魯山人も一時期中国趣味に染まっていたわけで、「中国なら牢屋でも……」というのは、浅草から品川に引っ越し、これで少し中国に近くなったといって喜んだ江戸の儒学者を思い起こさせます。
この7か条には出てきませんが、もう一つ、この二人の一致したのが民芸派に対する嫌悪だったことも興味深く感じられます。いや、「昔の作家は、今日吾々のいう至上芸術品の中から生れ出たのだ、という事」という一条などは、暗に民芸派を批判しているのかもしれません。
3年ほど前、津郊外の石水美術館を訪ねて半泥子の作品を堪能したことがあります。その印象は旧ブログ「おしゃべり館長」にアップしましたが、「僕の一点」には、「かまつけば窯の中まで秋の風」という自賛をもつ「千歳山真景図」を選びました。
真景図とはいっても、松の木だけを淡彩で描いた作品です。尾形乾山に傾倒し、僕も大変お世話になった『乾山考』を著わした半泥子が、その兄光琳の「松図」(川端康成記念館蔵)を見る機会に恵まれ、インスピレーションを得た作品だったのではないでしょうか。
そのとき当然手に取るべき本書を読まずに済ましてしまったので、忸怩たるものがありましたが、今回、積年にわたる喉のつかえが一気に取れたような感じで、本当にスッキリしました。また、改めて半泥子に対する尊敬の念が高まったことでした。
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