2025年1月31日金曜日

東京国立博物館「大覚寺」10

 「僕の一点」は、やはり初めにあげた狩野山楽の彩管になる「牡丹図」「紅白梅図」の襖絵ですね。この豪壮華麗なるエネルギーに満ちた画面構成、それにもかかわらずいささかも失われていない豊かな叙情的感情、二つの対立する美意識が完全に溶け合って一つの個性美へ昇華していく不思議に幻惑されるのです。

山楽の師永徳とその子光信が世代を超え、最強タッグを組んで創り出したような、金碧桃山障壁画の最高傑作を東京で堪能できる千載一遇の機会がやってきました。

50年にすぎないのに、いや、それゆえにこそ時代の活気が沸騰し、爆発を起した安土桃山時代という日本歴史上稀有な時代の魅力を、この狩野山楽による二つの障壁画が直感的に理解させてくれるのです。しかも興味深いのは、この画家を生み出した安土桃山時代が、逆にこの画家を翻弄し苦しめたというパラドックスです。

 

2025年1月30日木曜日

東京国立博物館「大覚寺」9

 

実はいま開いているNHK文化センター青山教室講座「魅惑の日本美術展 これこそベスト6!!」に、早く本展を選んであったのですが、先日オープン前にミズテンでしゃべっちゃったので忸怩たるものがあり、初日に飛んでいったんです。後期高齢者はたいていラスト近くになっちゃうことが多いのですが() 

内覧会もご案内いただいていたのですが、残念ながら都合により出席叶わず……。それはともかく、ミズテントークができたのも金井さんのお陰、改めてお礼申し上げたいと思います。そして千載一遇ともいうべきこの特別展を、山楽・山雪ファンに、桃山障壁画が大好きなあなたに、広く日本美術に関心を寄せる皆さまに是非お勧めしたいのです。

グッズ購入者で大混雑の表慶館ハロー・キティ展を横目に見て、先ずは平成館へ!!


2025年1月29日水曜日

東京国立博物館「大覚寺」8

 

 弘仁元年(810)、嵯峨天皇は風光明媚なる嵯峨の地に嵯峨離宮を造営しました。天皇は弘法大師から勧められると、持仏堂に五大明王像を安置し、大飢饉が襲ってくるとみずから般若心経を書写してここに納めました。天皇崩御後の貞観18年(876)、淳和天皇の太皇太后となっていた皇女・正子内親王は、父と夫の遺徳を長く伝えるため、第二皇子の恒貞つねさだ親王――法名・恒寂ごうじゃく――を開山に迎えて寺号勅許を賜り、ここに大覚寺を開創したのです。

したがって来年令和8年(2026)は、大覚寺開創1150年を迎えることになります。「旧嵯峨御所大覚寺――百花繚乱 御所ゆかりの絵画――」は、この節目を記念しことほぐ特別展なのです。

本展を担当したのは金井裕子さん、先日みごとなキューレーションに感を深くしながら会場を回りました。しばらくぶりにお会いしてオマージュを捧げていると、かつて『國華』の原稿をお願いしたことなども思い出されてきたのです。金井さんは豪華カタログにも「百花繚乱――大覚寺をめぐる美術」という力作を寄せて、錦上花を添えています。


2025年1月28日火曜日

東京国立博物館「大覚寺」7

 

嵯峨天皇「内史貞主が『秋月歌』に和す」(続)

  木の葉みな散る洞庭湖 暮れてしまった――秋はもう

  夷狄いてき防御に出征の 夫つまは帰るの忘れたか?

  こんな月夜に妾わたしだけ この高殿に座ってる

  思いを胸に月みれば あぁ悲しみに耐え切れず

  くさむら露にしとど濡れ 真夜中しだくコオロギと

  明け方に吹く風に乗る 砧きぬたの声を聞いている

  明るい月は年ごとに 清らな色を変えないが

  これを眺める人だけが 年ごと白髪を増やしてく

  竹 映る窓 人気ひとけなく 物音さみしく寒々し

晩秋――ものみな頼りなく 人影まばらな柳の門

仙薬 盗んで月界へ 逃げた姮娥こうがの真似できず

ねやから月を眺めては わびしい独り寝 恨んでる

*唐の閨怨詩はほとんど男の空想ですが、それをさらに日本の天皇が想像して詠むという、きわめてソフィストケートされたというか、爛熟の極みというか……。これも一種の本歌取りかな()


2025年1月27日月曜日

東京国立博物館「大覚寺」6

 

嵯峨天皇「内史貞主が『秋月歌』に和す」

  空は秋の気 月光が 射し込んで来る静かな夜

  すだれを半ば巻き上げりゃ 満ちた月の輪 眼前に……

  取りすがろうと手を上げて みたって誰もできゃしない

  襟を開いて月影つきかげを 入れても胸まで届かない

  雲がかかって天空に 清き光はわずかだが

  風が雲 吹き払うとき 明らけくなる――見てる間に

  大きな秦しんの鏡のよう 山ぎわ離れ昇ってく

  色は楚国の白き絹 夜も白むかと錯覚す

  どんなに月が欠けてても やがて満ちてく十五夜に……

  この世の人はみな友だ 一つの月の下に居りゃ

  月光――秋に捨てられた 班女はんにょの白き扇のよう

  明月――かつて阮籍げんせきの 帷とばり照らしたのと同じ


2025年1月26日日曜日

東京国立博物館「大覚寺」5

 

嵯峨天皇「江頭の春暁」

  山崎離宮は塵の世の 煩わしさから隔絶す

  枕そばだて聞いている 古き関所の鶏とりの声

  夜が寝間着ねまきを湿しめらせて 知りたり山に近きこと

  旅寝を覚ます瀧の音に 渓たにに近きを悟りたり

  早くも月は西方へ 流れに乗って傾きぬ

  山の中では飢えた猿 暗い夜明けに鳴いている

  季節も物の雰囲気も まだ春めいてはいないけど

  汀みぎわの砂州さすの草だけは 茂ってやろうと構えてる


2025年1月25日土曜日

東京国立博物館「大覚寺」4

嵯峨天皇「左ひだりの金吾将軍藤ふじわらの緒嗣おつぐが『交野かたの離宮に過よぎりて旧むかし          を感おもう作』に和す」

  昔のことを偲びつつ もとの離宮に来てみると

  あまりに寂しい有り様に 涙こぼれて濡れる襟えり

  荒廃した村――家々の かまどの煙も絶え果てて

  荒れた離宮の庭園に 雀や小鳥の声だけが……

  歌舞にぎわったあの辺も 繁るイバラに覆われて

  独りカズラに囲まれりゃ 懐旧の情いやまさる

  以前と同じ花 咲くも 思い出 語る人いずこ?

  空に浮く雲 望みつつ いよいよ痛む我が心

 

2025年1月24日金曜日

東京国立博物館「大覚寺」3

 

 大覚寺の前身である嵯峨離宮――嵯峨院を建てられた嵯峨天皇は、空海弘法大師、橘逸勢とともに平安の三筆として有名です。それのみならず、嵯峨天皇は平安前期における唐文化興隆のリーダーでした。その一環が、漢詩愛好だったのでしょう。

この時代の漢詩は、小島憲之編『王朝漢詩集』<岩波文庫>によって知るだけですが、本書には嵯峨天皇の漢詩が12首も採られています。その作者小伝をみると、「詩100余首が『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などに残り、平安初期(弘仁・天長期)屈指の詩人」とたたえられています。このなかから3首ばかりをマイ戯訳で紹介することにしましょう。

嵯峨天皇「江辺の草」

  淀川べりの春の日に 見るべきものはなんですか?

  若き貴公子思わせる 青々とした春草だ

  光や風は暖かく 草の香りもフレッシュだ

  新生する草――年毎に 見る人だけが老いてゆく


2025年1月23日木曜日

東京国立博物館「大覚寺」2

 

 初めに掲げたのは、いよいよ始まった東京国立博物館特別展「旧嵯峨御所大覚寺――百花繚乱 御所ゆかりの絵画――」のリーフレットから引いた案内文です。最初に僕が大覚寺を訪ねたのは昭和41年(1966)の初夏、美術史研究室の研修旅行に参加したときでした。現在では宸殿の狩野山楽筆「牡丹図」「紅白梅図」襖絵も復元模写に替えられていますが、もちろん当時はオリジナルがはめられていました。

 ですから最初に復元模写を見たときは、ちょっとガッカリしたものですが、文化財保護のためには、致し方ないことでしょう。しかし今回「牡丹図」は18面、「紅白梅図」は8面すべてのオリジナルが、京都の嵯峨から東京の上野へやって来てくれました。とくに前者は寺外初の一挙公開だそうです。 

2025年1月22日水曜日

東京国立博物館「大覚寺」1

 

東京国立博物館「旧嵯峨御所大覚寺――百花繚乱 御所ゆかりの絵画――」<316日まで>

1200年前、都が平安京に移って間もない頃、嵯峨天皇(786842)の離宮として建てられた嵯峨院が大覚寺のはじまりです。空海のよき理解者でもあった嵯峨天皇は、旱魃や疫病の大流行に際し、空海の勧めに従い般若心経を書写し、五大明王を信仰しはじめました。

貞観18年(876)には皇女正子内親王の願いにより寺院に改められ、大覚寺が創建されます。その後、鎌倉時代後期にこの地で院政が敷かれたことから大覚寺統(後の南朝)と呼ばれる皇統が興り、南北朝時代には一時衰退しましたが、安土桃山~江戸時代には御所の一部が移築され、現在の境内が整えられました。

2025年1月21日火曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」15

いま流行の上品な薄味の対極にあるような、濃厚な色と味の関東風、いや「呑喜」風おでん――知っていれば閉店前にもう一度味わっておくべきでした。とくに大好きなダシをタップリと含んだガンモドキを……。

真面目なサントリー美術館の「儒教のかたち こころの鑑」展にあまりふさわしくない話になってしまいましたが、江戸時代だって『論語』は揶揄や笑いのネタに使われました。江戸川柳では……

  足音がすると論語の下へ入れ

 浜田義一郎先生は「町家の子弟も教養のために習う論語を、机に向って勉強しているようだが、じつは開いているだけで、もっと面白いよからぬ本を見ている。そして、足音がするとサッと論語の下へかくす。感心によく勉強していると親を喜ばせる風景である」と解説していらっしゃいますが、スマホのない江戸時代の子どもたちは苦労していたんです()

 

2025年1月20日月曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」14

そこで思い出すのは、東大農学部前にあったおでん屋さんの「呑喜」ですね。長押なげし上の小壁に「論語 孟子を読んではみたが 酒を飲むなと書いてない」と墨痕鮮やかにしたためてあります。「そうなのか!!」と意を強くして駆けつけ3杯、落ち着いたところでその左をみると「酒を飲めとも書いてない」――チャンとオチがついているんです( ´艸`)

しかし「呑喜」さんはもうありません。閉店したのはいつだったかなと思ってネットで調べると、20151225日、128年の歴史に終止符を打ったと書いてありました。もう閉店してから10年――月日の経つのは早いものです。

最初にお邪魔したときはしもた屋風のお店でしたが、やがてそこに鉄筋の立派なビルが建ち、1階でこれまでどおり暖簾を守っていました。ビルになってから味が落ちたという人もいましたが、味音痴のせいかそうは思えませんでした。

 

2025年1月19日日曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」13

 

 「僕の一点」は「桐鳳凰蒔絵酒瓶」(東京国立博物館蔵)ですね。「酒瓶」はシュヘイと読みます。これをサカビンと読むと、儒教ならぬ酒狂になっちゃいます( ´艸`) 高さが45センチもある一対の蒔絵酒瓶です。黒漆の地に精巧な高蒔絵や薄肉高蒔絵を使って鳳凰と桐を表わしています。

安永4年(1775)会津藩第5代藩主・保科容清かたのぶが昌平坂学問所に献納した酒瓶とのこと、江戸時代中期における蒔絵技術の最高水準を今に伝えています。一対の酒瓶がまったく同じデザインになっているので、それぞれ雄と雌の鳳凰を正面に出して並べると、両者が見交わすような構図になるのが愉快です。

昌平坂学問所の歴史を伝える『昌平志』に、挿図とともに記録されていますから、孔子をまつる釈奠せきてんで使われたことは疑いありません。やはり孔子様もお酒が大好きだったのかな( ´艸`)

2025年1月18日土曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」12

とくに支配者がみずからを省みて勧戒の糧とすべき倫理であり、だからこそ東洋で帝鑑図がこのように発達したのでしょう。これを衆庶に強要することは、孔子の望むところではなかったはずです。先に寄せられたような儒教批判が当たっているとすれば、それは徳川幕府のやり方が悪かったのであって、儒教そのものに罪はなかったと思います。

たとえそうでなかったとしても、僕にとっての『論語』は自省の契機であって、その基準を学生に強いるようなことはゼッタイなかったと思います。だからこそ儒教からも大きな影響を受けた貝原益軒の名言、「聖人を以てわが身を正すべし、聖人を以て人を正すべからず」をマイ人生訓にしているんです。

ヤジ「エエカッコシイとはこのことだ。このあいだ若者は『論語』を読んで敬老精神を養うべきだなんて言ってたのは、ほかならぬオマエじゃないか!!

 

2025年1月17日金曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」11

 

 この「儒教のかたち こころの鑑 日本美術に見る儒教」展を「饒舌館長ブログ」にアップし始めると、何人かの饒舌館長ファン(?)の方から儒教批判が寄せられました。儒教とは身分制度を固定化する制度であり、それゆえに支配者にとって都合のよい哲学であり、民主的な社会の発展にとって害毒となる倫理であるというのです。

先に埴輪を死生観から考えたときに拠り所とした本居宣長が、漢意からごころの象徴ともいうべき外来の思想として、また本来日本人が愛したもののあはれとは相容れない価値観念として儒教を嫌ったことを教えてくれた方もいます。

これらの批判には一理ありますが、儒教は人間一般に通用する真理ではなく、あくまで個人的な教訓であることは、チョッと『論語』を読んでみればすぐ分かることでしょう。したがって一人ひとりが、自省のために参考とすべき拠り所なのではないでしょうか。


2025年1月16日木曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」10

一方、葬送儀礼についても我が国に大きな影響を与えた中国や槿域(朝鮮)では、殉死や殉葬が確実に行なわれていました。これまた『古墳と埴輪』が教えてくれるところです。内藤湖南にしたがって、当時日本に「忠」の思想がなかったか、あるいはあっても希薄であったことに、その理由を求めることができそうな気もします。

また『古墳と埴輪』は、この「儒教のかたち こころの鑑」展を鑑賞する際の興味深いヒントも与えてくれるようです。和田晴吾さんは古墳時代中期中葉の人物・動物埴輪による表現が、他界の屋敷における生活の再現であると考えるのですが、それは父系イデオロギーに基づく男性優位の支配者が営む生活であるというのです。

これは『日本書紀』によると応神天皇16年、百済くだらから王仁わにが渡来し『論語』等を伝えたという話を思い起こさせる――つまり無関係ではないだろうという指摘です。ここで「儒教のかたち」展と「はにわ」展が一気に結びつくことになります。チョッと無理やりだったかな()

 

2025年1月15日水曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」9

 

この内藤湖南忠孝説を知って興味深いのは、我らが古代における殉葬(殉死した人を葬る儀式)の問題です。先に東京国立博物館特別展「はにわ」を紹介した際、和田晴吾『古墳と埴輪』<岩波新書>を紹介しましたが、本書によると弥生・古墳時代には確実な殉葬の例がないそうです。もちろんこれは見つかっていないという意味であって、絶対なかったとは断言できないでしょう。

 事実、かの『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき大いに冢つか・ちょうを作ったが、その径は100余歩、殉葬された奴婢は100余人であると書かれています。もっとも相手が卑弥呼ですから、この一節にもさまざまな解釈が唱えられていますが、殉死者がいたことは否定できないでしょう。しかし、確実な殉葬の例が見つかっていないという事実を重視すると、殉死はきわめて稀なケースであったのではないかと疑われます。


2025年1月14日火曜日

揖斐高『江戸漢詩の情景』7

 

 かつて陸游のネコ詩が知りたくて買った『陸游集』(中華書局)からも、一首抜いておきましょう。巻17に載る「題斎壁 四首」のうちの一首です。「秧馬おうば」は田を耕す時これに乗って使う農具だそうです。これは夏の詩ですので、正月凧詩の最後にはあまりふさわしくなかったかな()

  会稽山かいけいざんは千歳ちとせ経て 今なお緑 美しく

  山の下には浮かんでる 釣り船 一艘 見つけたり

  五月の川水おだやかに 岸に生えてる香り草

  手に取れそうな鱗雲うろこぐも 夕日に染まる大空よ

  村長むらおさ追って出かけると 秧馬の農夫をながめてる

  子どもを連れて帰り来て 一緒に凧揚げ興じてる

  君よ見たまえ!!この漁夫の ストレス絶無の生活を

  だから言ってはなりませぬ 「世に仙人などいやせん」と!!


2025年1月13日月曜日

揖斐高『江戸漢詩の情景』6

 

陸游「村童の渓上に戯たわむるを観る」

  雨があがってすれすれに 堤を流れる渓たにの水

  晴れた夕暮ながめてる 遊ぶ子供をのんびりと

  竹馬の子はぬかるみを 物ともせずに駆け抜ける

  我が物顔に大空で 風をはらんで唸うなる凧

  そんな子供も冬来れば 村の私塾へ通わされ

  親父おやじについていっせいに 畑を耕さねばならぬ

  字なんか年貢の命令書 読めればそれで十分で

  高位高官 苦労して 目指そうなんて愚の骨頂


2025年1月12日日曜日

揖斐高『江戸漢詩の情景』5

 大好きな南宋のネコ詩人・陸游も、ずいぶん凧をモチーフにしているようです。これまた尊敬する一海知義先生が編集した『陸游詩選』(岩波文庫)から、2首のマイ戯訳を加えて終ることにしましょう。さすが不羈慷慨の愛国詩人、我らの六如慈周や柏木如亭が懐旧の情のうちに、あるいは叙情のうちに凧を詠むのとはチョッとちがった詩趣が感じられます。

陸游「春日雑興 十二首」其の三

  小さな甕かめには米がある――当分 飢えはしないだろう

  竹馬たけうまに乗り凧を揚げ 遊ぶ子供をながめてる

  高級役人 清廉せいれんで 下級役人 謙虚なら

  舞えや歌えの喜びに 包まれるだろう村中が

 

2025年1月11日土曜日

追悼ピーター・ヤーロウさん2

 

 


 もう10年も前の京都美術工芸大学時代、ライブラリアンの森一朗さんと「ウッディ・リヴァー」なるフォーク・デュオを結成、学園祭でデビューするべく練習を重ねていました。するとボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するというニュースが飛び込んできました。そこで急遽ディランの傑作「風に吹かれて」を加えることにしたんです。それまで予定していなかったんですが……。

とはいえ僕たちが改めて聴いたのは、ディランのオリジナルじゃ~なく、PPMがカバーして日本でも大ヒットした「風に吹かれて」の方でした。PPMに遠く及ばずとも、ウッディ・リヴァーがこれを歌い終わったときのヤンヤの喝采ーーウソかホントかは、風に訊いてみてください( ´艸`)

昨日の夜は、しばらくぶりに僕のチープなフォーク・ギターをケースから引っ張り出し、「風に吹かれて」と、ゴードン・ライトフットの名曲をPPMがカバーし、これまた大ヒットした「モーニング・レイン」を歌って、ピーター・ヤーロウさんの冥福をお祈りしたことでした。

2025年1月10日金曜日

追悼ピーター・ヤーロウさん1

 ピーター・ポール&マリー(PPM)のピーター・ヤーロウさんが亡くなったことを昨日の『朝日新聞』で知りました。7日、ニューヨーク市の自宅にて86歳で亡くなったそうです。この記事には書いてありませんでしたが、ピーターさんは日本美術が大好きなミュージシャンでした。ご逝去を悼み、心からご冥福をお祈り申し上げたく存じます。

 60年ほど前フォークソングが好きな若者で、PPMにあこがれなかった人はいないでしょう。だからこそ、たくさんのフォロアーやコピーバンドが生まれました。小室等さん率いるそのものずばりの「PPMフォロワーズ」もその一つでした。

 小室さんが書いた教則本でPPMのスリーフィンガーを練習したにもかかわらず、結局ものにならなかったのは僕一人じゃ~なかったでしょう。大好きなPPMコピーバンドHeart Streamについては、何度かこの「饒舌館長ブログ」でオマージュを捧げたように思います。 

2025年1月9日木曜日

揖斐高『江戸漢詩の情景」4

六如「春寒」

  花の便りが聞こえても まだ寒風が吹き止まず

  老いた俺にはあったかい 炬燵こたつにまさるものはなし

  遠くの空に揚がる凧 放つ唸うなりを頬杖ほおづえ

  つきつつ聞けば幼少の 楽しかった日 思い出す

 

2025年1月8日水曜日

揖斐高『江戸漢詩の情景』3

柏木如亭「春興」

  梅見の季節になったけど 酒なくもちろん金もなし

  やむなく南の縁側で 日がな一日 居眠りを……

  表通りで子供らが 騒ぎ出したと思ったら

  空で尾っぽが切れたのか 凧が小庭に舞い落ちる

 

2025年1月7日火曜日

揖斐高『江戸漢詩の情景』2


 六如「春寒、戯れに作る」

  何度か梅見に出んとして 出かけていません余寒ゆえ

  読み止しの本 手にしつつ 火鉢かかえて転寝うたたねを……

  やがて鼾いびきが始まると これ幸いと我が侍童じどう

  裏の庭へと走り去り 凧を揚げるに無我夢中


2025年1月6日月曜日

揖斐高『江戸漢詩の情景』1

揖斐高『江戸漢詩の情景――風雅と日常』<岩波新書>

 このお正月は、尊敬して止まぬ揖斐高さんから贈られたご著書『江戸漢詩の情景――風雅と日常』を楽しみながら、もちろん勉強もさせてもらいながらのんびり過ごしました。お屠蘇や頂き物の「鄙願」「白星」「水尾」をやりつつ……。僭越ながらさすが揖斐さん、知識の泉なることは言うまでもなく、示唆的で面白いことはこの上なしです。

美術を含む江戸文化、漢詩文学、日中比較文化に興味をもつ方に、ぜひお勧めしたい名著です。そればかりじゃ~ありません。「寿命と歎老」「犬派猫派」など、今様ジャーナリズム的テーマもチャンと盛り込まれています。「西施乳と太真乳」というのはチョッと梯子外しかな() お正月にちなんで「凧の揚がる空」に採られる3首を、例によってマイ戯訳で紹介することにしましょう。

2025年1月5日日曜日

インターメディアテク「写真家立木義浩×東京大学」3

会場に入ると立木義浩さんのオリジナル写真が展示されており、チョッと離れた独立ケースに被写体となった剥製が置かれていました。

年賀状に彫ろうと思っている珍鳥の本物が、剥製とはいえ本物が、その前日わが眼前に飛来してくるとは!! これがシンクロニシティでなくって何でしょうか。田中一村の魂魄が、インターメディアテクへ僕を誘導してくれたとしか思えませんでした。

もちろん年賀状は「初夏の海に赤翡翠」をほとんどそのままパクッたので、立木さんの写真や剥製を参考にすることは特にありませんでした。しかし田中一村が奄美のアカショウビンを見て感動し、あの傑作を生み出したんだと思うと、握る彫刻刀にもおのずから力が入ったのでした。

 ヤジ「その割にはあまりパッとせん出来映えだな!!

 

2025年1月4日土曜日

インターメディアテク「写真家立木義浩×東京大学」2

立木義浩――僕にとっては神みたいな写真家です。これまた神みたいな山口百恵の早すぎる自叙伝『蒼い時』の巻頭に、執筆中の彼女を撮った、筆舌に尽くしがたきモノクロ写真があります。

『蒼い時』にプリントされたただ一点の写真ですが、これを撮ったのが誰あろう、立木義浩さん――写真の下につつましく「photo-tatsuki yoshihiro」と書かれています。神のような山口百恵の、神のような写真を撮ったわけですから、僕にとって神みたいなフォトグラファーなんです。その立木義浩さんの写真展が、驚くことに無料なんです!! 

ところが、その入口に貼ってあるポスターを見てさらに驚きました。明日彫ろうと思っているアカショウビンがメイン・イメージになっていたからです。

 

2025年1月3日金曜日

インターメディアテク「写真家立木義浩×東京大学」1

 

インターメディアテク「写真家立木義浩×東京大学 in Vitro? In Vivo!<119日まで>

実は田中一村「初夏の海に赤翡翠」のパクリ年賀状にも、シンクロニシティがあったんです。これを作る前日、出光美術館の納会に出ましたが、千駄ヶ谷で夕方から始まる飲み会まで時間があったので、しばらくぶりに近くのインターメディアテクへ出かけてみました。

インターメディアテクの正式名称はJPタワー学術文化総合ミュージアム――日本郵便と東京大学総合研究博物館がコラボレーションを組んだ博物館です。KITTEビル(旧中央郵便局)の23階にありますが、マンションのメゾネット式みたいになっています。

エスカレーターで2階へ、常設展示を見終わって階段を3階へ上っていくと、「写真家立木義浩×東京大学 in Vitro? In Vivo!」という特別展をやっているではありませんか。


2025年1月2日木曜日

2025謹賀新年2

 

一村の画歴上こんな重要な節目の新春に、「初夏の海に赤翡翠あかしょうびん」を汚すような年賀状を作ってしまいましたが、どうぞお許しください。ところで、僕が今のスタイルでモノクロ年賀状を彫り始めたのは昭和51(1976)、これまた半世紀の節目を迎えました。

 ヤジ「田中一村をダシに使ったりするな!! 《初夏の海に赤翡翠》をパクッた上に!!

僕は小さいころから何となく絵が好きで、高校では美術部に入ったりしていました。しかし仲間の作品を見ると、コリャ~とても勝負にならんと思い、人の描いた絵を批評する――有り体にいうとケチをつける方に回ったんです。

というわけで、年に一度の自刻自摺年賀状が青春の思い出につながっているんです。先日の朝日歌壇には、我が同朋ともいうべき石黒紀夫さんという方の佳吟「来年の賀状いつもの木版画年に一度の小さな個展」が選ばれていましたが、石黒さんにとっても青春の思い出なのかもしれません。もっとも僕の場合は、青春の残滓という方が正しいかな()


2025年1月1日水曜日

2025謹賀新年1

 

 明けましておめでとうございます。本年も「饒舌館長ブログ」をよろしくお願い申し上げます。

今年のマイ年賀状は、田中一村の傑作「初夏の海に赤翡翠あかしょうびん」(田中一村記念美術館蔵)をパクりました。去年、東京都美術館で「不屈の情熱の軌跡 田中一村展 奄美の光 魂の絵画」を見たとき、すごい画家だなぁ、俺には真似ができない生き方だなぁと感を深くするとともに、来年の年賀状はこの奄美一村でいこうと決めたからです。

はじめて田中一村を世に知らしめた中野惇夫さんの『アダンの画帖 田中一村伝』に添えられた年譜を見ると、一村が初めて四国、九州をスケッチしながら旅行し、種子島、吐カ喇列島まで足を延ばし、南海の自然に魅了されたのが昭和30(1955)47歳のときでした。今年は昭和100年ですから、奄美一村が誕生する直接の契機となったこの四国九州旅行から数えてちょうど70年の節目にあたっています。