2025年5月25日日曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」5

 

したがって「こもまた大半紙摺りの袋入にして二三月頃まで市中を売あるきたり」(江戸作者部類)という歓迎を受けたが、その結果、「当時世の風聞に、右の草紙の事に付て白川侯へ召されしに、春町病臥にて辞して参らず、此の年寛政己酉七月七日歿」(同)と記されたような経過をたどったのである。それについてなんらの記録もないが、子孫の倉橋家に現存する文書に、「寛政元酉年四月廿四日長病ニ就キ御役御免願ヒ奉リ候処、願之通リ退役仰付ラレ、同年七月七日病死仕候。都合三拾ヶ年勤役仕候」とある。わずか一万石の最低の親藩、白川侯(定信)からのお召し、年寄本役という藩の要職、主君、これらを思い合わせると、春町が困難な立場に陥ったことはたしかで、世人は自殺かとも噂したという。

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