しかしそこには、これなら言われた方も本当に怒るヤツはいないだろうなぁ、みんな苦笑いをしながら、そのままにしちゃうだろうなぁと思わせるユーモアが含まれています。毒舌にはちがいありませんが、どこかカラッとしていて気持ちがいいのです。
序文を寄せた多田利吉は、「法師の文章は明暢、平淡、すらすら読めて晦渋がない。春光和照の滋味もあれば、秋霜烈日の骨もある。気が利いていて嫌味がなく、諧謔があって下品でない。降魔の劔はあっても毒矢を番えない」と述べていますが、まさにその通りだという感を深くします。
だからこそ、「西の半泥子」は「東の魯山人」をあんなにコケにしたのに、二人は胸襟を開く友となることができたのでしょう。「北大路さん」という一章を読むと、お互いを許しあっていた二人の関係がよく分かります。「天才は天才を知る」とはこのことだと、うらやましくなります。もしこれが陰湿な悪口やネチネチした批判だったとしたら、さすがの魯山人も、絶交状をたたきつけたことでしょう。
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