訳だけを紹介することにしましょう。「騎驢図」を選んだのは、やはりお酒が登場するからなのかな()

 ロバで行くのも歩くのも いくら力んでやったとて

 天地は無限に広いから 遅速の違いがあるでなし

 だからのんびり酒を酌み 詩を詠み俗塵 逃れよう!!

 そうすりゃ気持ちも晴々と 爽快になる――昔から

2024年5月13日月曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」10

 

実をいうと、はじめて僕に山上憶良の絶唱「いざ子ども早く日本やまとへ大伴の御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ」を思いつかせたには、この友松屏風だったんです。浜松図屏風には珍しい橋が、わが国と中国を結ぶイメージに、あるいは象徴性をこめた虹の橋に感じられたからでした。『万葉集』を愛して止まなかった智仁親王は、もちろんこの一首をよく知っていたことでしょう。というわけでこの和歌を、浜松図という画題全体に敷衍させてみたくなったんです。

ところが、この「近世の御所を飾った品々」展のカタログによると、本屏風の制作年は慶長10年(1605)となっています。ということは、ちゃんとしたドキュメントがあるような感じがします。そうなると、これまで述べてきた私見は慶長6年制作という前提に立っていますから、またまた独断と偏見ということになっちゃうのかな()


2024年5月12日日曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」9

贈られる智仁親王自身が一品、つまり鶴なのですから、鶴を描いたらダブってしまいます。連句でいうベタ付けになってしまいます。友松は浜松図を描きながら、松から一品大夫を、波から一品当朝を連想させて、智仁親王の一品叙位をことほいだのでしょう。智仁親王を慶賀すべき一品大夫と一品当朝を同時に表象するような画題は、浜松図をおいて他になかったといってもよいでしょう。

あるいは鶴に代えて、同じ鳥類である浜千鳥を配したのかもしれません。浜千鳥は古くから筆跡、さらに手紙の寓意にもなってきました。和歌では浜千鳥に「あと」「あとなし」と続けられることが多いので、あと→跡→筆跡という連想を生んだからです。和歌や連歌を好み、細川幽斎から古今伝授を受け、古典の書写に情熱を傾けた能筆家・智仁親王には、鶴より浜千鳥の方がふさわしかったことでしょう。

 

2024年5月11日土曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」8

 

一品に叙せられた智仁親王にピッタリの画題ではありませんか。しかし松は描かれていても、丹頂鶴がいないじゃないかって? それがチャンと暗示されているんです。というのは「一品当朝」という謎語画題もあるからです。これまた『東洋画題綜覧』によると、いま述べたごとく一品は鶴ですが、「朝」は朝廷の朝にして「潮」に通じ、海辺の波を描く画題とあります。

鶴は番つがいで複数描かれることもありますが、必ず波とセットになるところがミソです。これは一品の官に昇って、朝廷に出頭する栄誉を祝した画題だというのです。大きく広がる青海波のような銀波のコノテーションが、「潮」を通して朝廷になるんです。

2024年5月10日金曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」7

 

もっとも慶長6年といえば、友松が桂宮家に出入りし始めたころですから、挨拶代わりの自己紹介、ブッチャケていえば売り込み作戦だったかもしれませんが、これは友松のために言わないほうがよかったかな()

当時智仁親王は弱冠22歳、千年の齢を保ちつねに緑を失わないトキワの松が、一品叙位をことほぐにふさわしいモチーフであったことは、改めて指摘するまでもありません。ここで思い出されるのは、「一品大夫」という謎語画題です。

金井紫雲の『東洋画題綜覧』によると、松樹に丹頂鶴を描くのが「一品大夫」です。一品はもともと中国における文官の位で、この位のものの装束には鶴が織り出されていたので、一品=鶴となります。大夫は、秦の始皇帝が松に大夫の位を授けたという故事から松のことになります。


2024年5月9日木曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」6


 友松は晩年、桂宮家を創始した智仁ともひと親王のもとにしばしば出入りし、押絵の注文などを受けていたことが、記録から明らかになっているからです。畏友・河合正朝さんの『友松・等顔』<日本美術絵画全集11>(集英社 1978年)によると、桂宮淑子すみこ関係の記録にある「屏風 浜松之画 友松筆」が、この屏風を指しているとのことです。

智仁親王は後陽成天皇の皇弟、かの桂離宮を造営した教養人でした。本屏風の制作には、友松と智仁親王との関係が推定されてきましたが、慶長6年(1601)智仁親王が親王の位階第一位である一品に叙せられたとき、祝賀の意味を込めて友松が描き贈ったのではないかと僕は疑ってきました。

2024年5月8日水曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」5

もちろん、中世に入れば山上憶良の歌は忘れ去られ、画家や鑑賞者に意識されることなく、記憶の残滓が脳内のどこかに沈殿しているに過ぎなくなっていたことでしょう。

しかし、憶良の歌のDNAだけは伝えられていたように思われてなりません。例えば俵屋宗達の傑作「松島図屏風」(フリーア美術館蔵)も浜松図のバージョンですが、日本絵画としては珍しいほどに気宇壮大、ワビやサビなど微塵もないのですから……。たとえそうでなかったとしても、現代の私たちが憶良の歌を通して浜松図を鑑賞することに、何の不都合があるでしょうか。

 皇居三の丸尚蔵館所蔵の六曲一双屏風は、海北友松の彩管になるやまと絵系屏風の傑作として、古くから高く評価されてきました。落款印章はありませんが、岩や土坡の皴法しゅんぽうをみれば、友松筆であることはいささかも疑いありません。旧桂宮家に伝来した作品であることも、傍証になるでしょう。



 

2024年5月7日火曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」4

 

 しかし浜松図の原点は、『万葉集』巻1に選ばれる山上憶良の絶唱であるというのが私見です。「山上臣憶良やまのうへのおみおくらの大唐にありし時に、本郷くにを憶ひて作れる歌」という詞書きをもつ「いざ子ども早く日本やまとへ大伴の御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ」がそれですね。中西進さんは「さあみんな、早く大和へ帰ろう。大伴の御津の浜の松も、その名のごとく待ち恋うているだろう」と現代語に訳しています。

大伴の御津とは、難波の御津ともいい、大伴の地にあった港で、難波宮のあった上町台地の一角ですが、位置は未詳だそうです。

何と気宇壮大なる一首でしょうか。この大らかな気分が、中世絵巻の画中画や、僕が大好きな里見家旧蔵伝土佐光重筆六曲一双屏風(京都国立博物館蔵)に代表される浜松図屏風に、通奏低音のように流れています。波の向こうの大地には山上憶良が立ち、遠く日本の浜松を思いやっているんです。


2024年5月6日月曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」3

 

ところが訪ねてみると、512日が最終日になっているじゃ~ありませんか。つまり受講生が15日に僕の話を聞いたときには、すでに終っちゃっているんです。よく調べて計画を立てたはずなのに、またまたチョンボをやらかしていまいましたが、どうしようもありません。FBフレンドでもある島谷弘幸館長と畏友・朝賀浩さんに挨拶したあと、ゆっくりと拝見することにしました。

「僕の一点」は何といっても、海北友松の「浜松図屏風」ですね。『新潮世界美術辞典』に「浜松図」を求めると、つぎのように説明されています。

やまと絵系の画題で、海辺の松林を描く。海辺の景は平安時代の名所絵にしばしば描かれたが、伊勢(三重県)や摂津(大阪府・兵庫県)などの海岸を主題としながらも、場所の描き分けはほとんどなく、きわめて概念化されたものであったらしい。

2024年5月5日日曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」2

 

 この新館開館記念展の第3期に当たるのが、312日から始まった「近世の御所を飾った品々」です。カタログに載る「ごあいさつ」の一部を、最初に掲げたというわけです。去年から新生「皇居三の丸尚蔵館」をお訪ねしようと思いながら、ついに今日まできてしまいました。

実をいうと、今年上半期、NHK文化センター青山教室で、下にチラシをアップしたような「魅惑の日本美術展 おすすめベスト6!!」という講座を開いています。その2回目、515日の回に「近世の御所を飾った品々」を選んだので、その準備を兼ねてお邪魔したのです。

魅惑の日本美術展 おすすめベスト6だ!!

講師
東京大学名誉教授・出光美術館理事 河野 元昭
カテゴリー

おすすめベスト6はこれだ!

日本は美の国です。美術のまほろばです。絵画彫刻工芸のシャングリラです。だからこそ、素晴らしい美術展がたくさん開かれ、老若男女を問わず多くの人々に感動を与えて止むことがないのです。それは文字情報とは異なる真の教養を高め、明日を生きるためのエネルギーを心に注ぎ込んでくれます。美術ブログでお馴染みの「饒舌館長」こと河野元昭先生が選ぶ2024年度日本美術展おすすめベスト6だ!で予習をしてから出かければ、もうカタログなんか買う必要はありません(!?)


2024年5月4日土曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」1

 

皇居三の丸尚蔵館「開館記念展 皇室のみやび――受け継ぐ美―― 第3期 近世の御所を飾った品々」<512日まで>

平成元年(1989)、昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機に、それらを保存・研究・公開するための施設として、平成5年(199311月に、宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。その後も香淳皇后や各宮家からの品々が加わり、現在は約2万点の作品を収蔵しています。……令和5年(2023)、当館は開館30年を迎えました。収蔵品の増加と入場者の増大に対応するために施設の拡充をはかり、令和元年(2019)より新館の建設がすすめられ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構へ移管され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。拡張工事は今後も引き続き、全館開館は令和8年(2026)を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展では、当館を代表する収蔵品を、4期に分けて紹介いたします。

2024年5月3日金曜日

出光美術館「復刻 開館記念展」8

 

ネットで調べたら、「蘭陵の美酒」というお酒が売られていましたが、これは李白の「客中行」からヒントを得て、沖縄・石垣島の高嶺酒造所が醸しているリキュールでした。

チョッと脱線してしまいましたが、梅瓶はもともと花瓶じゃ~なく、酒器だったにちがいありません。下がかなりすぼまっていますから、お酒を入れてはじめて安定するのではないでしょうか。益荒男ぶりの吐魯瓶に対して、手弱女ぶりといった感じがします。吐魯瓶には辛口の男酒が、梅瓶にはふくよかな女酒がふさわしいのではないでしょうか。いずれにせよ、花瓶なんかにはもったいない!!と、誰でも思いますよね。

 ヤジ「誰も思わない!! そんなことを思うのはオマエだけだ!!

2024年5月2日木曜日

出光美術館「復刻 開館記念展」7

 

このような器形を一般に「梅瓶」と呼んでいます。梅を生けるのによく用いられた花瓶であるところから、梅瓶と呼ばれるようになったというのが通説のようです。しかしカタログ解説によると、中国の『源氏物語』ともいわれる長編小説『紅楼夢』のなかに、瓶に梅を生けて観賞するシーンがあり、それが「梅瓶」の由来になったそうです。

これが『金瓶梅』だったら、文字どおりピッタリだったような気もしますが……。先に蘭陵の美酒をたたえた李白「客中行」の戯訳を掲げましたが、『金瓶梅』はこの蘭陵の笑笑生なる文人が書いたことになっています。内容から考えても、笑笑生は蘭陵の美酒を一杯やりながら執筆したのかな?() 

2024年5月1日水曜日

出光美術館「復刻 開館記念展」6

 

  蘭陵らんりょう特産この美酒は 鬱金うこんの香りも芳かぐわしく

  あぁ玉杯になみなみと 注げば輝く琥珀色こはくいろ

  ご主人!! 旅するこの俺を 酔わしておくれ存分に……

  そうすりゃ他郷もふるさとも なくなっちゃうさ区別など

 もう一つ、影青――青白磁のゼッピンが出陳されています。「青白磁刻花渦文梅瓶」がそれです。先の「牡丹唐草文吐魯瓶」のような凝りに凝った文様ではなく、6筋の小さな櫛みたいな用具で、幾何学的というか、抽象的というか、リズミカルに渦文を全体に散らしたシンプルなデザインですが、これがまたすごくいい!! 

世田谷美術館「民藝」4

   その後、憧れの水尾氏に会い、一緒に仕事をする機会が与えられた。伝統ある東洋古美術雑誌『國華』の編集を手伝うことになったからである。そのころ氏は編集の実務をほとんど一人でこなしていた。それは著作から想像していた才人のまったく異なる一面だった。そして十何年か振りに、ふたたび國華...